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第4章_大切にするために_第23話_再会と別れ

 そう考えていると、いつの間にか自然と眉間に力が入っていたようだ。そこを、温もりを取り戻した指にそっと撫でられる。 「すっごい見事な顰めっ面だね。キレイな顔が台無し」  蒼は、指の腹で溝になるほどに深く刻まれた皺を撫でながら笑っている。三十歳を超えてもなお、その笑顔にはどこかしら無邪気さが残っていて、見ているだけで俺の心はいつもほわりと暖かくなる。しかし、俺はそれを見てふっと口の力を緩めながらも、どうしても頭は何かを始めなければならないような気がして、心を落ち着かせる事は出来なかった。 「まあ、だってなあ。あんまり気持ちのいい終わり方じゃなかっただろう? あいつら、小さい頃から大変な想いをしてたみたいだけれど、義務教育の間はちゃんと学校にも通ってたそうじゃないか。二木は大学まで出てるんだぞ? その間にどうにかして能力者への凝り固まった想いを解せなかったものかと思ってさ。今のこの結果を嘆くためにじゃなくて、今後のためにそれを考えたいんだよ」  寺井はおそらくかなり早いうちから能力者に恨みを持っていて、それはもしかしたら児童養護施設にいた頃に端を発しているのでは無いだろうかと俺は思っている。何故なら、俺にも似たような経験があるからだ。  それは、俺の場合はミュート職員への不信感となったものだったが、寺井の方はそれが能力者へと向かっていた。内容は違えど、この二つには共通点がある。それは、無知は罪だという事だ。そして、より権力を持つものが無知であった場合、弱者は悲惨な目に遭うしか無い。 「うん、そうだね……。タワーの報告によると、寺井は小学生時代にセンチネルの子にいじめられてたらしいんだ。それが結構陰惨なものだったらしいから、そこが原点だろうって言われてる。ただ、その時二木も同じ目に遭ってるんだけど、彼はそこまで歪まなかったみたいなんだよね。その違いがなんなのかはちょっと分からないんだけど」  二人は同じ生まれで育ちも同じ、しかし二木は進学校を経て大学を卒業し、中小企業で営業職をしていた。対して寺井はというと、二木と同じ高校へ行くはずだったが、そのタイミングで生徒同士の争いごとに巻き込まれて停学処分を受けてしまい、そのまま学校を辞めている。その原因を作ったのが、二木と成績の上位を争っていたセンチネルで、早期登録をして現場に立っていたために発言の証拠能力が高く、なんの疑いもなくそちらの意見が採用されてしまい、寺井の意見は誰にも聞き入れて貰えなかったそうだ。 「その時、周りの生徒たちの中に、センチネルにも悪い奴はいるということを知っている子がいれば、あるいは、親が素行不良であったとしても、本人がきちんと育っているという判断が出来るものがいれば、話は違っていたかもしれない。いくらセンチネルの意見に証拠能力があると言っても、高校生であればその信憑性は低い。それに、その立場を利用する可能性があるという事を念頭に置くべき年齢だろう。そう考えるとさ、お互いの違いを知っていられる方法があればいいなと思わねえ?」 「それはつまり……、アレを体感させたいってこと? 翠が寺井にやったような……」 「そうだ。知らないことをいくら説明されても、それを理解出来ないってことはよくあるだろう? それなら体感するのが一番だと思うんだよ。入社して最初に受ける研修とか、逆にある程度スキルを積んで次のステージへ進むための講習とかを受ける時にさ、危険や成果を実体験させる講習。あれを能力別に義務教育中に体感させられねえかな。それもなるべく考えずにやれて、楽しめるやつ。お互いにマイナスイメージを持たなくていいように、楽しみつつ理解出来たらいいと思うんだよな」 「なるほどねえ。じゃあ、理解しようとしない子には、寺井みたいにきついお灸を据えられるようにするのもいいかもね」 「あ、お前笑ってんじゃねえよ。ちゃんと考えてやったって分かってるからって……。仕方が無かったとはいえ、出来ればやりたく無かったんだからな」 「あはは。ごめん、ごめん。分かってるよ。翠は優しいもん。うん、いいんじゃない? 俺はアリだと思うよ」  蒼はそう言って、俺の頭にポンと手を乗せた。  あの時俺が寺井にしたのは、実は罰するという行為では無かった。