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第四話「午後・逃げて」

15:10  まだ並んでいる人達がいたから、食べ終わった僕らは長居せずに店を出た。  場所を、デパートの空中庭園のベンチへ移す。空にはさっきより雲が増えていた。  湿度を含んだ風に当たりながら、パフェの余韻に浸った。 「美味しかったなぁ。まず、フルーツがケタ違いに上等なんだよ。で、それに合わせるクリームやアイスも、間違いない味でさ。盛り付けの造形だって、ファミレスとは比べ物にならないよ」  マコトは少し呆れたようにフフフと笑う。 「満足してくれたなら、なにより。で、この後どうしようか?」 「マコトは行きたいところないの?」 「そうだなぁ。夜景とか見たいかも」 「いいね、夜景!」 「ここから近いところだと、都庁だけど、庁舎はつまらなそうだな。遠いけど、東京タワーとか、スカイツリーとか……」  マコトがスマホで調べてくれる。 「あっ、スカイツリーにはショッピングモールみたいな場所もあるらしい。ここがいいかな」  六月下旬の今、日没は19時ちょうど頃のはずだ。 「あのさ、マコト」  できるだけ深刻な声色にならないよう心がけ、問いかける。 「ん?」 「帰るんだよね?今日。新幹線に乗って、家のある街まで帰るんだよね?」  風が、よく手入れされた樹々を揺らす。 「どうしたい?カナタは?」  僕を見ずに、景色を眺めながらマコトが言う。  どうしたいとは、どういう意味だろう。「日帰りの駆け落ち」とマコトは言っていたはずだ。でも。 「僕は……」  気持ちが高揚しているのだ。学校の図書室で過ごすはずの日が、特別な一日になったから。髪型だって理想的な形に整っている。パフェだって想像を超えて美味しかった。  そしてなりより、今現在、マコトとデートと呼んでも語弊のない時間を過ごせていて、信じられないくらい楽しい。 「僕は……」  このままマコトが、あの街には帰らないと非現実的なことを言い出してくれたらいいのに。  このまま東京にいたい。東京で暮らしたい。  愚かにも、そう願っている。 「ごめん。困らせるようなこと言った。帰るよ、ちゃんと。でもまだ待って、終わったらメッセージが来ると思うから。それまでこうして、あと二、三時間、俺と逃げてて」 「何が終わったら?」 「大したことじゃないんだ。ほんと。でも、その場に立ち合いたくなくて。情けないんだ俺、ごめん」  そのとき、マコトのスマホが電話の着信を知らせる。  しばらく画面を見ていた彼は、一つため息をついてから電話に出た。 「もしもし。……うん。いや、無理。……行けない。何ででも。今?……学校じゃないよ。だから今から行っても、物理的に間に合わない」  なんの電話だろう? 「うん。エルサだって別れの時、鳴くだろ?いやなんだよ、ああいう姿を見るのは」  エルサって誰?彼女だろうか。 「分かってるよ。いい人なんだろ。……うん。子どもみたいなこと言ってるって、自覚もある。……だけど、俺は離れたくなかったから、カナタと」  カナタ?どうしてここで、僕の名前が?聞き間違いだろうか。 「ちゃんとお気に入りのおもちゃも渡して。……いや、だから今からじゃ間に合わないから、姉ちゃんから渡して。うん。エサも、あれしか食わないって、ちゃんと伝えて。……ごめん。うん」  エサ? 「じゃ、引き渡し済んだら、メッセージ送って。……最後に、カナタの可愛い写真、撮っておいてよ。……うん。あっ、エルサとカナタが一緒に写ってる写真も。……ごめん。よろしくお願いします。はい」  マコトは通話を切り、ベンチから立ち上がった。 「先に帰りの新幹線の時間を決めて、それからどこ行くか決めよっか」  今の電話の内容には触れず、マコトが現実的で建設的なことを口にした。 15:30  帰りの新幹線は19:57東京駅発にしようとマコトが決めた。これだと22:00には自転車を止めてある最寄り駅まで帰ることができる。  夏至を過ぎたばかりの今、空はいつまでも明るい。東京駅から離れたところで夜景を楽しむのは無理だろうという結論も、マコトが出した。 「さて。どうしようか」  僕らはとりあえずデパートを出ようと、エレベーターで一階へ移動する。 「渋谷とか行ってみる?それとも池袋がいい?」  歩きながらマコトが色々と提案してくれるけれど、僕はさっきの電話が気になって仕方がない。  日帰りの駆け落ちに誘ってくれたのには、何か理由があるはずだ、とは思っていた。  お姉さんと思われる人との電話の内容からして、飼い犬のことが原因なのだろう。  もし今朝、コンビニでマコトが出会ったのが、僕じゃなかったら……。  彼は違う誰かと東京へ来ていたはずだ。  だったら、最初からそう言ってくれればよかったのに。 「誰でもいいんだけど、今日一日俺に付き合ってくれるような暇な人はいませんか?」って。  駆け落ちなんて、おかしな言葉を使うから、変に期待して、ドキドキして、バカみたいだ。 「よし、カナタ。渋谷にしよう!それでスクランブル交差点で、写真撮ろうよ」  駅の改札に入り、山手線のホームへ向かう。 「でも、その前にどっかで充電器買わないとスマホの残量ヤバいわ」  あんなに迷った新宿駅も、電車に乗るときにはスムーズだった。 15:45  階段を登っていくと、ホームに黄緑色の電車が到着しているのが見えた。  その電車から降りた多数の人が改札を目指して下ってくるから、混雑が増す。  前を歩いていたマコトが振り向き、アイコンタクトと指差しで、この電車に乗ろうと言っているのがわかった。  コクリと頷いて、駆け足になったマコトを追う。  