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第2章_謎の香り_第11話_野本を継ぐ者

◇ 「遠いところをわざわざ御足労いただきまして、ありがとうございます」  濃い紫色の紬を纏った英子が深々と頭を下げながら、一行を穏やかな笑顔で迎えてくれる。昨夜話が決まったばかりとあって十分なもてなしは出来ないと言いながら、全員のお茶の準備をしてくれていて、お茶請けは彼女が作ってくれたそうだ。 「わあ、いい香りですね」  甘酸っぱい林檎の香りの漂うリビングに通される。そこには、祈里が来ることを知って急いで作ったというタルトタタンが待っていた。  彼が家を追い出されて四年。その間は英子とも連絡を取ることが出来ていない。それすら父に禁じられていたのだという。  可愛がっていた孫を突然奪われた英子は、それ以来すっかり塞ぎ込んでしまっていたらしい。久しぶりに人をもてなすのだと言っては、しきりに 「失礼があったら、おっしゃってね」  と苦笑いをしている。使わなくなって寂れてしまったおもてなしの感覚を、呼び覚まそうとして必死のようだ。 「英子さん、あまり畏まらないでください。昔からの知り合いなんだし、そもそも親戚ではないですか」  彼女にとって妹の孫に当たる咲人がそう言うと、野本も頷く。俺もそれに倣った。 「俺も小さい頃に永心家で何度もお会いしていますし、会社を立ち上げてからもご挨拶するくらいには顔を合わせてますよね。だから、咲人の友達が遊びに来たくらいに思っていただいたら大丈夫ですから。あまりお構いなく」  俺がそう言うと、彼女はようやく柔らかな笑みを浮かべてくれた。 「そう? そう言ってくれると助かるわ。それにしても翠ちゃん、立派になったのね。私の中では、あなたはまだこーんなに小さな子のままなのよ。それがいつの間にか会社を作ってるし、そこの社長さんになってるし、蒼くんと結婚までしてるしねえ。知ってはいるものの、お話聞かせて欲しかったのよ。ゆっくり会えて嬉しいわ」  俺の手を取りながらそう言うと、ふっと温かい笑顔を向けてくれた。そして、隣に立つ蒼にもそれを向けてくれて、 「あなたも幸せそうで、嬉しいわ。いつも咲人や翠ちゃんを守っていたものね」  その言葉に、蒼は 「はい。翠と一緒になってからは、ずっと幸せに暮らしてます。咲人とも仲良くさせていただいてますよ」  と、同じような温かな笑顔を返した。  そして、彼女はその後ろに控える華奢な青年に目を留める。  輝くような白い肌に艶やかに伸びる美しい銀髪、両の瞳が薄茶色の孫の姿を捉えると、はっと目を見開いた。 「……祈里」  湧き上がる想いを堪えつつ、遠慮がちにその名を呼ぶ。  息子が追い出した孫と連絡を取ることも叶わず、ただその身を案じていることしか出来なかった彼女は、罪悪感があるのだろうか、自分から彼に近づく事が出来なかった。  それでも、祈里を思ってくれていたことは、先日ブンジャガで野本が祈里に知らせてくれていたため、本人はそのことを知っている。祈里にとっては英子はただ優しい祖母であったため、彼の方が溢れる想いを止められず、躊躇いなく彼女の方へと駆け寄って行った。 「お祖母様」  そう声をかけると、そのまま彼女を抱きしめる。大切そうにその腕の中に祖母を包むと、一瞬何かを堪えるような表情を見せた。 「お元気でしたか? ずっとお会いしたかったんです。連絡をすることが出来なくてごめんなさい」  そう言うと、熱に浮かされるように何度か謝罪の言葉を繰り返した。英子は祈里のその様子にはっと我に帰る。そして、泣きじゃくる孫の背中を撫で始めた。 「いいのよ。あなたがどう頑張ったとしても、あの子はきっと邪魔をしたでしょうから。私の方こそ、あの子に勝手をさせるだけで、それを止めることもできず、他にも何もしてあげる事が出来ずにごめんなさいね」  そう言って、自分を包んでいる孫を抱きしめ返した。 「いえ、いいんですよ。大丈夫、お金と住む場所には困りませんでしたから。そこだけは保証してもらえていたんです。それに、アイちゃんが一緒だったので、それなりに楽しく暮らせてましたよ」  野本崇は四年前に祈里を追い出した際、勝手な理屈で追い出した割には、彼の生活が困窮しないようにと定期的に送金するための口座を持たせている。  