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第2章_謎の香り_第8話_野本家へ

◇ 「今日からお世話になります、相原です」 「よろしく、社長の鍵崎です。田崎とは一度面談してもらってるよね? こっちはもう一人の副社長の果貫。ガイドのトップだ。君は内勤を希望していたから、田崎のところで研修を受けて貰う。頑張ってくれ」 「はい、ありがとうございます。高月をスカウトされたのに、私も連れて来ていただいて、感謝しています。よろしくお願いいたします」  相原哲(あいはらさとし)はそう言うと深々とお辞儀をした。彼は高月肇と同じクリニックに勤めていたカウンセラーで、タワーから直接雇われていた国家公務員として働いていた。  そこは能力者のケアを目的としたクリニックであるため、基本的にはガイドが雇用されているのだが、ケアの前段階ではセンチネルがクライアントと面談をする。  そして、軽微なゾーンアウトの場合はクライアント自身がクリニックに電話をすることでガイドを派遣していたのだが、その到着までの時間を稼ぐために、彼らは当番制で窓口を受け持ち、話し相手をするという仕事もこなしていた。 「あのクリニック、ブラックで有名だったらしいな。君たちと入れ替わりに入る人員の確保と、経営についての相談の請負まで話をつけて来たから、何も心配することは無いよ。全部田崎に任せておけばいい。あいつなら容赦なく立て直してくれると思うから」  俺がそう言うと、相原はうっすらと目に涙を浮かべた。そして、 「はい」  と嬉しそうに答える。  (すすぐ)の件は早急な対応が必要だと思われ、今朝早くに田崎が高月を引き抜くために先方に挨拶に向かった。  ちょうど対応してくれた相原が応接室へ彼を案内しようとしたところ、田崎の目の前で突然倒れてしまったらしい。話を聞いてみると、毎日のように相当な量の業務を押し付けられていたらしく、慢性的な寝不足が続いていた。  そのために、ずっとゾーンアウト寸前のような、神経がヒリついた状態が続いていたらしい。その劣悪な労働状況を見かねた田崎が、独断で相原もうちに連れて来てしまったのだ。  田崎の配下に入れるのであれば、人を連れてくる分には問題ない。あとは三人で協力して事後処理をするだけだ。 「ここは俺と蒼がいるから、特例処置はいくらでも出来るんだ。君がいたクリニックの院長も、俺の口からタワーに告げ口でもされたら大変だって分かってるだろう。まあ、しばらくはここでゆっくり働きなよ。もちろん、ずっといてもらっても構わないよ」  うちの会社は、民間企業としての能力者派遣業者としては国内最大のシェアを誇る。そして、所属する能力者の半数が一般センチネルとしてのレベルの上限を超えている。  そのトップにいる俺は、タワーの中でも顔がきく。センチネルが転職をしようとする時には、俺から人員の入れ替え等の提案をすれば大体うまく行くようになっている。  今回も肇が担当していたクライアントを引き継ぐために、うちから入替の人員を用意する事で双方納得の上で話がついた。  家庭の事情で現場へ出られなくなったセンチネルをカウンセラーとして雇用してもらい、定時退社と夜間対応は無しの条件付きで働かせてもらう事になった。  そして、夜間対応はうちに来ている学生のアルバイトセンチネルたちをあてる。電話の取次と時間を稼ぐくらいのスキルなら、彼らにも身についているからそれで対応は可能だ。  そもそも、肇の転職は祈里へついて行くためのものだ。それは彼の個人的な事情では無い。  二人は恋人であると同時に、能力者として国からを求められているという、稀なペアだ。  パートナーが少しでも負担を強いられる場合は、必ずそばにいなくてはならない。肇はそのために仕方なくうちへ転職して来た、ということになっている。  そうなると、全てを国からお膳立てしてもらえるのだ。うちは費用面での補助を求めていないため、タワーからの指示だという書面だけを出してもらった。  そうすることで、うちで働くことが難しくなり、辞めるかどうかで頭を悩ませていたセンチネルの悩みを解決しながら、肇と相原の問題、クリニックの経営回復という問題も同時に解決される見込みを持つ。複数の問題を片付ける好機となった。  そういうわけで、肇と相原の転職活動は、俺の思いつきの翌日にはあっさりと終了した。 「おはよう。相原くん、内勤のスタッフたちに紹介するから、こちらへ。翠、今日は野本へ行くんだろう? 早く行けよ。あいつの地元、今ペットが惨殺される事件が多発してるらしい。