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8月31日 PM11:14 ―4

 すでに動けなくなり、汗ばんだ颯也(そうや)の胸の上に寝そべって、その鼓動を味わったあの夏の午後。  これだけは、凡人の俺にだって、今でも、鮮明に思い描くことができる。  クーラーからの冷気が静かに動いて、ゆっくりと往復しながら俺たちを穏やかに撫で続けていた。  真夏の終わりを告げる蝉の声。少し傾きかけた優しい陽光。  颯也は覚えてるかな…。いや忘れてはいないだろう。なにしろ颯也は“天才”だから。だけど、感じ方や思い出のトーンは、俺とは違っているかもしれない。 『――ワンオクの写真集(フットマーク)、あげよっか…?』  颯也の胸の突起に向かって、体以外でも喜んでもらえそうなことをつぶやくと、颯也はくすぐったそうに震えて実際少し笑った。そして予想どおりの答えを返して来た。 『いいよ、全部から。』  颯也は一度見たものを忘れない。それを自由自在に頭のなかで取り出して、何度でも味わうことができる。誰かがふざけて“取り込む”と表現したのを、颯也は気に入って自分でも使うようになった。  颯也の整った顔だちの奥底にある才能が、俺は嫉妬するほど羨ましかった。颯也の胸の突起を舌で撫でてみると、颯也が人差指の先で俺の舌を触ったので、その指を口に入れて吸うように舐めた。 『…優海(ゆう)ちゃんの体も、もう全部取り込み済み。』  いたずらっぽく言って笑う颯也の、そのすべてを取り込んでしまいたかったのは、俺のほうだったのに。  結局は俺のほうが颯也に吸い出されてしまっていた。事実、俺は颯也に、以前とは比べものにならないほど完全にのめり込んでいた。  俺は颯也の才能が欲しかった。颯也自身になりたかった。  俺の異常な願望も知らずに、颯也は俺にヌいてもらうのが気持ちいいから、それだけで俺の好きにさせてくれていた。  俺の転校によっていったんは途切れてしまったこの関係は、颯也がここに編入してきてからすぐに再開され、今に至る。  颯也の純真で無垢な本能を刺激しては、自分の欲求を満たす日々。 「…くく」  颯也を少しでも長く繋ぎ留めようと、俺から貪るみたいにして颯也の舌を求めていたら、颯也が軽く笑った。 「…なんだよ…。」  やめんなよ。今日は俺の好きなように、なんでもしてくれるっつっただろ。  なのに颯也は、俺を横抱きにしたまま俺から顔を離した。颯也の腕に体重を預けたまま颯也を見上げる。  逆光する月の光が、颯也の顔の輪郭を繊細にかたどる。…笑ってる。 「…俺、すげえんだよ優海。」 ……。なにを今さら。 「…そんなん、知ってるし。」 「ちがうよ。」  颯也はますます嬉しそうにした。次の言葉を待ってみたが、とくに何も言わない。  どうせ天才の考えることだ。凡人の俺は、所詮その顔に見とれる程度のことしかできない。  またキスを求めようとして、すると颯也の唇が動いた。 「1年前の今日のこと、優海、覚えてる?」 「……。」  1年前。  俺がこの学園に編入することを、LINEのグループに一斉送信した日。  俺はすでに寄宿舎に入寮していた。誕生日だというのに知り合いもなく、翌日の実力考査の準備で朝から机にかじりついていた。  休憩がてら、何も知らない呑気な同級生たちから次々に送信されてくる“おめでとう”メッセージを眺めていた午後。  見ているうち、なんだか無性に辛くなってきて、俺はようやく打ち明ける気になった。俺がこの学園に編入することを。  送信した途端に、今度は、思った通りの反応が次々と飛び込んでくる。 ―― ホモ(ぞの)!?なんで!? ―― ガチ?マジ?うそだろ?  何も言わずに地元を離れてしまったのは、“ホモ(ぞの)”に入学することがちょっと恥ずかしいせいもあったが、ちょうど夏休みに入る時期でもあり、誰にも会わずにうまく姿を消すことができるとも思ったからだ。  別にあいつらが嫌いだったわけじゃない。むしろ大好きだった。だから、蒸し暑い夏の盛りにちょっとした面倒ごとを切り出すことに、俺は気が引けていた。  夏休みのような長期の休暇は、人生の区切りをつけるのにきっとちょうどいい。俺にとっても、奴らにとっても。 ―― なんでだまってたん?  ようやく届いた颯也からの返信だけに、俺は飛びつくように反応した。 ―― ごめん。言い出せなくて。  既読はすぐについたものの、それが颯也のものかどうかまではわからない。  返信も、颯也からだけやって来ない。  反応が知りたくて、俺は、躊躇しながらも颯也だけにメッセージを送った。 ―― お前も来ない?俺より頭、いいんだから。 …軽い皮肉も、込められていた。  本当は、知っていたからだ。  颯也は簡単にここに来られる立場じゃない。  颯也の父親は地元の小さな町工場(こうば)を切り盛りしていて、長男の颯也は昔からその工場(こうば)を継ぐのだと宣言し、父親のほうも、今どき稀に見る孝行息子の世襲宣言を町中に自慢していた。  学園は、小さな町工場を継ぐためだけにしては授業料があまりにも高額で贅沢過ぎた。海外留学なんていう不要なオプションまで付いている。(かくいう俺は、家庭環境としては地元では(じょう)(ちゅう)だった。)  颯也の下にはまだ弟が2人、妹が1人。だからなのかは知らないけど、颯也はその頃、高校も大学も国公立に絞っていた。 “お前も来ない?”…なんて、本気だったわけじゃない。  ただ、親の言いなりになって俺だけがこんなところに入学させられる虚しさと、それでもこうして必死に努力しなければ自分の自信すら保てない不甲斐なさと、それに比べて俺の苦悩とはまったく別の次元で自由奔放に晴れがましい人生を謳歌できている(ように見える)颯也への激しい嫉妬心が、つい、軽い皮肉を言わせてしまったのだ。  予想される返信はこんな感じだった。 →“無理に決まってんじゃん” “イヤミかそれ”  こんな返信が来たら、悪いけどちょっと、嬉しいかも… →“忘れられんの?俺とのこと。” “俺は、優海のこと、忘れたくない。だから、戻ってこい。”  俺たちが成長していくにつれ、主観や趣向はがんがん変わる。いつか終わりはくるものだ。その終わりを、俺は自ら選択した。  颯也は、こんな俺のわがままを、ちゃんと怒ってくれるだろうか。  颯也にとっては、俺なんかとの関係は、ただの遊びに過ぎなかったんだろうけど…  ところが、颯也から来た返信は、俺に対する辛辣な激励メッセージだった。 ---------------→つづく

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