17 / 18
第16話 和奏
――博士。
私の作製したアンドロイドを、
どうか、最愛の結惟に。
第16話
和奏
穏やかな日差しが差し込む部屋で、惟織は新聞を開きながら微睡む。
――が、
「あーっもう! わっかんねぇ!!」
と、いらつきながら入ってきた声にすっかり眠気も吹っ飛んでしまった。
書類を叩きつけるようにテーブルに投げ、自身もがさつに座る。
黙っていて、外見だけ見ていれば、自分には勿体無いくらいの美人。
彼女こそが、粟島真希。
惟織の最愛の妻にして、問題のある女性だ。
彼女は生まれながらの半陰陽。つまりは、女性の体をしていながら、男性器も持ち合わせている。そのせいか、彼女の言行は女性とは程遠く、まるで男性。
惟織は読んでいた新聞を閉じてそばに寄り、「どうしたの?」と、ムシャクシャしている真希に優しく問いかけた。
「止まった原因、さっぱりわかんねーの。隅々まで調べてみたけど、壊れてるところもないし、異常も見当たんねーし」
書類を持っていたボールペンで叩きながら言う。惟織は“ふーん”と返しながら、真希の横に静かに座った。
「困ったねぇ」
「困ったねぇ、で済むか。どアホ!」
最近の中でも、一番機嫌の悪い真希に、惟織も困ったような笑顔を見せた。
真希はイライラし出すと非常に怒りっぽくなる。その上怒り出すとなかなか収まらない。
「アイツさぁ、俺に内緒でチップ追加してたんだ。記憶回路の近くにあるから、それに付随するモンだと思うんだけど、設計図にも載ってないし、チップのデータを読もうとすれば、エラーで読み込めないし。あーもう、最悪だっ!」
真希は書類の上にボールペンを投げ捨てる。
「……これじゃいつまで経っても、結惟に返してやれない……」
惟織は、少し泣き出しそうな、気弱な声で呟いた真希の頭を撫でる。
「大丈夫。和奏は真希と同じように結惟を大切に思っていた。だから結惟が悲しむような事はしないよ」
「うん……」
惟織はにっこり笑って、書類を手に取り立ち上がる。
「僕が見てみるよ。何か分かるかもしれない」
時計の針の音が、嫌なくらい大きく響く。
結惟は机にうつ伏せたまま、窓の外をじっと眺めていた。
テーブルの向かいには、自分を監視するように、律が本を読みながら座っている。
若が修理に連れて行かれてから5日。父からは何の連絡もない。
律は心と共に若を連れて行って、その日の内にとんぼ返りして来た。
若は博士に任せておくしかなかったし、何より結惟を一人にしておくのが心配だった。
若が故障しただけで、生気を吸い取られたかのように動けなくなった結惟。
修理すれば直ると言うのに、結惟は今にも若の後を追って、命を経ちかねない、と不安になるくらいの状態だった。
会話もない二人の間に、きりが静かに紅茶を置き、お茶の用意を整える。
「…………結惟、休憩するか」
「…………」
「ゆーい、起きてんのかー?」
うん、と蚊の泣く程の小さな声がした。
律のため息の方が大きいくらいだ。
「ならちゃんと起きて、茶くらい飲め。そんなんじゃ若が腹空かせて帰って来ても、食わせることなんか出来ないぞ?」
説教するように言うと、やっと結惟が重い体を起こした。
今日、まともに結惟の顔を見たのは今が初めてだった。
目が腫れぼったい。また泣いたな、と律は思った。
「クッキー食え。美味いぞ」
「…………いらない」
結惟は目の前にある紅茶に手を伸ばし、一口飲み込んだ。
そのまましばらく制止したかと思えば、見る見る内に目に涙を溜める。
「だぁぁっ! なんで茶ぁ飲んで泣くんだよっ!」
律は怒ったように声を上げる。きりが後ろでビクッとした。
「だだだ、だって、紅茶、いつもは若が淹れてくれてっ」
「じゃあ紅茶以外がいいんだな! きりっ」
「は、はいっ」
「コーヒー淹れろ、コーヒー!」
律の指示に、きりが飛ぶようにコーヒーを用意した。飲みかけの紅茶は撤去され、律は気を取り直してコーヒーを飲んだ。
「……そんなに気にしてたってしゃあねぇだろ」
「……だって、律さんや心にだって、止まった原因が分からないんだよ? お父さんから連絡だってないし……」
やっぱり今にも泣き出しそうな声で、結惟は言う。
「ついでだから、いろんな所点検してんだろ」
「……直らないんじゃなくて……?」
結惟の一言に、律もつい無言になった。
……実は、真希から連絡は受けていた。