一番上まで階段を登り、目指す電車の扉を目視で確認した。人波を掻き分けるように、そこを目掛けて進んでゆく。  そんな僕の前に、ベビーカーを引いて更に幼い子と手を繋いだ母親が現れ、進路を塞いだ。  マコトは一足先に電車に飛び乗り、僕に向けてコッチコッチと手招きをしている。  親子を避けて駆け込めば、おそらく間に合ったと思う。  それなのに僕は、行く手を阻まれたまま回避せずに、足止めされることを選ぶ。 『扉閉まります。駆け込み乗車はおやめください』  マコトを乗せた山手線は、僕の目の前で扉が閉まり、渋谷方面に向けて発車してしまう。  マコトは焦って目を丸くし、ホームに取り残された僕を見ていた。 15:47  すぐにポケットの中のスマホが震えた。 『ごめん、カナタ』『俺、次の駅で降りてすぐに折り返すから』『そのままそのホームで待ってて』『ホントごめん。俺、急ぎ過ぎた』  続けざまにメッセージが届く。  僕は返事をしないまま、さっき駆け上った階段を降りていく。  血の気が引いて、指の先まで冷たくなっているのがわかった。  自分の気持ちと行動が、衝動的に乖離してしまった。どうしよう。どうしよう。どうしよう。  僕は今、楽しくて幸せな時間を自ら手放そうとしているのだ。  何をしていると怒る自分と、マコトを好きだという気持ちを利用されたように感じる自分。  とにかく頭を冷やしたい。  僕は構内の人並みから外れ、壁際に立ち、返信を打ち込んだ。 『こちらこそ、ごめんね』『電車、折り返さなくていいよ』  一瞬躊躇ったけれど、次のメッセージも勢いで送信する。 『ここからは自由行動にしようよ』『19時半に東京駅で待ち合わせで』『じゃ、あとでね』  僕は返信を待たずに、スマホの電源を落とした。 16:02  しばらく佇んでいたけれど、このままでは通行人の邪魔になると気がつき、歩き始める。 「よし」  自分を奮い立たせ、とりあえずオレンジ色の電車に乗るため、中央線のホームへ移動する。 『電車から降りたらホームで目的地に近い出口を確認して、それから階段を登るか降りるか選択すること。改札を出てから目的地を探そうとすると迷うよ』  小さい頃、父親によくそう言われた。  さっきは舞い上がっていて、そんな基本的なことすら忘れていたのだ。  都心の大きな駅を歩く感覚も、少し戻りつつある。  ちょうどよく電車がホームに入ってきて、僕は東京駅とは逆方向に進むそれに乗った。  扉付近に立ち、窓の外を眺めると、少し心が落ち着いてくる。  自転車を止めている駅を地元と呼ぶように暮らしているけれど、僕の中では、この辺りの方が親しみがあるから。  五年ぶりに見る景色は大きく変わったところと、まるで変わらないところが混在している。  雨雲が立ち込めてきたとき、聞き慣れた駅名がアナウンスされ、僕は電車を降りた。 16:10  ここは僕が生まれ育った、杉並区の平凡な街だ。  改札を出て、真っ直ぐに駅前の本屋へ行く。  本屋の数が減っているというけれど、生き残っていてくれてよかった。  以前から欲しいと思っていた英語の参考書を購入し、今度は大手ファーストフード店に入って、炭酸飲料を注文した。  子どもの頃よく来た二階席に上がって、窓際の席でワイヤレスイヤホンをはめて、参考書を広げる。  僕の日常が戻ってくる。  参考書に書かれた文字は少しも頭に入ってこないけれど、落ち着きは取り戻せた。  窓からは、バスターミナルと、両親が好きだった和菓子屋が見えた。土産に最中を買って帰ったら母親は喜ぶだろう。  父親の仏壇にも供えたいだろうから、あとで三つ買おうか……。  いや、ダメだ。母親は僕が今日も学校とバイトへ行ったと思っているのだから。  窓の向こうには、ポツポツと大粒の雨が降り出した。  今頃、マコトは渋谷のスクランブル交差点のあたりを散歩しているだろうか。  濡れていないかよりも、駅構内で迷っていないか心配だ。渋谷駅も、常に改修工事を繰り返しているから。  でも、彼にとって今大切なのは、物理的に家に帰れない距離にいることのはず。だとしたら無事に目的は果たせている。  僕が贅沢なことを思わなければ。偶然マコトに逃避の相棒に選ばれたことをラッキーだと受け取れば。  楽しい思い出がもっと出来ていたかもしれない……。  けれど、彼のことを好きだからこそ、自分の心と折り合いをつけられなかった。  一時強く降った雨は、通り雨だったようで、徐々に小雨になる。  僕は参考書を閉じ、結局30分ほどで店を出た。 16:40  雨はビニール傘を買うほどではなくなったから、中学一年まで住んでいたマンションまで、歩いてみることにした。  途中、大きな建物を立てている工事現場があったけれど、あの頃ここに何が建っていたかは思い出せない。  中学受験の頃に通っていた塾の前も通った。意外なくらい懐かしい気持ちにはならなかった。  そういえば、一年間しか着なかったあの中高一貫校の制服は、どうしたのだろう?  引っ越しの時、今の家まで持っていったとは思えない。  あの制服より、今の学校の焦茶色のチェックのズボンのほうが好きだ。マコトの長い足に、とてもよく似合っているから。 16:50  信号待ちをしていると、目の前の空にくっきりとした虹が出ていることに気がついた。  虹なんて見るのは、いつ以来だろう。  この虹をマコトに共有したい!  強くそう思って、スマホの電源を入れ、その虹を写真に残そうと空にレンズを向ける。  そのときスマホが振動し、マコトからの着信を僕に知らせた。

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