ただ、知らないのなら、理屈や喩えが理解出来ないのなら、体感するしか無いだろうと思ってやったことだったのだ。  タワーはそれを理解してくれたのだろう。それなら、いざ事が起きてから慌てるのではなく、小さな頃から能力による不都合と、非能力者であるがために経験するであろう不都合を、事前に経験しておいたらどうだろうかと思ったのだ。 「もちろんスタッフを教育現場に派遣する必要があるし、体験するためには何が必要になるかを考えなければならない。しっかり規定も必要になるだろうから、晴翔さんに相談してからになるだろうけれど……」  二人で未来の展望を話しているその時、ドアが軽く三回ノックされた。ふとその音の方を見やると、田崎が何人かを引き連れて入ってくるのが見える。その顔は、心配していた様子を浮かべていたようだけれども、俺と蒼の会話を聞いていたようで、急にいつもの様子へと戻っていった。 「おー、いいんじゃないか。やろぜ。詳細はトップ三が揃って調整すればいいだろうし、ミュートなら誰でも担当させられるぞ。無駄な争いが減るだろうから、俺も賛成だ」 「おー田崎。お疲れ」  まるでいつもの挨拶であるかのように、気軽な調子でひらひらと手を振ると、その手をバシッと叩き落とされた。どうやらかなり心配していたらしい。 「……お前なあ。何度俺の寿命を縮めれば気が済むんだよ。前回の入院よりはマシだけれど、本当に毎回心臓が潰れそうになるぞ! いい加減に事前告知なしの行動はやめてくれよな」  そう言いながらもふっと吹き出すと嬉しそうにはにかみ、急に花瓶の花を換え始めた。田崎が後ろを向いた瞬間に、何かがきらりと光ったのは、見なかったことにしてやろう。俺だって今田崎の顔を見た途端に鼻がツンと痛んだんだが、それは敢えて教えないことにしようと思っている。 「あの、ありがとうございました」  田崎の後ろには野本と咲人、肇と相原がいる。その相原の後ろから、消え入りそうな声がするりと入り込んできた。声の主を探そうとドアの方を見やると、相原の後ろにさらりと銀髪が揺れているのが見える。祈里と同じストレートロングの銀髪は、やや痛んで輝きが鈍かった。 「あー、漱だな? 良かった、お前も無事に気がついたんだな。元気だったんなら何よりだ」  俺が声をかけると、少しだけ顔を覗かせながらぺこりと頭を下げはしたものの、相原の腕にしがみつくようにして姿を隠そうとする。どうやら全ての事から解放された途端に人見知りになってしまったらしく、相原を盾にして人と話をしているらしかった。  そんな姿でも、元気そうなのは見ていれば分かる。助けられた人もいた。そう思えたことで、澱んでいた気持ちが、ほんの少し浄化されたような気がした。 「なあ、相原。お前は、漱と一緒になるつもりなのか?」  元々好き合っていた彼らは家の都合で引き離されただけであって、今でもお互いを想い合っている。それは聞かずとも分かる事なので、それを訊ねるつもりは無い。  ただ、二人がモジュレーションから逃れて生きていこうとするのなら、契約を交わすしか道はなく、その契約にはモジュラーを自由にする代わりに、パートナーが受けなければならない試練がある。それが、能力を捨てるという事だ。 「はい。俺は漱が見つかればそうするつもりでした。もちろん、漱の気持ちを聞いてからにしようとは思ってましたけど……」  しかし、そこで俺はふとあることに気がついた。相原は、最初から田崎の下についている。もしかしたら、漱との再会が叶った場合のことを考えてそうしていたのかも知れない。 「あー、だから内勤希望だったのか? 現場に出ると待遇は良くなるけど、全く会えなくなるもんな。それに、能力を失う覚悟もした上でうちに来たってことだろう?」  しかし、それは俺の思い過ごしだったらしい。相原は顔の前で手をブンブン振りながら、俺の問いかけを思い切り否定した。 「いえ、それは知らなかったので、考えていませんでした。僕は、漱がモジュラーだということを知らされてませんでしたし……。ただ、先ほど所長からその話を聞かされた時に思い出したんです。なぜだか分からないけれど、強く内勤にした方がいい気がたんですよ。ただ単に現場が怖いからだと思っていたんですけれど、何かを感じ取っていたのかも知れません。不思議ですね」  そう言って相原は笑う。しかし、その笑顔には、ほんの僅かに戸惑いの色が浮かんでいた。  