「どこが壊れたのか分からない」と。同時に、どう直していいか分からない、と。
しかし、それを告げる勇気が律にはない。結惟には一番言いたくない言葉だった。
「若……帰ってこないかもしれない……」
「端っからそう決めつけんな」
「だって和奏さんは……若の製作者はもう亡くなってるんでしょう?」
律はドキッとした。
「お前、なんで知って……」
「心が言ってた。指示を出したのは博士だけど、製作したのは和奏って人だって。だから壊れたって、完全に直すことなんか出来ないんじゃないの……?」
結惟の言葉に、律は今日何度目かになるため息をついた。
指先だけで合図をして、きりを部屋から下げさせ、結惟と二人きりになる。
「お前、和奏のこと覚えてるか?」
「それが……よく、思い出せなくて……」
「無理もないよな。会ったのはお前がまだ小学校入った頃だ」
律が思い出すように言う。結惟は静かにそれを聞いていた。
それは、結惟が小学校一年生の夏休み。
惟織は結惟の遊び相手にと、律と和奏を連れて帰って来た。
遊び相手と言っても、会ったばかりの頃、結惟と和奏が二人きりで話すことはなかった。
彼は積極的に他人と接する性格ではなかった。いつも物静かで、口を開くことは少ない。
二人が初めて話した日。
夏の青空が眩しい昼下がり。
「和奏、ちょっと律と出かけてくるから、結惟のことよろしくね」
そう言って、惟織は和奏を置いて行ってしまった。
和奏は分厚い本を片手に、庭で遊ぶ結惟を見ていた。
……紙飛行機か……。
結惟が空に向かって投げる物を見て、心の中で呟く。
頑張って投げても、長く飛ばない紙飛行機。
けれども、結惟は何度も何度も空に投げる。
……馬鹿の一つ覚えみたいだな。
痺れを切らして、和奏は席を立つ。
「……貸してみろ」
初めて結惟に話しかけた。犬のように可愛らしい目が見上げてくる。
「こんな弱い広告紙で折っているから悪いんだ」
和奏は結惟を連れて、一度部屋へ戻る。そうして、自分が持っていたノートの一番最後のページを、カッターできれいに切り取った。
「いいか、紙飛行機っていうのはな、中心線がしっかりしていて、左右対称にならないと長く飛ばないんだ。何故かと言うと――」
和奏は珍しくペラペラ喋りながら紙を折っていく。
気がつけば、結惟がキョトンと自分を見ていた。
「……子供には難しい話だったか?」
「ううん。わかなさんって、いっぱい知ってるんだな~って」
「お前より長く生きていれば当然だ」
酷く冷たい口調で言ったことに気づいて、和奏は「すまない」と小さく言った。
結惟はなぜ謝られるのか分からない様子で首を傾げたが、すぐにニコッと笑った。
和奏は何だか気恥ずかしくなって、紙飛行機に視線を戻す。
「……出来たぞ」
和奏から完成した紙飛行機を受け取って、結惟は嬉しそうに庭へ走る。
自分で飛ばしてみたけれど、思うほど飛ばなかった。
「……貸してみろ」
和奏は結惟から紙飛行機を受け取る。
「飛ばす時にもコツがあるんだ。少し下向きに紙飛行機を構えて、まっすぐに押すような感じで飛ばす。力は入れない方がいい」
和奏は口で説明しながら、実際に飛ばしてみせた。
紙飛行機はゆっくりと風に乗って、結惟のそれより遥かに飛行距離を伸ばした。
「すごぉぉいっ!」
結惟は大声を上げながら、落ちた紙飛行機を拾う。
「すごい! すごいねわかなさんっ!!」
自分のことのように喜ぶ結惟。
和奏は目を細めて結惟を見た。
忘れかけていた、他人に頼られて嬉しいという思い。ひどく久しぶりに他人に手を貸した気がして、なんだか心がむず痒くなった。
「……あぁ、いい天気だな……」
眩い光を注ぐ太陽を仰いだ。
それから、結惟と和奏が一緒にいる姿をよく見かけるようになった。
彼は従来通り、多くは語らない。だが、今まで無表情だった和奏からは想像出来ないくらい、結惟の前での彼は穏やかな表情を浮かべていた。
結惟もあれからすっかり懐いて、事あるごとに和奏を呼んだ。
その日も結惟の誘いで、和奏は木漏れ日の下、お茶を頂いていた。
「わかなさんは、お父さんとおしごとしてるの?」
「ああ……そうだな」
「ロボットつくったりするの?」
「そうだ」
「ふぅーん……」
結惟はそれっきり、俯いて黙りこんだ。
グラスの氷を溶かすように混ぜている。
「……嫌いなのか?」
「え?」
「博士の仕事」
和奏は人の気持ちに敏感な方ではない。出来ることなら、あまり人と関わりたくない。
