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第2章_謎の香り_第9話_不思議

「……でも、これって動物の血の匂いですよね。ああ、でも家畜とかそういうんじゃないのかな。もっと小さな動物っていうか、……ペット? 犬とか猫とかそういう感じですね」  窓の外に鼻を向けた翔平が、眉間に皺を寄せながら分析していく。俺と咲人もそれに倣い、そしてそのペットの血の臭いと思われるものとこの車とのおおよその距離を測った。  どうやらその発生源は、さっき話していたセージの香りと同じくらいの場所にあるようだ。となると、野本家周辺で血の匂いがしていることになるのだろうか。  それは、セージの花と野本家の距離がどれほどのものなのかによるだろう。田舎の大農家とあって、敷地は膨大だ。 「野本、漱がセージの花を植えてるって聞いた後、実際その花が植えてあることは確認したのか?」  俺の問いに、野本は小さくひとつ頷く。確固たる自信を持った返答が出来るらしく、しっかりとした口調でその答えを返して来た。 「はい、帰り際に母屋の庭に咲いているのを見ました。その時に花に近づいたんです。私からセージの香りがしたのは、そのせいだろうと思います。少し触れたりしましたので」 「そうか。お前、その時家の周辺で動物の血の匂いは感じたか? 今朝田崎から注意を受けたんだ。あの周辺の山裾は、今ペットが惨殺される事件が多発してるらしい。英子さんからそれは聞いてたか?」 「いえ、そんなことは……。ただ、野犬が出るみたいで危ないから、早く帰りなさいとは言われました。どこかで飼われていた犬が捨てられて、生き残った犬が他の小さな動物を狙っているらしいんです。人にも危害を加えるらしくて、心配だからと言われましたね」 「……野犬に襲われる? 惨殺って言うから人間が殺してるのかと思ってたんだが、もしかして犬が食い殺してんのか?」 「私はそう聞いています。でも、そうであれば田崎さんもそうお伝えするはずですよね」 「そうだよな……。田崎が俺に言わないってことは、警察にその情報が渡ってない可能性が高い。それも隠してんのか? 秘密ばっかりだな、今回は」 「……自分たちにとって不利益になることは、徹底的に隠すのが野本ですからね」  そう言った野本の表情は、悲しみに揺れていた。それは祈里も同じで、二人ともおよそこれから実家に帰る人とは思えないほどの緊張の色を見せていた。  そうこうしているうちに、車は野本の敷地へと入る。その手前のカーブを曲がり切ると、眼前からセージの香りが飛び込んで来た。 「うわっ!」  思わず大声で叫んでしまった。  どれほど大量に植えればこんな香りがするのかと驚くような、吐き気を催すほどの花の香りが流れ込んでくる。俺は瞬時に嗅覚を遮断した。 「っ……! すごい、濃い……うっ!」  鉄平が鼻を摘む。ガイドが驚くほどだ、これは低レベルセンチネルにとっては命に関わるほどの濃さだろう。 「あっぶねえ……。なんだ今のは。……三人とも大丈夫か?」  俺の問いかけに、翔平が俺の方を振り返って大丈夫だとひとつ頷く。俺はそれを確認して、後部座席の二人へ目をやった。  咲人はレベルが高いので、おそらく心配はいらないだろう。問題は肇だ。  彼は俺たちに比べれば低レベルのセンチネルで、嗅覚は特に鈍い。それでも、ミュートやガイドよりは鋭敏だ。彼らが無害だと思うものでも、嗅いでしまえば頭痛や眩暈に悩まされる事になる。 「大丈夫か、肇」  青ざめた表情で呆然とする肇に声をかける。嗅覚遮断のトレーニングを受けていない状態で、彼を現場に連れ出した判断は間違っていたかも知れない。俺は焦っていた。  他のセンチネルであれば、パートナーのガイドにケアをしてもらえばいいだろう。しかし、彼は祈里であっても軽いケアでは救うことが出来ない。祈里のガイディング能力は、踊らないと発動しないからだ。彼が踊る場を確保できない場合は、自力で回復せざるを得ない。 「すみません……。少し回復する時間を下さい。一応サプリメントを使えば早く回復できますので……」  そう言ってポケットから何かを取り出そうとする肇を見て、咲人が何かを思い出したようだ。ハッと大きく息を呑むと、彼も急いでポケットを探り始める。 「……肇! ごめん、これを渡すのを忘れてた。