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第3章_愛と恨み_22話_諦めなければ

——酢酸リナリル五〇パーセント、リナロール三十五パーセント、sE(シー)akari()、フェノール、アルデヒド、プチレン、ガダベリン……。 「視覚の次は嗅覚だ。クラリセージの成分と人間の匂い、部屋が爆発して萌えた後の匂い、山で動物が死んで腐敗した匂い。それだけでも情報量は莫大だ。その上生物の音、電子機器が発するジリジリという音、山中だから大きな鉄塔の電波や送電の音すら聞こえる。俺が話している声は波形として分解されて理解しようとするし、お前の悲鳴もお前自身が理解するために分析されて認知しようとする」  寺井は見えない虫を追い払うかのようにして、手を振り回し始めた。常に何かが纏わりつき、気が狂いそうになっているのだろう。それを見て、俺はかつてないほどに黒い願望に囚われるようになっていた。 ——もっと苦しめ。 「なあ、分かるだろう? ちょっと黙ってくれ、ちょっと匂いを止めてくれ、ちょっと目に入らないでくれ、触れないで、味わわせないでくれ……。その願いはただ黙っていれば、誰にも聞き入れてもらえることはない。なぜなら、大抵の人間にはそれは大した問題じゃないからだ。ミュートやガイドにとっては感じることすらないものが、俺たちにとっては苦しくて死にそうな、いや、死にたくなるような過剰な刺激として、常時襲いかかってくる。普段のお前なら、今このレベルの苦痛に見舞われてもなにも感じないだろう。でも、今逃げ出したいだろう? 俺たちは毎日その状態で暮らしている。それくらい、センチネルとして生きていくのは大変なんだ」  俺の手のひらの中でもがく男は、どうにかしてこの苦しみから逃れようと必死になっている。ただ、強烈な眩暈やふらつきがそれをさせてくれず、ただ自分を留めているこの手を切り落としたいほどの思いに駆られているだろう。それでも、そんなことをしても何にもならない。不快感は自分の体の中で起きているものだからだ。 「人によっては、生まれたその時からその感覚がある。俺や咲人、翔平はそうだった。俺たちのように高レベルのセンチネルが生まれて持つ願いは、『気が狂わずにいられますように』だ。お前はそれを望んだことがあるか? 小さな頃にただ穏やかに暮らしたいなどと考えたことがあったか? 無いよな? だって、お前たちはそんなことを望まなくても、普通に生活することが出来るだろうから。でも、俺たちは自分が強くならない限り、死ぬまでその願いが叶う事は無い。世の中の五感刺激を自分以外の誰かが止めてくれる事なんてないんだ。自分でコントロール出来るようになるまで、血反吐を吐くほどの努力を続けるしか無いんだよ」  俺は寺井の頭を掴む手の角度を変え、奴が俺を見上げるようにする。すると、奴はひっと声を上げて震え始めた。透視が始まったようだ。俺の肌の向こう側が透けて見えるようになり、その視覚刺激に恐れ慄いているのだろう。  視力が皮膚を抜け、骨を抜け、筋肉を見て、血管、神経……そして細胞までを見透かす。その向こう側にあるのは、感情の波、エネルギーの靄だ。  今の俺の中には、寺井に対する明確な殺意がある。他の誰にも見せたことのない、邪悪な感情が渦巻いていて、それが目に見えるものとして認知されているだろう。それは、きっと恐ろしい形相をしているに違いない。 「地に落ちた蛇が天へ上り、龍になる。つまり、俺もお前も同じだ。でも、お前は地を這っている段階で諦めてしまった。そして、今お前が感じているものよりも、もっと苦しい思いをあの十一人にさせてしまった」  翠龍の逆鱗に触れた寺井は、俺の中の怒りのスイッチを全部振り切らせてしまっている。ただ、これは個人的な感情の表れではなく、俺のセンチネルとしての教示だ。 「多くの人にこの苦しみを与え、亡くならせた。お前はを、人に与えたんだ。絶対に忘れるな。この恐ろしさを絶対に忘れてはならない。もう二度と同じことは許されない。いいな、俺はそれを許さないぞ」  そう、個人的な想いが燃えようとも、政府公認のセンチネルである限りは、私刑をすることは許されない。どれほど怒り狂おうとも、どれほど相手を憎もうとも、俺にはセンチネルとしてやらなければならないことがある。