だけど寂しそうに目線を下に向けた結惟が気になった。
思えば、これが初めて人の気持ちを気にした瞬間なのかもしれない。
「……きらいじゃないよ。お父さんはすごいと思ってる」
「じゃあ、何で俯く」
「だって…………」
結惟はそれっきり、また黙りこんだ。
和奏も、結惟が話さないならそれ以上聞く必要はないと思った。
グラスの氷はすっかり溶け、汗をかいたグラスの中に、薄甘い水が残った。
「……なつやすみがおわったら、ぼくはまたひとりぼっち」
ぽつりと、結惟は和奏に呟いた。
「お父さんはなつやすみがおわったら、またおしごとへいっちゃうから……」
寂しい、と結惟は言った。
春、夏、冬――長い休みの時だけ、父は帰って来てくれる。でも休みが終われば、また自分を置いて行ってしまう。
父に会える時は、いつも嬉しさと寂しさの繰り返しだ。
それは幼い結惟にとって、我慢するしかないことだった。
「……博士にはしなきゃならないことがいっぱいある。しょうがない」
分かっている、と結惟は呟いた。
自分はなんて現実的で冷たいことしか言えないんだろう。
咄嗟に出た言葉だとはいえ、こんな子供に温かい言葉の一つもかけてやれない。和奏はそんな自分が歯痒いと思った。
「わかなさんも、お父さんといっちゃうんでしょ?」
涙に揺れる瞳が見上げてくる。
「ねぇ、ぼくといっしょはいや? わかなさんも、おしごとのほうがすき? お父さんとかえっちゃうの?」
少しでも、結惟に頼られたのが嬉しいと思う。
しかし「帰らない」とは言えない。
でも、それを素直に口にしたら、この子はきっと泣くだろう……。
和奏は返答に困って、何も言い返せなかった。
結惟を元気付けてやれる言葉も見つからないまま、時間だけは残酷に過ぎた。
「結惟、今度は冬休みに帰って来るから、それまでいい子に待っていてね」
別れの日、惟織は結惟をしっかりと抱き締めて言っていた。
結惟は心配をかけないように無理して笑っていた。少なくとも、和奏にはそう見えた。
自分と結惟には親子のような絆はない。ただ“ひと夏を一緒に過ごしたお兄さん”くらいにしか、結惟の思い出には残らないだろう。
そう思うと、何だか無性に悔しくなった。
惜しくも、この小さな少年の心の中に、大切な存在として残れたら、どんなに幸せだろうと思った。
しかし、和奏はその感情が何なのか理解出来ずにいた。
「……わかなさん」
気づけば、結惟がすぐ後ろに立っていた。
「あの、遊んでくれてありがとう」
そう言って結惟は笑った。
その笑顔が苦しくて、和奏は結惟を抱きしめた。
「……笑う必要はない。悲しいなら泣けばいい」
そう静かに言うと、結惟の瞳がみるみる曇って、大粒の涙が零れた。
「――ロボット、作ってやる」
何か思い出したように、和奏は結惟に呟いた。
「結惟が一人にならないように、結惟のそばにいつもいてくれるロボットを、作ってやる」
「……ほんとう?」
「本当だ。何年かかるか分からないけど、必ず作ってやる。結惟が気にいるようなロボット。だから、泣くな」
言い聞かせるように結惟に言った。
結惟は和奏の腕の中で、こくりと頷いた。
約束だ、結惟。必ず作ってやるから――。
若を見ると、あの時の和奏の言葉を鮮明に思い出した。
結惟の寂しい気持ちから、ずっと目を背けていた自分。
泣け、と素直に感情を引き出したのがあの不器用な男で、惟織は心底驚いた。
真希から受けった書類を片手に、若の内部を覗く。
「チップ…………これだね」
惟織はそれを見つけると、傷を付けないよう、大切に取り除く。
本当に偶然だった。
あの日、惟織は彼に用があって、彼の部屋を訪れた。
その時、彼はこのチップを若に取り付けていた。
「……それ、何?」
惟織の声に、和奏はビクッと体を強ばらせた。
「……惟織様……」
「それ、設計図にないよね。何なの?」
別に悪い事をしているわけでも、それを咎めるつもりもなく、ただ疑問に思ったから聞いただけだった。
だが、和奏は悪戯がばれた子供のように目線を反らした。
惟織はうーん……と考え、人差し指を立てた。
「じゃあ真希さんには内緒。絶対喋らない。二人だけの秘密にしよう」
「…………」
「だって、もし君に何かあって、アンドロイドが壊れたりした時、直しようがなかったら困るでしょう?」
だから、ね? と惟織は聞く。