晴翔兄さんから預かったんだ。ほら、これ」  そう言って、小さなピルケースを取り出した。 「これは、君の血液から作った君自身のクラヴィーアだ。こんな作り方をしたのは初めてらしくて、突貫で作られたものだ。いつもの精度は望めないけれど、回復を速められるだろうって言ってた。よほどの事が無い限りはきちんと効くそうだ。飲め」  そう言いながらケースを肇の手のひらに乗せた。 「クラヴィーア? 俺専用のものを作って下さったんですか?」  驚く肇に、咲人は自慢げに胸を張る。 「作ったのはバース研究所の所長だよ。俺の兄さんで、翔平の親父ね」  肇は渡されたケースをじっと見つめている。  おそらく、長く望んでいた自分専用の薬を意図せずして手に入れた事を喜んでいるのだが、その状況に頭がついて行かないのだろう。それほどに、彼専用の薬を手に入れることは難しいのだ。  今は、能力者として登録しているセンチネルであれば、自分専用のクラヴィーアがあればゾーンアウトする事はない。それがであった理由は、まさに彼ら……肇と祈里の存在がその理由だ。  彼らは重篤な状況に陥ってしまえば、お互いの存在でしか相手を救うことが出来ない。そして、祈里は肇にいつでも救ってもらえるが、肇は祈里にダンス以外の軽微なケアを受けても、まるで効果が出ないことが分かっている。 「俺、軽微なケアが受け付けられない代わりに、自分で解消出来るように生まれついてるんですよね。祈里に試してもらったことがあるんですけれど、軽い接触くらいでは全くダメなんです。めちゃくちゃ本気で踊ってもらわないと全然効果がありませんでした。だから、どんな時であっても、場所の確保が出来ない場合は自分でどうにかするしかなくて……。地味なダメージでも、あんまり頻繁にその機会が訪れると結構辛いんですよ。カウンセラーをやってたら、命を落とすことはまず無いんですけれど、軽微なケアは割と頻繁に必要でした。快楽だけが唯一その助けになったから、俺はそれを求めてしまって。だから、めちゃくくちゃ遊んでて……」 「……それで、この間みたいなのがいっぱいいたのか?」  無遠慮にそう尋ねる咲人に、肇は苦笑いを零しながら「そうですね、お恥ずかしながら」と答えた。  しかし、俺には分かる。いや、咲人も気づいてはいるだろう。  そのケアの話をした瞬間、肇の体温がぐっと下がった。おそらく、触覚では快楽を拾ってくれていたのだろうけれど、それ以外……特に精神面で辛い思いをしていたのだろう。  それなら、俺にも経験がある。俺が蒼に出会う前までにしていたあの思いを、肇も味わされていたのだろう。そう思うと、急激に親近感が湧いた。 「なあ、肇。そうは言っても、お前はそれを望んでなかったんじゃないのか? ずっと辛かったんだろう?」 「……え?」  俺の問いかけに、肇は動揺した。もしかしたら、これまでそのことを隠していたのかも知れない。その目に、じわりと涙が滲む。 「あ、はい、実は……」  本当は好いた相手とだけに留めたい行為を、好きでもない人物、もしくは嫌いな人物からでさえ、受けないと生きていけない。その屈辱と、その思いを抱えて生きていかないといけないという絶望感。その痛みと重さを、俺は嫌というほど知っている。  彼が就職したのは二年前だ。その頃にはもうクラヴィーアは出来上がっていた。だから、翔平も咲人も他人からのケアを受ける苦痛を味わった経験が無い。それくらい、今となってはあまり聞くこともなくなったような話だ。  彼専用のクラヴィーアがもっと早くその手に渡っていれば、レアタイプというものがもっと一般に知れ渡っていれば、勤めていた病院が彼の特性に早く気がついてくれていれば……。  もしかしたら、彼にその思いをさせずに済んだかも知れない。そう思うと、激しく胸が痛んだ。 「……俺には分かるよ。俺も生まれながらにレベルが高すぎて、学生時代は望まないケアを受けて何度も苦しんだんだ。生きていくためとはいえ、しなくていいならしたくない事だったからな」 「翠さんも……、ですか?」  そう言いながら、肇はぽたりと一粒の涙を零す。驚くほど美しく整った顔立ちが、僅かに崩れた。普段はかなり意識して自分を保っているのだろう。それなのに、俺はその殻を突いてしまった。 「分かってくれる人なんて、いませんでした……」  ボロボロと涙を流しながらそう言う。