センチネルとして生きてきた相原に、その能力を捨てさせるということは、今後の人生をミュートとして生きていくことを強要することになる。それは、思っているよりも恐ろしいことだ。俺はそれを経験したことがあるから分かる。  それまで当然のようにあった能力を失った状態でこれからずっと過ごすとなると、自分に出来ることも分からなくなるだろう。その状態になって、パートナーとうまくいかなくなってしまったとしたら、人生をどう生きていくのかすら分からなくなるだろう。それほどに、この決断は重いのだ。  しかし、相原が漱と契約を結ぶ覚悟を決めたとしたら、俺たちは彼をミュートのスタッフとして登録し、全力でサポートしていくつもりはある。大きな決断をするスタッフを支えていくのは、上司としては当然だろう。 「漱が眠っている時に所長からそれを聞いたので、不安に想いながら目を覚ますのを待ってました。でも、そうなった途端、漱は俺に飛びかかって来たんですよ。皆さんがいるのにいきなりがっつかれました。何も迷う暇がなかったです」  そう言って困ったように笑う相原の隣で、漱は申し訳なさそうに縮こまっている。 「がっつくって……いやでも、さすがにそこで契約したわけじゃ無いだろう? 俺でも嫌だぞ、スタッフの前で契約交わすなんて」 「あ、もももも、もちろんです! さすがにそれはしてません。……でも、結構危なかったです。俺も嬉しくて、そのまま流されそうになりました」  そう言いながら、相原は明るい笑顔を咲かせた。悩みと決意の間に揺れてはいるものの、漱を大切だと想う気持ちに迷いは無いらしい。 「そうだぞ、翠。お前にも見せてやりたかったよ。こいつ、いきなり俺たちの目の前でおっ始めようとしやがってさあ。びっくりしたぜ」  珍しく大人しくしてるなと思えば、やはり咲人は咲人だ。口を開けばデリカシーという言葉が吹っ飛んでいく。普段なら叱り飛ばすのだが、その言葉も今の俺にとっては元気の源のようなものだ。自然と顔が綻んでいき、力が漲るようにさえ思える。  しかし、真面目な野本はそれを聞き逃さない。ビシッと先輩らしく、咲人に礼儀を説こうとした。 「ちょっと咲人、言葉を選べ。一応まだ勤務中なんだぞ」  柔らかな低音が、キャンキャン騒ぐ小型犬のような咲人のふわふわな頭を撫でながら諭す。すると、小さな牙を覗かせてニヤリと笑った咲人は、野本の目の前に腕時計の文字盤を突きつけた。そして、 「大丈夫ですよ。ほら、今勤務時間終わりましたから。もうプライベートです。慎弥さんも、もうこれくらいで赤くならないでくださいよ。かっこいいくせにいつまでもウブなんだから」  と言うと、顔を真っ赤にしている野本の頬に口付けた。 「わーお、野本ってまだそんな所があるんだ。お前たちのパワーバランスって本当に謎だよね。咲人はいつまでも野本に擦り寄っていくのに、案外尻に引いているんだもんなあ。野本の方が先に好きになってるから、惚れた弱みってやつかね」 「そうなんだろうな」  二人を見て幸せそうに笑う蒼を見ながら、それでは俺たちではどうだろうかと考える。蒼はあまり二人のことについて照れを見せる事は無い。どこにいてもいつでもどんな時でも、俺を何よりも大切にするし、優先する。完全無欠の溺愛夫なのだが、実は俺の方が振り回されている事が多い感じがしているのだ。 ——最近何買った気がするんだよな……。  そう思っていると、その場面がパッと頭の中に浮かび上がる。俺は結構勝手な理由で叱られていたらしい。 「なあ、蒼。俺も実は野本と同じなんだけど。俺が先に好きになったんだし、俺結構お前の言うこと聞いちゃうんだよね。お前がダメだって言うことは絶対に出来ない。今回だってちゃんと辞めただろう? でもさ、俺思ったんだけど、お前って意外と俺に振り回されてなくない? だってさ、お前も部屋吹っ飛ばした時は俺に何も言わなかったよな? なんで俺だけが怒られるんだろうとは思ってんだけど。浴槽に黙って催淫剤入れられてて乱されたりとかさ……」  言いながら間を詰めていくと、蒼は必死に言われたことを反芻し始めた。どうやらその意識すら無かったようだ。案外溺愛夫は完全無欠では無かったのかも知れない。 「えっ? あ、そうだったね。……ごめん! そう言われれば、俺結構翠のこと振り回してるのかも。気をつけるよ! だから怒んないで。ね?」  必死に懇願してくる旦那様を見ていると、思わず吹き出してしまった。俺は振り回されてたとしても、こういうことにはならない。