14 / 20
第2章_謎の香り_第13話_ゾーンアウト
「前から思ってたんだけど、祈里ってこの手の話になると絶対笑ってるよな。不安とか不満とかねえの? お前の旦那は遊び人でしたって話だぞ? 気にならないのか?」
ふわふわの巻毛を揺らしながら、咲人は祈里に尋ねる。うちの社員たちは一途な奴が多くて、肇のような人物はかなり珍しい。だから、そのパートナーが何を考えているのかが気になって仕方が無いらしい。
咲人は小さい頃に両親から欲しかった愛情をもらえずにいたためか、パートナーに愛されることを強く望んでいる節がある。ただ、自分が特殊な環境下にいたことは分かっているらしく、その感覚が一般的では無いということには自覚があるらしい。そのため、人とそれを分かち合えないということは一応理解しているようだ。
しかし、祈里もある意味特殊な環境下で育っている。そのためか、どうしても彼が肇をどう思っているのかが気になるらしかった。
「お前も家を追い出されたりしてて、寂しい思いをしてるだろう? そうなると、どうしてもパートナーに依存したくなるところはあるんじゃ無いのかって俺は思うんだよ。そうなるとさ、いくら過去の話とはいえ、肇が遊び人だったっていう話をそんなにも笑って聞けるものなのかって、どうしても疑問に思うんだよ」
祈里は咲人の言葉を聞くと、首を傾げた。どうやら、そんなことを考えたことも無いらしい。
「そうですねえ……」
祈里が考え込む姿を見ながら、咲人はワクワクを隠せていない。興味本位でよそのカップルを壊しかねないことをしている自覚など、つゆ程も無いのだろう。祈里の返答次第では、二人の関係性は悪化するかも知れない。祈里はまだ考えが読めないためどうなるか分からず、俺はヒヤヒヤしていた。
「僕はあんまり……。ん? なんだろう、大丈夫かな……。あ! 翠さん! あれ!」
答えにくそうにしながら窓の外を見ていた祈里が、突然何かを指さしてまた首を傾げた。咲人の問いに答えたく無いあまりにふざけ始めたのかと思い、皆が笑って受け流そうとする。
しかし、それも長くは続かなかった。ふっと俺の鼻先を、ある匂いが掠めた。それは、俺たちセンチネルにとっては、できれば嗅ぎたくないような、絶望を呼び起こすような匂いだった。
「……鉄平、車停めろ」
祈里が見ている方角を睨みつけながらそう言った俺の声をきっかけにして、車内に緊張が走る。能力者が揃った車内の空気が、次の指示を求めてピンと張り詰めていくのが分かった。
「は、はい。レインボーパトライトつけて停めます」
レインボーパトライトは、能力者が調査目的で緊急時に駐停車できるようにとタワーから配布されているものだ。俺はちょっとした変化で事件の証拠を探す事が出来る。それを見落とさないために渡されたもので、能力使用のためであれば、ほぼどこでも車を停めることが出来るようになっている。こういう予定外の事象に遭遇した場合には、重宝するものだ。
「停めたら、左側の窓だけ全開にしろ。三十秒でいいから物音立てるな。いいな」
俺の言葉に、全員が
「了解」
と答える。モニターの向こうで、田崎と相原も同じ返答をした。
張り詰めた空気のまま鉄平は路肩に車を停める。そして、指示通りに左側の窓を全て開け放った。開く車窓から流れてくる空気に、俺の鼻が反応する。そして、その匂いがなんなのかを正確に理解した。
「……祈里、お前が見たのは人が倒れるところか?」
集中を切らさないようにしながら小声で祈里にそう尋ねる。すると、彼は何度か頷きながら、
「そうです。この道を一本入ったところで、人が倒れるところが見えました。それも、倒れるっていうよりは、崩れ落ちるって言った方がいいような……こう、がっくりと膝から落ちるような感じに見えました」
と答えた。この匂いに加えて、膝から崩れ落ちるような倒れ方をしたのなら……。それはもう、確定と言ってもいいだろう。あまり遭遇したいものではないが、放っておくわけにもいかない。気は進まないが、助けにいくための指示をすることにした。
「祈里、肇、蒼。お前たちは俺に着いて来い。翔平、鉄平、野本、咲人。お前たちは車に戻って待機。田崎と相原と共に事務所にいてくれ。詳細は翔平の虎に俺の龍を飛ばす。翔平、連絡係よろしくな。翠龍はお前しか見つけられないから、頼むよ」