その言葉の中に、悪い感情は湧き上がっていない。それなら、今泣かせておくのもありだろう。そう思って、彼の頭を撫でた。 「……すみません。でも、俺はそこで思いやってもらえるようないい人間じゃありません。だって、結構クズでした。ケアについての不満を、他人に当たることで解消してるような、酷い人間なんです。こんなすごい人に慰めて貰えるような価値は、俺にはありません」  そう言って卑下する肇を、祈里は俺の隣で辛そうに見ている。 「ここ最近は毎晩祈里が踊ってくれてました。だから、そういう事をする必要は無くなりましたけれどね」  そう呟くと、ほっと息をつくように微笑んだ。そして、彼を見つめている祈里の目を、柔らかく見つめ返す。その視線の中には、相手を思いやるような深い愛情が宿っていた。 「……そっか、お前は過去に誤ちがあるんだな。でも、それはもうどうやっても消え無いものなんだ。消せ無いものは、考えても仕方ない。その罪悪感を抱えて、どう生きるかを考えろ。そもそも、お前だってそのセンチネルの苦しみが無かったら、そんなことはしなかったかも知れないだろう?」  運転手側の最後部座席に座っている咲人は、その隣に座る肇をじっと見つめる。俺は背中の肌の感覚でその視線に触れた。  それは、咲人らしいものだった。暑苦しいまでの優しさに溢れていて、肇はそれに触れた途端に激しく泣き始めた。 「……はい、はい……。分かりました。そう出来るように頑張ります」  そんな肇を見て、咲人はくすりと笑う。 「俺たち兄弟はなぁ、センチネルの苦しみを減らすことを第一目標に生きてるんだ。晴翔兄さんは、特にそうだ。だから、この薬がお前の生活をより良いものに変えることが出来たら、その時はお前の口からその事を直接伝えてやってくれよ。それが研究者の生きがいらしいからさ」  そう言って、咲人は肇の手の中に移ったピルケースをトントンと指で叩く。肇はそれに何度も頷きながら、ケースから一錠を取り出して、口の中へと放り込んだ。それを飲み下すと、深々と咲人と俺に頭を下げる。 「ありがとうございます。俺なんかを思いやって下さって……。俺、ここで出来ることを全力で頑張ります」  そう言って、泣き崩れた。  ちょうどその頃、車は目的地に到着した。  山に囲まれてはいるものの、ミュートの目であれば敷地の限界は見極められないくらいに広く開けている。その大多数を田畑が占めていた。今は稲も刈り取られており、ロールベールが点在している。  俺はそこで強烈な違和感があることに気がついた。ロールベールがあるということは、その匂いがするはずだ。それなのに、誰一人その香りがするといい出すセンチネルがいなかったのだ。 「……妙だな。誰も稲藁の香りを感じなかったんじゃないか? 俺すら分からなかったぞ」  俺の言葉に、全員が緊張した。ここは何かがおかしい。  スライドドアのガラスの向こうへと、蒼が鋭く視線を走らせる。車内からセンチネルたちも外を透視していった。しかし、異状は何も目に入らない。 「これだけの田んぼがあるのに、その香りがせずに、セージの香りだけが濃いなんてね……」  周囲を伺いながら車を降りたガイドの三人は、警戒しながら自分のペアを守る。俺だけは蒼の隣に立ち、前方を確認した。 「……異様なほど広範囲にセージが植えられてるな。なんのためにこんなに必要なんだ?」  その光景に、背中を冷たいものが伝っていった。  この咽せ返るような濃いセージの香りの中に、あの血の匂いがうっすらと紛れていた。遠くから確認した時よりも、その香りはより花の香りの中に埋もれている。 「この香りの中で、センチネルは生きていけるのか?」  そう呟いた俺に、野本が答える。 「翠さん、ここにはセンチネルはいません。本当は作物や家畜を守るために、その鼻と目が必要なんですよね。でも、なぜかセンチネルは生まれないし、養子や婿入り・嫁入りしても早死にする人が多いんです。……そう思ってました。もしかしたら、その理由は香りが強すぎるからなんでしょうか。野本の人間はガイドかミュートしかいません。それでその匂いの凶悪性がわからないのかも知れません」  そう言って、苦しそうに眉根を寄せた。

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