そのことだけは、忘れないようにしなければならないのだ。 「わ、わわ、わわわ分かった! 分かった! か、ら……。とととととと止めてくれええええ! 死ぬ、死ぬ死ぬ……」  寺井は泡を吹き始めた。それも、口の端に少しつく程度ではない。カニのようにそれを口元に吐き出し始める。もう暴れる力は残っていないようだ。俺の手のひらの中で燃えそうなほどに熱くなっている頭の中は、このままの状態が続けば、もう少しで変性を起こしてしまうだろう。それが奴に壮絶な恐怖を植え付けていく。 「……肇のようにレベルの低いセンチネルには、特にこのコントロール力が無い。それでも、あいつは自分なりにこの苦しみを乗り越えて来てるんだ。他のセンチネルにはボンドさえしなければ、ガイディング出来るガイドはいくらでもいる。でも、肇にはそれがいなかった。だからこいつはずっとこの苦しみを一人でなんとかして来たんだよ。それを、大して辛くないと言い切った。俺はそれを許さないからな」  これまでどれほど暴言を吐かれようとも、俺は常に冷静さを忘れずにいられた。しかし、今回は多少コントロールが不能になりつつある。  それはきっと、蒼の努力と彼の俺への愛情を軽んじられたこと、センチネルの苦悩を分かったふうに言われたことが原因だ。誰かの苦しみは、他の誰かには理解出来ないものだ。だから俺も寺井を決めつけてかからないようにしていた。それでも、こちらのことを分かった風に言われるのは我慢ならないのだ。  俺の頭の中に、初めてセンチネルであることを蒼に嘆いた日の自分の姿が思い浮かんでいく。泣き喚く自分の声にさらに追い詰められ、死にたくて仕方がなかったあの日。それを助けてくれた優しい笑顔。思い切り泣けるようにと、俺の耳を塞いでくれた優しい手。 ——『抱きしめてくれないか?』  そう願った俺にしてくれた、優しい抱擁と、 ——『せーの、ぎゅー!』  そう言って抱きしめてもらえた多幸感に、思わず ——『う……うれしぃ……あったかいよおおおおお』  そう言ってまた泣いた、あの十八の冬。  純粋な笑顔と親切に救われた俺は、他のセンチネルにもこの思いをさせてあげたいと願った。  そのために必死でやって来たのだ。  これまで数多の戦いを経て来た。その果てに今のVDSがある。それなのに、一人の男の逆恨みで、十一人もの人を偽センチネルへと変えられ、ゾーンアウトへ追い込み、散らされた。そんなのは、俺には到底許せるものじゃない。 「翠! やめろ!」  昔のことを思い返しながら聞いていた声は、現実で俺を厳しく叱責した。その声にハッと我にかえりる。蒼は泣き出しそうな顔をして俺の方へと駆け寄ってきた。 「それ以上はダメだ! やめてくれ!」  必死に止めようとするその顔を見て、俺はやや冷静さを取り戻した。そしてすぐに恥じる。今俺がしようとしたことは、寺井がしていたことと同じでは無いだろうか。そう思えるほどに、急速に思考は冷えた。  いくら清い思いであろうとも、それが強過ぎて悪意へと変わってしまえば意味がない。俺は今それを止められなかった。それなら、寺井と俺に何の違いがあるというのだろう。俺にこいつを糾弾する資格は無い。そう思った。 「おいで」  蒼は寺井を引き剥がすと、俺を思い切り抱き寄せた。鉄平が寺井の体を受け止める。完全に気を失ってしまったのか、寺井は力なくぐにゃりとしていた。  正気に戻った俺の目の前で、翔平が寺井にイプシロンのリキッドが入った針付きのシリンジを突き刺す。それは、俺たちが戦闘で使用するために会社が用意しているものだ。  イプシロン自体は、元々製薬会社で開発されたものだ。市販されていないだけで、捜査員たちは見慣れている。ちゃんとした使用方法を守れば、何の問題もない。その薬液が寺井の体へと浸透していくと、奴は僅かに身じろぎをした。 「……うっ」  次第に痙攣が治り、硬直が取れていく。そして、表情が穏やかになると、そのまま動かなくなった。 「翔平、もうやめていいよ」 「はい」  蒼の指示に、翔平はシリンジを抜く。寺井の燃え盛るような体温の上昇と細胞の異常発光は治り、だんだん神経も凪ぎ始めているようだ。翔平と咲人が寺井の体の状態を確認してくれていた。 「大丈夫だ。特に問題は無い」  心底安心したように咲人がそう言う。緊張した空気が急激に弛緩していった。