「…………もし、そんなことになれば、このチップを外して下さい。その為の制御装置です」
「いいの? 外して」
「構いません。このチップのデータを読み込むようなことがあれば、必然的に止まるようにしてあります」
和奏はそれだけ言った。
「……わかった。覚えておく」
惟織もそれだけ返した。
用件を済ませて、帰り際に惟織はもう一度、和奏にあのチップの事を聞いた。
「あれは……和奏が自分で作ったもの?」
こくり、と和奏は頷く。ならそれが何なのか、惟織には即座に見当がついた。
「……それ、感情回路が組み込まれているの?」
惟織の問いに、和奏の顔が一気に赤く染まった。
このアンドロイドを作るにあたって、唯一和奏が入れたくないと反対したのが、感情回路だった。
和奏は手先が器用で、何でも上手に作業をこなした。そんな和奏が苦手としたのが、感情回路の作製。自分の気持ちすらよく分からない彼にとって、感情回路を作製するのは苦痛だったし、感情回路を作るのは、律や心が得意としていた。
しかし、自分が結惟の為に作ったアンドロイドに、他人が作った感情回路を入れるのは、正直面白くなかった。
惟織は和奏が結惟に抱いている感情に、何となく気づいていた。如何せん、自分の周りには、自分の気持ちに不器用な人間が多いから、他人の感情に鋭くなっているのかもしれない。
「そうかぁ……これは和奏の大事な気持ちなんだね……」
目を細め、惟織は嬉しそうに笑う。
「あ、あの、惟織様、本当に、内緒にして下さいね」
「うん、分かってるよ。約束」
指切りげんまんをした。
――あの時、和奏はすでに自分がいなくなることを想定していたに違いない。
だから、不器用な自分の想いを、言い出せなかった自分の想いを、このアンドロイドに託したんだ……。
「……和奏、約束したけど、ちょっと破っていいかな?」
ぽつりと天に呟いて、惟織は電話を手に取った。
静かな空気を打ち消すかのように、執事の田中は電話を持って部屋の扉を開いた。
「坊ちゃん、旦那様からです!」
声を出すのが早いか、結惟は席を立ち、ひったくるように受話器を取った。
一緒にいた律も、きりも、息を飲んだ。
「お父さん! お父さん若はっ!?」
『あぁ、結惟。心配かけたね。もう大丈夫だよ』
聞き慣れた父の声が、優しく耳に飛び込んできた。
結惟は安心して力が抜けたのか、へなへなと床に座り込んだ。
「よか……良かった……もし、直らなかったらって……僕……」
溢れた涙が絨毯を濡らす。
その様子を見て、律も溜め込んでいた息を吐いた。
『それでね、結惟。相談なんだけど』
「うん、なに……?」
『若の感情、どうしようか?』
まさか、今そんなことを聞かれるなんて予想もしておらず、結惟は口をまごつかせた。
『今回若が止まった原因はね、和奏が残した感情回路のせいなんだ。もし、この若が壊れそうになったら、最後に自分の気持ちを結惟に伝えようって残したものがあって……』
「あ……」
――愛してる。
若が最後に言ったその言葉は、本当に和奏さんが残したもので――……。
「お父さん、僕、和奏さんのこと忘れてしまってて、和奏さんは僕のことずっと覚えていてくれて、約束守ってくれたのに……僕……」
なんて酷い奴なんだろう、と自分を責める。
もしあの約束を覚えていたら、もっともっと、大事な気持ちで若を迎えてあげられたかもしれない。
『それでね、もし結惟がよければ、これそのまま感情回路に組み込んじゃだめかな? 和奏の想いを残して置いたら駄目だろうか?』
惟織の言葉に、結惟はブンブンと首を横に振る。
「若と和奏さんは一緒だもん。そのまま、入れておいて下さい。お願いします」
「分かった」
そう返事をして、また連絡する、と惟織は電話を切った。
「あっ! それ取ったの!」
気づけば真希が後ろに立っていた。
「取っちゃったよ。多分直ってるはずだから」
「うっそ! マジで」
「マジマジ大マジ。あ、でもまだそのままでね。感情回路入れるから」
良かったと真希は安堵の息を吐いた。
「……それ、何だったの?」
惟織の手元に大事そうに置かれたチップを指差す。
「ん? ヒミツ。男には他人に言えないこともあるんだよ」
人差し指を唇に当てながら、惟織は微笑んだ。
「なんだよ、それ」
「だから、内緒」
惟織は背伸びをしながら窓の外に目をやった。
空は快晴。
あの夏の日のような、青空――
ともだちにシェアしよう!