回数が少なくともこういう姿を見せてくれるだけ、やはり蒼は俺に振り回されているのかも知れない。 「別に怒ってはねえよ。ただ、唐突に気がついただけだ。俺すっごいお前のこと好きだなあって」 「そ、そう? それなら、ありがとう。俺も翠の事大好きだから。いっぱい振り回してくれて構わないからね!」 「……お前ら、何の話をしてるんだ? お忙しいところ申し訳ないが、ちょっと事件の話をしてもいいか、お二人さん」 「えっ? お、おお、どーぞどーぞ。そんな顔すんなよ、田崎。お前は見慣れてんだろ?」 「……まあな。目の前でヤってても何とも思わないくらいには慣れてんな。で、報告なんだが、モジュレーションの匂いについて分析が済んだ。お前が言ってたsE(シー)akari()という成分なんだが、おそらく野本の母親から採取された成分だ。と言っても、それに似せて作ってある合成化合物だがな」 「野本の母親から採取された成分? 人からって事は体のどこかからとったものってことか?」 「正確にいうと人体から直接採取するものじゃない。人体から発生したガスを採取したものだ。まず、sEのそもそもの成分をお前は知ってるか? あれが何から出来ているものなのか」 「いや、そう言われてみれば知らないな。そこを問う必要がなくて考えたこともなかった」 「そうだよな。俺も初めて知ったし、これはセンチネルだと恐らく知りようが無いものだ。この薬の素になっているのは、センチネルがケア中に発するものらしい。もっと分かりやすく言うと、イった時にだけ発生する匂いだ。ちょっと野本の前で言うのは憚られるんだが、野本崇はその匂いが忘れられなかったのかもしれないな。モジュレーションの際には、部屋の中には三つの香りがしていたらしい。それが、漱自身がモジュレーションで発する香りと、客のセンチネルの匂い、それとこのsEakariの混じったクラリセージの精油だ」  田崎は手元の香りの分析結果を見せてくれた。そこには、俺が寺井に嗅がせた室内の香りと同じ名前が載っている。そこに見慣れない名前といえば、sEakariだった。しかし、あの時の俺は何故かこれを理解していた。つまり、これは野本の離れで嗅いだものと同じだと言える。 「そうか、じゃあそれがあの時は知らないかったけれど今は知っている動物性の匂いってことになるんだな」 「そういうことだ。モジュレーションを受けた人間は、自分が恨んでいる人物の財産を盗んで二割を寺井に渡し、ゾーンアウトしないように野本崇に抱いてもらいながら、元に戻る時間を待つという手筈だったらしい。それが、数が増えすぎてそのルーティンが乱れ初めて、亡くなる人が出るようになったそうだ。これは全部漱の証言だから、間違いはないと思っていいだろう。翔平を聴取に立ちあわせて、嘘がないことを証明してもらってる」  漱は田崎のその言葉に、何度も頷いて見せた。まだ話すのは恥ずかしいらしいが、顔は一生懸命話に参加している。祈里と同じ顔をしているが、彼ほど積極的ではなく、かといって引っ込み思案というわけでもないのだろう。とても健気で、真っ直ぐに事件に向き合おうとしているのが伝わって来た。 「そうか、分かった。漱、証言するのは苦しかっただろう? それなのに引き受けてくれてありがとう。たくさんの人が助かるぞ。それに、翔平が証明してくれてるなら大丈夫だな」 「ああ。それに、不審死した十一名は行方不明者リストのうちパワハラによってリストラされている者たちと一致、詐欺と盗難で被害届を出している人物の部下だった者ばかりだった。つまり、これでミュートの行方不明者多発、不審死、能力者の詐欺・盗難の多発についての真犯人は捕まり、この三つの事件はこれで解決となる」 「捕まりっていうことは、野本崇も捕まったのか?」  俺の問いに、田崎が顔を顰める。それと共に、漱が俯いた。確かに、今ここで聞くのは酷いかもしれない。それでも、これからずっと避けられる話題でも無い。だからこそ、敢えて今ここで話そうと思った。 「ああ、捕まった。あいつは都市部のホテルで寺井を待っているところを逮捕されている。そこは、漱が昔から身売りをさせられてた場所らしい。お前たちが見た日は、そこで大物政治家を客にとってたらしいぞ」  田崎はそう言うと、そんなことを自分の口から言わなければならないという事態に吐き気がするような顔をした。それはそうだろう。彼は恐らく四年ほどそこで売春をさせられていたことになる。