そういう時は、殺人事件が起きる確率が上がるだろう? 新人が同行するから、なるべく日が暮れる前に向こうを出ろよ」  そう言いながら、田崎はタブレットにペット惨殺に関する捜査が行われているという情報を表示した。それはここ数ヶ月の間に突然始まった事らしく、地元では日が暮れたら外出はなるべく控えるようにと注意喚起されているらしい。 「おう、分かった。とりあえず英子さんに挨拶をして、野本家の様子を確認してくるよ。それが終わったらすぐ戻るから」  そう答える俺の手のひらに、「おう」と言いながら田崎は小さな機械を乗せる。俺はそれを慣れた手つきで口の中へ放り込むと、右の奥歯へと固定させた。  それは、事務所で待機しているミュートスタッフと連絡をとるための通信機だ。電話をすることが出来ない時に、噛み締める回数で連絡を取る事が出来るようになっている。  危険性が高い現場へ向かう時や、事務所からすぐに駆けつけられないような遠い場所へ行く時には必須だ。 「心配はしていないけれど、一応つけておけよ」  田崎の言葉に、俺は短く三度奥歯を噛み締めた。それはを意味する。 「じゃ、行ってくる」 「ああ、気をつけろよ」  田崎の言葉に、ひらひらと手を振る。そして、部下を引き連れて、山間にある野本家へと向かった。 ◇ 「わー、めっちゃ涼しい。やっと風が気持ちいいねって言えるようになりましたよね」  鉄平が運転するワンボックスカーの助手席で、翔平が呑気な声を出す。 「そうだねえ。今年の夏は長かった……。潜入中に熱中症で死にかけた思い出しかないよ」 「本当だよな。涼しくなってくると逆に潜入の依頼はパタっと来なくなったもんな。今なら余裕でやれるのに」  その言葉に、咲人が割って入ってくる。彼は後部座席の真ん中に座り、その隣の野本にもたれかかるようにしていた。昨夜はかなり泣いたらしく、いつも大きく爛々としている目が、腫れ上がって痛そうだ。 「お前と翔平は女装しないといけないから、他のセンチネルに比べてその分大変になるよな。今年から俺が入ってやれなくなってるから、お前と翔平だけに負担が偏ってるだろう? すまん」 「まあ、お前も臨時のアシスタントとはいえ、政治家秘書をしながらだからな……。今年の夏は異様に潜入捜査の依頼が多かったんだ。普段なら俺にまで現場が回ってくることは無いぞ。翔平は毎年大変だけどな」 「あはは、そうですね。正直言うと、夏は毎年結構憂鬱です。大体パーティーに潜入とかですけれど、たまに水着で海に行けと言われたら、正直準備だけで死にそうに疲れます」  翔平はそう言うと、後ろを振り返り困ったように笑った。確かに、水着になるには色々と準備が大変だ。考えるだけで疲れてしまう。それを毎年やってくれている彼には、正直頭が上がらない。  うちには今、女性センチネルで潜入出来るレベルの者がいないため、俺と翔平、時に咲人がその代わりに入ることになる。当然メイクもするし、カツラも被る。ただでさえ酷暑続きの毎日に、その状態で狭小スペースに潜り込んだり、女性しかいないスペースにも潜入する必要があったため、色々と制限を加えられて過ごすことになる。そうこうしていると、しばらくはファンデーションを見るのも嫌になっていた。 「毎年ごめんな。いつも現場回してくれてありがとう」  そう言って翔平に頭を下げる。彼は穏やかに微笑みながら、 「お役に立てているなら、嬉しいです」  と言った。続けて、 「そういえば、野本家って昨日俺たちが不審死の調査で向かったところに近いんですね。昨日の調査ではこれと言って何も出なかったんで、また行かないといけないんですよ。その前にまた来るとは思いませんでしたけど……。まあ、もう暑くないし女装もしなくていいから、現場百回になったとしても平気かなあ」  と言う。それを聞いて、鉄平が頬を緩めるのが分かった。  パートナーが女装して危険な場所へと出向くのは、ガイド側としてはとても胃が痛むらしい。だから、蒼はいつもペアで迎える現場に俺を当てるようにと田崎に頼んでいる。  ただ、鉄平と翔平はまだそこまでの権限を持っていない。翔平が一人で現場へ向かう日は、鉄平は事務所で他のセンチネルのケアをしていることが多い。その時、もやもやしている彼を、蒼はいつも気遣っている。 「そういえば翔平、昨日あの現場でなんかいい香りがするって言ってたよな」  その鉄平が翔平に向かって話を振る。  すると、翔平は何かを思い出したのか、パッと明るい表情を浮かべた。両手を合わせて、パチパチと手を叩く。