それを合図に、皆一様にどすんと腰を下ろした。 「はああああ……。やっばかったなああああ、もう!」  咲人の叫び声に、全員が脱力した。 「翠! お前なあー。俺たち全員が能力を失ったら困るからって、外に追い出してくれたんだよな? でも、お前が我を忘れて犯罪者になったら、路頭に迷って皆が困るんだけど! 頼むから無茶なことしないでくれる?」  心臓が暴れているのか、左胸に手を当てたままの咲人が、そう言って睨みつけてくる。しかし、その目には涙が溢れていて、さらに 「……本当に、止められて良かったよ。頼むから、全部一人で背負い込もうとするなよな! 俺は遅れて入ったけれど、お前ら三人と俺と慎弥さん、それに鉄平と翔平はもう一蓮托生だろうが。お前一人でどうにかしようとすんな!」  と叫ぶ。それでも、俺も感覚が過敏になったままな状態が続いていて、咲人は手を挙げるわけにもいかず、気持ちのやり場に困っていた。それを野本が、優しく抱きしめる。 「翠、血が……。ほら、鼻からも目からも出てるよ! 瞳孔も……。もう、優しいのはいいけれど、それでこんな風になってたら本末転倒だよ? ほら、こっち向いて。ちょっとケア……」  俺は目が見えにくくなっていた。目の前が白い光に覆われていて、とても見づらい。鼻は痛いほどに匂いを感じ取っていた。その痛みに連動するようにして、鼻から血が流れて来る。  でも、触覚だけは違った。今この肌に触れているのは、愛する男の冷や汗に濡れたそれで、彼の髪の先から雫が垂れる度に、俺の精神力はゆっくりと回復していく。  ボンドの相手が愛するものである場合、触覚の回復スピードが最も早くなる。それは、特別な理屈があるわけでは無く、相手が触れるだけで精神が回復する事が出来るような間柄だから可能なのだ。  ついさっき思い出した抱擁とは打って変わって、柔らかく包み込まれるようなその抱擁には、深い愛が込められている。それを感じ取るだけで暴走していた感覚が凪いでいく。ささくれだった神経がスーッと引いていく様子は、さらに心地よさを倍増させていった。 「……蒼」  顔に落ちてくる雫の量が突然増えた。半分しょっぱくて、半分甘い。甘い涙を流しているのであれば、悲しませたことになる。 「ごめんな……」  申し訳なさに押しつぶされそうになりながら、俺はそのまま眠りに落ちた。 ◇ 「では、そういうことになりましたので。鍵崎氏には、謹慎期間を設けていただければ問題ありません。目を覚まされたらこちらからお礼をさせていただきますので、私にご連絡いただけますでしょうか」  ぼんやりと籠ったような音が聞こえる。ゾーンアウト寸前まで自分を追い込み、その後の感覚遮断がうまくいかなかった俺は、イヤーマフとアイマスク、さらに大きなマスクをした状態で会社へと戻された。そのまま研究センターへと入院になり、祈里の隣に眠らされている。 「実は、寺井は脱走しましてね。二木が収監されている医療刑務所に侵入したようなんです。そして、翌日に二人は手を繋いで亡くなっていました。これが不思議なことに、二人とも原因不明なんだそうです。寺井には、私たちから何を言っても、どう伝えても、想いはついぞ届きませんでした。結局彼らは、能力者を恨んだまま死んでいったようです」  目が覚めて、最初に聞くにしては楽しくない内容だった。どうやらこの声は、警察の新しいセンチネル交渉課の課長さんのものだろう。最初に話していたのは、おそらくタワーの査定人だ。  いくら世界最高峰のセンチネルとはいえ、法治国家の国民である以上は、俺だって法に触れれば裁きを受けなくてはならない。今回の俺の行動は、そうであったかなかったかという判断が待たれていた。  そして、民間の捜査員業務としては適切な対応だったと判断されたらしい。謹慎すれば何もお咎めがないようだ。 「……寺井は罰せられるのに、俺は無罪なのか?」  そう呟くと、蒼が 「翠! 良かった、目が覚めたんだね。今回は前ほど血管へのダメージが無かったらしくて、ケアも少しで済んだよ。でも……、もう二度としないでね」  少し泣きそうな顔でそう言うと、俺の頬を遠慮がちにつねった。俺は死にかけていたはずなのだが、蒼もこの状態に慣れてしまったのか、どうにも反応がライトになりつつある。  ただ、今回だけはその事に軽口を叩く気にもなれない。