それも実の親の指示でそうしていたのだ。それは、何度聞いても聞き慣れることのない、慣れてはいけない酷い話なのだ。その被害を受けながらも今日まで生き抜いた漱に、俺は尊敬の念を抱く。 「酷い扱いを受けてたんだね」  蒼が漱に悲しげな目を向けると、漱は弾かれたように体を硬直させた。そして、ポツリと呟く。 「でも、父さんが苦しんでたのは、父さんが悪いわけじゃ無いから……」  そう言うと、さめざめと涙を流した。  漱は知っていたのだろうか。父が実父に愛する人を殺され、山の中に無惨に捨てられてしまっていたことを。口ぶりからするとそうであるだろうと思える。それでも、俺たちはこれを受け入れさせるわけにはいかない。それが彼のこれからを見守っていく大人たちの義務だとさえ思っている。  ただ、急激な思考の矯正は混乱を招く。彼が壊れないように気をつけながら、ゆっくりと教えていく必要があるだろう。 「どれほど辛い思いをしたとしても、そのケアを子供がする必要は無いんだよ」  蒼も小さな声で呟く事しか出来なかった。 ◇◆ 「ただいまー」 「ただいま」  ガチャリと閉まる鍵の音が重苦しい。二人で帰ってきた部屋の中は、秋にしてはまだ夏のようにエネルギーに満ちた香りに包まれている。 「あー疲れたあ。ねえ、慎弥さん。夕飯は軽いものでいいですか? 作り置きしてあるものがあって……」  何事も無かったかのように振る舞いながら、俺はどうあの話を持ち出そうかと考えていた。  あの野本本家に向かった日から、二人でここに帰って来てからの慎弥さんに、俺はどう接していけばいいか分からなくなるだろうと覚悟はしていた。でも、いざそうなってしまうと、本当にどんな言葉をかければいいのかが分からない。  野本崇が逮捕された日、同時に英子叔母様も捕まった。同居していて何も知らないという言い訳が通じるわけがないと警察が判断したようだ。  しかし、聴取の間に受け答えがおかしいことに気がついた捜査官が検査を受けるように促し、結果認知症であることが発覚。まだら呆けの状態で、夜に不穏が訪れることを自覚していた彼女は、その姿を俺たちに見られたくなくて野犬が出るから早く帰るようにという嘘をついたらしい。  地元の人たちにも何かしらの言い訳をして本家への人の出入りを減らしており、静かに亡くなろうとしていたようだ。崇はそれを知った上で離れを犯行に使用していたのだという。酷い男だ。  一方、崇の本妻である静子は、英子叔母様が言うとおりに数年前から精神を病んでおり、一人では生活することは難しいと判断された。そこで、祈里と漱が彼女の入る施設を選び、近くそちらへ越していくのだという。こうして、野本家本家は解体されることになった。  しかし、そのためには片付けないといけない事が色々とある。過去の全てを清算して生きて行く事を選んだ野本三兄弟は、財産を全て放棄することにした。そして、長年支えてくれた相原家にその全てを託すことにした。そのうちの一つに、野本燈の墓守も入れてもらっているらしい。  実は、その墓を見つけたのは、俺と慎弥さんだ。山の状況を確認しようと林に入ると、燈の遺体が捨ててあると言われていた場所はきれいに整地されており、そこに墓が建てられていた。それはなんと静子が建てたもので、彼女は訳もわからないままに燈の菩提を供養していたのだという。  慎弥さんは母の墓前に手を合わせ、静かに涙を流した。その胸の中に去来するものがどんなものなのかを、俺には測れない。俺には一応母がいた。父もいた。彼らはいい親では無かったけれど、三人からそれぞれに愛をもらっていた。  小さな頃から親に捨てられたのだと言われ、永心のためにだけ生きろと言われていた彼が、家の都合で実父の元へ行かされた挙句に存在を否定され、その上母が祖父に殺されていただなんて、どんな気持ちになるのかが分からない。だから、なんて声をかけたらいいのかが分からない。分からないけれど……。  ずっと頭を悩ませているうちに、ふと頭に浮かんだ事があった。それを伝えてみたいと思ったのだ。慎弥さんがどんな反応をするのかは分からないけれど、もしかしたら怒らせてしまうかもしれないけれど……。 ——俺は彼の居場所になりたいんだ。  その思いを胸に、彼の前に立った。 「慎弥さん、お話があります」

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