センチネルだらけの車内に配慮した、恐ろしく遠慮ガチな柏手を打った。 「あ、そうだ。あのいい匂いね。あの場所に似つかわしくないような、いい匂い」  そう言って、楽しそうにはしゃいでいる。その顔を見て、鉄平はさらに顔を綻ばせた。 「あの……。ちょっと聞いてもいいですか?」  そこへ俺の隣に座る祈里が、ひょこっと身を乗り出すようにして翔平に尋ねる。翔平はそんな祈里の方へと振り返ると、 「ん? いいよ、何?」  と優しく微笑んだ。 「あ、あの……。それってどんな匂いですか?」  しばらく帰っていない実家の話だ、彼も気になって仕方がないのだろう。シートベルトをギリギリまで引き延ばしながら身を乗り出して、翔平の答えを待っている。 「えっとね、なんかこう……。爽やかなんだけど少し甘いっていうか。よく香水であるような香りなんだよね。ただ、その場には似つかわしくない香りっていうか……。俺たちが担当したのって都市部から離れたところだったんだ。獣が出るような山道。その香りはそこで嗅ぐには不釣り合いな、なんか、こう……、都会的な香りのような気がしたんだ」  と言った。すると、祈里の隣に座る蒼がぴくりと反応する。そして、後部座席の野本の方へと向かって声をかけた。 「なあ野本、それって昨日翠が野本からする香りを嗅いで言ってたのと同じじゃない? なんだっけ、ほら。漱くんが植えてるっていう花の名前」  それを受けて、野本は「ああ」と呟く。そして、そのまま翔平へと呼ばわった。 「翔平さん、今その香りってしてますか?」  車内に、柔らかいけれどもよく通る穏やかな声が響く。  翔平は野本よりずっと年下だが、社内的には立場が上だ。二人が特級のレベル七に上がってから、野本は鉄平と翔平(てっしょー)に敬語を使っている。  部下方の問いに答えようと、翔平は窓の外に広がる木々の向こうへと意識を集中させた。雨上がりの道路に漂う埃や濡れたアスファルトの匂いの先に、その香りを探していく。  しばらくそうしてみたかと思うと、何かを掴んだようで、納得するように小さく頷いた。 「……うん、しますね。爽やかだけど、甘くて都会的な香り。ムスクって言うんでしたっけ? そういう香りありますよね」  それを受けて答えたのは咲人だった。あいつは身だしなみにうるさい男で、香水の類なんかにも詳しい。植物には詳しくないが、昨日の野本の香りがなんであったかを誰よりもよく知っているからか、自信満々で話に割って入って来た。 「あるな。それに……確かに香ってる。ムスクって言われるとよく分かる。なあ、翠。そう言われると、お前にも見つけられるだろう?」  咲人にそう訊かれ、俺は頷いた。探すべき香りが分かれば、すぐに見つかる。それくらい、その香りは山の中には似つかわしくないようなものに思えた。  もとは植物の香りなのだから、こういったところで嗅ぐ方がきっと自然なのだろう。それでも、それに似せた人工香料を都会で嗅ぐ機会が多いからか、俺たちはそれを無意識に都会に似合う香りだと思ってしまっている。 「……ああ、そうか。昨日野本についてた香りってことは、ミチが憧れてる『都会の女』の香りって事だな」  俺がそう言うと、咲人が吹き出した。 「そうだ、そんなこと言ってたな、あいつ」  それを受けて、野本が答える。 「そうですか。あれの香りなら、漱が植えたセージに間違い無いですね」  その答えに、祈里は感慨深げに外を見やった。 「漱が植えたセージの香り……。そうなんですね。見たいなあ、セージの花」  祈里は、そう言って窓の方へと首を伸ばす。蒼が窓を開けてやると、ふわりと舞い込んだ風の中に、その香りがさっきよりも濃く漂い始めた。 「あ、俺にも分かるようになってきた」  鉄平がそう呟く。ガイドたちの鼻にもその香りが届き始めたらしい。蒼もそれに頷き、野本も穏やかな顔でそれを感じているようだった。  しかし、その頃のセンチネルたちは無言のままにとんでもないものを発見していた。  車内を埋めている香りのうちの殆どは、爽やかに甘くて都会的な香りだ。しかし、その向こう側に潜んでいたのは、不穏を知らせる禍々しい香りだ。  翔平、俺、咲人は顔を見合わせる。三人とも、良くない知らせが近づいていることを実感していた。 「……血の匂い、だよな」  ぶつかる視線は、それを否定しない。それで、この先に危険が待っていることは確定した。 ——無事に帰せるか……。  俺は事務所を出る前の、田崎の心配そうな顔を思い出していた。

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