俺はそう言って蒼とハジノリを連れて車を飛び出した。翔平は、俺の背中に
「了解です」
と答える。四人を乗せた車は、そのまま事務所のあるホテルへと去って行った。
「祈里、お前が見たのはあのビルの前に倒れてる奴だよな?」
俺が一区画向こうの小さなビルの前に倒れている男性を指差すと、彼は、
「そうです。今日結構寒いのに薄着だったからなんだか気になって見てたんですよ。で、いきなり血を吹き出してびっくりして……」
と答えた。
「翠、あの人……」
蒼には分かったのだろう。あの場に倒れている男からは、一時間前の俺と同じ匂いがするはずだ。それは、近づけばセンチネルではなくても分かってしまうような、独特の香り。特有の鉄の匂いと、ベッタリと張り付くようなタンパク質の匂い。それは、ミュートでも分かる特徴のあるものだ。
錆色と蒼白の入り混じった顔、赤黒く汚れた服、そして、俺には無かったけれど、その特徴的なものであるとされている、口元に張り付いた泡……。それに、眼球が上転している状態……ベル麻痺だ。この全てが揃ってしまうと、言い逃れの出来ない状態がある。
「うん、ゾーンアウトだ。状態だけ確認したら、すぐに救急車の手配を。その到着を待つ間は……」
そこまで言うと、蒼は俺の手を握った。そして、その手に力を込めていく。はっきりと言葉にして頼む事ができない俺に、自らそれを申し出てくれた。
「……分かってるよ。俺がケアするんだよね? 大丈夫、でも、翠は見ないでね。それだけは約束して」
蒼は強い決意の中に、どうしても揺れてしまう気持ちを乗せている。俺は蒼のその真摯な思いを受け取って、
「分かった」
と答えた。もちろん平気な訳はない。俺だって辛いんだ。
でも、見知らぬ人物をケアしようとするなら、自分のボンドを越えられる強いガイドでなければならない。それほどに強いガイドは、ここには蒼しかいない。いや、今は世界中を探しても、蒼しかいない。
それをする場がたとえ俺の目の前であったとしても、傷ついたセンチネルがいるなら救うしかない。それが、俺たちが会社を立ち上げた時からの約束だ。
蒼は拳を握って決意を固めると、倒れている男のそばへと駆け寄る。そして、状況を確認すべくその男の体に顔を近づけた。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
ガイド二人が男に声をかける。俺と肇は、少し離れた場所からその男と周辺の状況を五感全てを使って確認した。
「翠、この人心停止してる」
蒼が男の上に跨りながら叫んだ。その胸郭に両手を組み、リズミカルに圧迫し始める。祈里はこの状況に慣れていないため、呆然としたまま青ざめていた。その様子を見て、肇が蒼の元へと駆け寄る。
「蒼さん、手伝います。俺はクリニック勤務だったから、ガイディング前の蘇生法分かりますんで」
そう言って男のそばへと膝をついた。そして、男の顔を覗き込む。すると、突然怪訝そうな表情を見せ、
「……ん?」
と言って考え込んだ。
「どうしたの?」
蒼は肇が突然動きを止めたことに驚いて顔を上げる。それでも手は止めずに、蘇生を続けていた。
「あの、この人ゾーンアウトしたんですよ……ね?」
「え? そう、だと思う……けど?」
心配蘇生をしながら、蒼は肇を見た。俺が蒼に告げた内容で、間違っていたことはこれまで一度も無かった。だからか、蒼は肇に対して、こんな時に何を言っているのだろうかと、やや苛立ちを見せている。
「どういうこと? 翠の見立てが間違ってるって言いたいの?」
その反論の仕方には些か疑問があったが、ただ、俺も肇のその発言は妙に引っかかるものがあった。
「ゾーンアウトした人間は、大体脳のオーバーヒートが原因で頭蓋内で出血する。その血液そのものの錆びた様な匂いと、ゾーンアウト特有の焼け焦げたような匂い、そして脳全体の活動量が上がったことで発生する『額から後頭部にかけて赤・黒・金色の入り混じったもや』が発生する。その全てが揃ってるんだ。ゾーンアウトしてるだろう?」