祈里はそれを使うことをしばらくの間は躊躇っていたそうだが、その時一緒にこの土地を追われた人物の生活を守るためにそれを使うことにしたらしい。  彼と共にこの土地を追われた人物、それが相原だ。肇と一緒にVDS(うち)に入ってきた、あの相原哲(あいはらさとし)が彼と共に暮らしていたアイちゃんらしい。  相原家は野本の土地に長く暮らしている。彼らは元々は野本の小作人だったのだが、今はその土地を買い上げて自分たちで農業を行なっているようだ。今は野本家のご近所さんとしてここに定住しており、子供同士は二世帯に渡って幼馴染という間柄らしい。  祈里が追い出される際、相原の次男である哲が道連れとなった。この時なぜ彼が追い出されたのかは、祈里も知らないのだと言う。彼が本人に確認してみても、思い当たる事は無いと言われたそうだ。 「でも、今はもうアイちゃんとは離れて暮らしています」 「そうなの? ああ、そうね。パートナーがいるのよね、あなた」 「はい。……肇さん、こっち来て」  祈里はそう言って肇を手招きした。緊張した面持ちの肇が祈里の隣に寄りそうように並ぶと、二人揃って深々と頭を下げる。 「……は、初めまして。私、高月肇と申します。祈里さんとボンドの契約を交わしまして、今は夫夫として暮らしています。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。よろしくお願いいたします」  その肇の様子を見て、英子は口元を指先で隠しながら顔を綻ばせていった。 「まあ、まあ、まあ! ……そうなの、あなたが肇さんなのね。慎弥からお話は伺っていたのよ。優しそうな方なのね。良かったわあ。祈里は……」 「お義母さん」  嬉しそうな笑顔を浮かべて肇のそばに近づこうとする英子さんを、野本が抱き止めるようにして制止する。このまま放っておけば、彼女は延々と結婚の祝い話をしようとするだろう。  しかし、田崎の忠告を守らなければならない。今日は早めにここを出なくてはならないのだ。漱の行方を探す上で直接関係ありそうな話以外は、また後日にして貰わなくてはならない。  野本は、全員を安全に帰らせるという会社の理念を忠実に守ろうとしている。その彼の意図を、義母の英子もまたすぐに理解した。 「ああ、そうね。今日はあまり時間が無いのよね。祈里、残念だけれど、肇さんとの話はまた聞かせてちょうだい。今日は我慢するわ」  そう言って、彼女は楽しそうに微笑んだ。 「……では、漱がいなくなってからの話をしましょうか」  野本がそう言うと、英子さんが全員に座るように促す。すると、奥から一人の女性が人数分のコーヒーを乗せたトレイを持って入って来た。 「失礼致します。センチネルの皆さんはラテをいただくとお聞きしましたので、こちらをどうぞ」  そう言ってカップを並べていくのは、当主の正妻で祈里と漱の母である静子だ。淡々とそれを並べていく彼女の姿を、祈里が大きな瞳を揺らしながら見ている。 「お母様……」  そう呟いた声は、小さいが明らかに聞こえるはっきりとしたものだった。しかし、静子は祈里の方には目もくれず、ゆったりとした動きでコーヒーカップを置いていくと、トレイを小脇に抱えて礼をしたのちに、そのまま部屋を辞して行った。 「……どうして?」  そう言ったのは蒼だった。彼女の態度が許せなかったのだろうか、手が怒りに震えている。  祈里を追い出したのは崇だ。その理由は、あまりに理不尽なものだった。しかし、父だけが悪者かと言われると、そこには疑問があったのは間違いない。  どうして母の静子は崇を止めなかったのか、どうして祈里に会いに行かなかったのか。そのことを、誰もが考えなかったわけではない。だが、それを追求するものはいなかった。その答えが行き着くところが、祈里を深く傷つけてしまうような気がしていたからだ。 「……お母様も、僕はいらなかったんですかね」  そう呟いた祈里は、堪えきれずに涙を零した。肇がそんな祈里の肩を抱き、彼の涙を拭う。その様子を見つめながら、英子は祈里に声をかけた。 「違うのよ、祈里。