間違いなく俺が悪いのだから、何も言い返すことは出来ないのだ。 「うん、ごめんな。どうしてもセンチネルの苦痛を邪推されたのが許せなかったんだよ。そこまで言うなら、経験してみろって思ってしまって」  そして思い出した。その思いは間違いでは無かったのだろう。それでも、そうして一方的に力で押さえ込むことは、当然してはならないことだったはずだ。法が許したとしても、人としてどうかという話になる。 「でも、翠は危険性があった人物の排除に関する規則に沿った行動をとっただけだと判断されたんだよ。つまり、誰でもああするしか無かったんだ」  蒼はそう言って、俺に書類を一枚見せてくれた。それには、寺井をそのまま逮捕していても、本人に改心する可能性が見られなかったはずだという根拠が述べてあった。  ただそれは、もう寺井が亡くなったと分かった後に作られたもので、死人より有益な人物を守ったというだけの話なのだろう。 「そもそも、肇に騙されたのは気の毒だけれど、だからと言って二木が通り魔になる必要はなかったわけだし、寺井がそれを理由にセンチネルを生み出す協力をする必要は無かったんだ。バーで野本崇に共謀を持ちかけられたって言ってたみたいだけど、それだって断ればいいだけだろう? そこで判断を誤るのなら、元々の考え方に問題があるってことだから、何かしらの矯正は必要だったんだよ。ただ、やりすぎそうで怖かったけど、結局それも調整してたんでしょ? 寺井、警察につくなり意識を取り戻したって聞いた。本当に恐ろしいよね、翠は」  俺のボンドはそう言って怖がるふりをしながら笑った。そして、長く見守っていたからか冷えてしまっていた指先で、俺の頬を押す。 「あいつだけ苦しめてやれば良かったのに、自分も苦しまないと割に合わないと思ったんでしょ? プラチナロックの解除はしなくても良かったのに……。戻せなくて苦しんでる翠を見てるのは辛かったよ……」  そう言って俺の胸元に額を押し付けた。  夕暮れの暖かな光の中、彼の長い髪が揺れている。声をあげて泣けば、俺の耳へ障る。長年染みついた俺への気遣いは、こんな時でも発揮されるのだろう。それを見ていると、俺の視界も歪み始めた。 「タワーもそれを認めてくれたんだ。だから何もお咎めはない。普通のセンチネルなら死んでもおかしくないくらいの強度だったらしいからね。でも……」  顔を上げた愛しい人は、涙を拭う。そして、そのまま近づいてくると、 「でも、俺には教えてね。龍に言えばなんでも伝わるんだからさ。もう二度と黙ってやらないで」  そう言いながら、唇を合わせた。触れ合う場所が、温かい。そこに、涙が一雫流れて来た。 ——やっぱり甘い……。  また悲しませてしまっているのだろう。大事なことを相談もせずに決めてしまったし、下手をすれば死んでいたかもしれないのだ。そう思われても仕方がない。でも、これ以上甘い涙を流されるのは耐えられない。これから先は必ず想いを先に分かち合うということを、はっきりと誓ってあげなくてはならないだろう。 「分かった。これからはちゃんと話すよ。ごめんな」  最近の俺は謝ってばっかりだ。出来の悪いパートナーで申し訳ない。そう思っていると、蒼に力強く抱き寄せられた。 「そんな事無いよ。早く良くなってね。そして、二人であの部屋に帰ろう」  その言葉に、身体中が発光しそうなほどの喜びが湧き上がる。その想いに浸りつつ幸せを噛み締めた。  そして、ふと思ったのだ。俺の目の前に、ギラリと睨みをきかせた寺井の姿が浮かぶ。 ——どうして、お前たちはそれだけじゃダメだったんだ……?  大切な人とこうして抱き合えるという事こそ、お前たちが欲しかった幸せなんだろう? そう思ってしまったのだ。寺井と二木は、お互いに大切に思い合っていたはずだ。それなら、二人で抱き合うだけで幸せではいられなかったのだろうか。この温もりだけじゃ、あいつらには足りなかったのだろうか。 「……あんまり考え込まないようにね。助けられない人だっているんだから」  蒼はそう言って、腕の力を強めた。抱き竦められたその場所で、俺はこの先のことを考える。  俺は幸せだ。だからこそ、まだすべきことがあるのかもしれない。そんなことを考え始めていた。

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