そう言いながら、俺はもう一度男の顔を覗き込んだ。そして、近づいて自分の目で見て言葉を失った。今自分で告げた特徴の全てが存在していなかったのだ。それどころか、この男にあるべき反応の全てが存在していない。
「この人……ミュート、なのか?」
そこに倒れていた男は、能力者ですら無かった。
確かに鼻血を流している、口元に泡も張り付いている。体からは焦げたような匂いもするし、物理的な証拠は揃っているようだ。
でも、決定的なものが足りない。その男は、蒼が蘇生のために唇を当てても、全く反応を示さないのだ。
「お前がそこまでして反応がないってことは、センチネルじゃないってことだ。でも……」
俺が男に触れても、レベル差による電流が発生しない。さっき英子さんと触れ合った時のように、俺よりレベルの低いガイドに触れると、俺には微弱だが電流が流れる。流れないのは、俺と同等かレベルが上のガイドに触れた時だけだ。
俺よりレベルが上のガイドは、今の日本には存在しない。同レベルは蒼しかいない。この男は、そのどちらでもないだろう。つまり、ガイドですらないということになる。
「センチネルでもガイドでも無い男が、ゾーンアウトで死んだ。しかも、倒れてすぐだ。どんなにレベルの低いセンチネルでも、少しは苦しむ時間があるはずだ。それなのに……」
言葉にならなかった。こんなことは、経験した事がない。蒼も呆然としている。ガイディングに失敗したことなど、過去に一度あったきりの優秀なガイドが、その手の中で命が潰えるのをただ待つだけという事態に見舞われたのだ。それは大きなショックを受けても仕方がないだろう。
「一体何が起きてるんだろう……」
俺は、力無くそう呟いたパートナーを抱きしめた。目に見えてエネルギーが弱くなっていく彼を、救たくて仕方がなかったんだ。でも、俺にはガイディング能力は無い。これは、パートナーとしての想いを伝えるためだけのものだ。
「蒼、大丈夫か?」
蒼は震えていた。助けられなかったという事実が、その体に毒のように染み付いていく。俺はそれを少しでも阻止しようとして、必死に愛しい男の体を抱きしめた。
「お前は何も悪くないよ」
そうして必死に宥めていると、肇が隣でポツリと呟いた。
「あの……。これ、もしかして最近多発してるミュートの不審死じゃないでしょうか……」
男を見つめたままそう言った肇に、俺は驚いて無言で視線を返した。肇自身も、口に出しては見たものの、自分が何を言っているかよく分からないと言った表情をしている。
「あ、確かに。そうかもしれませんね。都市部の路上で突然ミュートが倒れて、脳に疾病があるんじゃないかって言われてるんでしたよね。でも、それをはっきりと証拠づけるものが何も無い。だからVDSに調査依頼が来てるんでしたよね」
祈里にもそう言われ、俺もそうかもしれないと思い始めていた。
今事務所のセンチネルが忙しくなっている理由の一つが、そのミュートの不審死の多発だ。俺たちは、今まさにその現場に居合わせたということなのだろう。
——しっかり調べなければ。
そう思い、龍を呼んだ。
『翔平、救急車の前に田崎と直接連絡を取る。スマホに連絡をくれと伝えてくれ』
翠龍を翔平の虎へと遣わせ、伝言を頼む。すると、すぐに返事が来た。
『了解です。田崎さんから伝言です。すぐかける、だそうです』
その後、数秒もたたずに田崎から連絡が来た。
『田崎だ。翠、何があったんだ? えらく慌ててるらしいじゃないか』
田崎はどんな時も冷静で頼りになるミュートだ。五感の発達も超能力も持たないが、誰よりもピンチに強い。冷静なその声を聞いていると、俺の思考もだんだんと冷えてきた様だ。大きく一呼吸つくと、蒼を抱きしめたまま田崎へ告げる。
「田崎、路上の突然死に居合わせた。ミュートの突然死ってことだったが、その人物からセンチネルのゾーンアウトの匂いがしたんだ。もしかしたら、この事件はセンチネルが関わってるのかも知れない。全センチネルの居場所を確認するように、タワーに伝えてくれ」
俺は状況を一息で話し切ると、田崎は俺の声音からその命令が緊急性を孕んだものだと読み取った。すぐさま、
『了解』
と一言だけ返す。そして、そのまま何も言わずに電話を切った。
ともだちにシェアしよう!