あなたを追い出されて何年も彼女は苦しんだの。それでも、あなたが幸せに暮らしているらしいと相原さんから聞いていて、一時は安心して持ち直したのよ。それなのに、今度は漱がいなくなってしまって……。崇は二人ともいなくなっても全く動揺しないし、お恥ずかしながら、今でも外に子供を作っているのよ。どうしてもセンチネルの子供が欲しいんだと言ってね。そのうち、静子さんは薬を飲まないと生活していけなくなってしまったの。今は強めの薬を飲んでいて、多分あなたを誰だか分かっていないと思うわ」 「そんな事が……」  英子の苦しそうな告白に、リビングはしんと静まり返った。野本崇の異様なまでのセンチネルへの執着が、この家を歪めてしまっている。  あの男は、どうしてそこまでセンチネルに固執するのだろうか。ガイドばかりの一家であっても、それなりに生活はしていけるだろうに、こんなにも家族を苦しめてまでセンチネルを求める必要はどこにあるのだろう。  それに、その諸悪の根源は今どこにいるのだろうか。祈里がここへ来ると知っていて、彼はどう動くだろうか。俺はそれがとても気になった。祈里の安全確保のために崇の動きを把握すべく、野本家の敷地内へと意識を張り巡らせてみる。  この家の敷地は広大だ。母屋自体も大きいが、同じくらいの大きさの離れがいくつか点在していて、客を一度に多数宿泊させることも出来るような作りになっている。そのうちの一つ、母屋から最も離れた棟に人の気配があった。 ——男が二人、車に乗り込もうとしてるな……。  一人は若い男だ。長身でがっしりとした体つきをしている。スタイルを維持するために作られた体ではなく、使い込まれた筋肉のようだ。体力を必要とする仕事をしているのだろうか。軽快な動きで運転席へと滑り込んだ。  それとは対照的に、体型を保つためだけに鍛えられたような筋肉に身を包まれた、細身の男がいる。年齢は五十代前後、もしくはそれよりも少し上だ。後部座席に乗り込み、横柄な態度で運転手へ何かを指示している。 ——野本崇だな。  俺は男の顔を見てそう判断した。野本、祈里、そして英子さん。この三人に共通する人相に近いものが、あの男にはある。  農家の後継であるはずの彼は、農作業をするには適当とは言えない高そうなスーツを着て外出した。家業のために出かけるにしては、やたらと身軽な様子だった。どこかで大きなパーティーにでも出席するのだろうか。 ——あの場所は、確かあの暴力的な香りが流れて来た場所……。  行きに肇を苦しめた、あの強い香りの流れて来た場所に、その離れはあった。その偶然が、妙に引っかかる。  俺は蒼に『遠くの匂いを確認する』と伝えると、嗅覚以外の意識を少しずつ遮断していった。そうすることで嗅覚の限界をいつもより高く設定する事が出来る。  野本崇の車があった場所へとフォーカスすると、その周辺の香りを確認した。そこには、やっぱりあのセージを煮詰めたような濃い香りが漂っている。 「っ……!」  強烈な痛みと共に、鼻から血がぽたりと流れ落ちる。走っている車に流れ込んで来ただけでも、暴力的な香りだったのだ。その場所の匂いを直接感じてしまう事が、いかに危険な事かということくらい、きちんと分かっていた。  そう想定していたからこそ、普段なら有り得ないようなダメージを受けても、分析を止めるわけには行かない。鼻を抑えながら、その香りを嗅ぎ分けていく。 「……大量の酢酸リナリル、リナロール。それに、少量のカンファー、一・八シネオール……。クラリセージとホワイトセージか? でも,花そのものの香りとは何かが違うような……」  咽せ返るような濃く甘い香りは、おそらくクラリセージのものだ。それ以外のものは,ホワイトセージの香りに似ている。しかし、どちらも植物由来のものにしては何かがおかしい。これは一体何から作られたものなのだろうか、どうしてもそれが分からない。 「俺がこれまで嗅いだことのない、知らない香りがある」  長く高レベルセンチネルとして生きてきた俺が、いまだに出会ったことの無い香りがそこには大量に存在する。その事実が、俺にはとても恐ろしく感じた。

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