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第4話

 朝と夜の穏やかな時間にニルスとこの国の未来について話すことが増えた。   ニルスは頭がよく、政治を理解している。学がないカイトでもわかるように色んなことを嚙み砕いて教えてくれた。  知識は増えるが、やはりカイトの気持ちは変わらなかった。  「やっぱり番になろう」  「そんな簡単に決めていいんですか?」  「いまこの瞬間だって国民は飢えてるんだ。一日でも早い方がいいだろ」  「ですが……」  それまで饒舌だったニルスは番の話になると途端に口が重たくなってしまう。やはりカイトと番になるのが嫌なのかもしれない。  話が平行線のまま数日が過ぎた初夏の日。  ベッドから起きるのも辛いダルさと共にカイトは目が覚めた。頭の芯熱が炙られているかのように熱い。  「おはようございます、カイト」  身支度を整えたニルスは柔和な笑みを浮かべている。返事する気力もなかったが、どうにか「うん」と掠れた声を発した。  「具合い悪いですか?」  「怠い……」  「失礼しますね」  額に触れられたニルスの手は冷たくて気持ちいい。額に擦りつけようとするとすぐに離れてしまった。  「……発情期がきたのかもしれません」  「またアロマキャンドル?」  「いえ、月に一度オメガは周期的に発情期を起こすと説明しましたよね。それかもしれません」  そう言われると下半身にどんどん熱が集まっていく気がする。この感覚には覚えがあった。  「そう、かも」  「……じゃあしましょうか」  カーテンを閉めて部屋を暗くしたニルスはシャツのボタンを一つだけ外した。形のいい喉仏が弾むように上下している。  以前の口淫を思い出し、期待でカイトの息があがった。  ニルスはベッドに入り、やんわりと抱きしめてくれた。嗅ぎ慣れた匂いは安心する。うっとりと瞼を閉じるとそこに唇が落とされた。  (こんなこと許せないはずなのに)  自分の身体を好き勝手されるのは嫌だ。自慰なんて自分でもできる。  でも人にされるのと比べものにならないほど気持ちいい。  ゆるゆるとニルスの手が下がっていき、性器を掴まれた。布越しではもどかしく、腰を押しつけると頭上で笑い声が降り注ぐ。  「……んだよ」  「いえ、随分素直だなと思いまして」  「自分でするよりイイんだよ」  正直に答えるとくっきりとした二重が大きく開かれた。  「それは励まないといけないですね」  寝間着の隙間に入ってきた手に性器が掴まれた。緩急をつけながら追い詰められる。  「あっあ……ああーー」  すぐに果ててしまい下着の中がぐっしょりと濡れてしまった。気持ち悪くて足で乱暴に脱ぎ捨てる。  「もっと」  「わかってますよ」  再び扱かれて首を振った。これだけでは足りない。  一度憶えた快楽はより高みを目指そうとする。  「……ニルス」  名前を呼ぶとニルスは柔らかい笑みを浮かべた。  (こっちは全然余裕ないって言うのに)  ニルスは布団の中に潜った。意図を察して足を広げると間に入ってくる。温かな粘膜に包まれた性器は歓喜の雫をこぼした。  「んぁ、あっあ……あぁ!」  じゅるりと強く吸われると残っていた精液が飲み込まれる。カリの部分を尖った舌で撫でられるだけで股関節が痙攣を起こした。  頭がおかしくなる快楽に腰が勝手に動く。もっともっとと強請るカイトを包み込むようにニルスの口淫は続いた。  二度、口の中に吐き出してもまだ熱は下がらない。お腹がずしり重くなり、身体の内側が熱に飢えていた。  「ニルス……なんか、変。腹が苦しい」  「ここですか」  尻の蕾を撫でられてひくりと喉が鳴った。いままでとは違う新たな刺激だ。  「オメガはここでも感じるんです。性器の刺激よりも気持ちいいらしいですよ」  カイトの耳殻が熱を孕む。そんなところ触ったこともないし、誰にも見せたことはない。  (嫌だ。そこまで許したら俺が俺じゃなくなる)  でもまだ冷めない熱はどうすればいい。疼く奥を鎮める方法をカイトはわからなかった。  蕾を撫でられているだけでそこが開いていく。急かすように収縮を繰り返し、快楽を求めていた。  ろうそくの火で炙った紙のように理性がじりじりと焼き切れていく。許してしまえという悪魔の囁きが大きくなっていき、カイトは屈した。  「……ここ、どうにかしろ」  尻がよく見えるように四つん這いの姿勢になるとニルスは八重歯を覗かせた。殺気にも似た獰猛な目つきに射られると血液が騒ぎだす。  「もちろんです」  ニルスは指の腹で何度も蕾を撫で、ぷつりと爪の先を埋めた。異物感はあるものの、心地よさも混じっている。  「息止めないで力を抜いてください」  「ふっ、んん……はぁ」  「上手です」  満点のテストを褒めてくれる教師のようなやさしい声音に身体の力が抜ける。ニルスは奥へと進み、ある一点を掠められると腰が跳ねた。  「ここですね」  「待て……そこはやだ」  「痛くしませんから」  再び押されるとカイトは悲鳴をあげた。身体の内側から溢れる熱がそこから性器に向かっていく。強烈な悦楽に意識が飛びそうになった。  「あっ、ああ……あぅ」  「二本目も挿入りました。上手ですね」  「くそっ、褒めるな」  「中がきゅうと締めつけてきます」  「やめっ……うっ、あぁ!」  ぽんと空に投げ出されたような浮遊感と共に果てた。射精するのとは違った快楽は落ちることなく、頂点を極めたままだ。  「なっ、んで? 終わらない」  「まだまだですね」  額に大粒の汗を浮かばせたニルスはにやりと犬歯を覗かせた。猟犬のような獰猛さに恐怖よりも征服されたい欲が顔を出す。  何度果てても熱は収まることはなく、数日間溺れ続けた。  意識を飛ばし、目覚めて少し食事をしてまた熱を求める    欲にまみれた数日を過ごした朝、カイトは布団にくるまっていた。  「……喉がいてぇ」  喉はガラガラで身体の関節は錆びついたネジのように軋んでいる。起き上がるのにも一苦労だ。  「おはようございます。体調はどうですか?」  カイトは既視感に眩暈を起こしそうになり、枕に突っ伏した。確か昨日も同じようなことを言われた気がする。  違うところといえばニルスが仕事をしておらず、窓枠に座っているところだろうか。  「喉が痛い。怠い。辛い。腹減った」  「元気そうでなによりです。食事は用意してもらっていますよ」  中央のテーブルには溢れんばかりの料理が用意されていた。サラダにコーンスープ、目玉焼き、ローストビーフにパンと豪勢さに涎が広がる。  ランジェリーをまとうこともせず、痛む身体を忘れてカイトは椅子に座った。  ガツガツと食事をしていると向かいに座ったニルスは頰杖をついたままじっとこちらを見ている。  「なんでうなじ噛まなかったんだよ」  発情期のせいで腹の中が疼くだけでなく、うなじが火傷をしたようにヒリヒリとした。早く噛んで欲しいと訴えてもニルスは頑なに拒否した。  「まだです」  「まだ、まだ、まだ。おまえはいつになったら俺と番になるわけ?」  王室に攫われた身でこんなこと言うのは矛盾している。  けれど二人の目的が同じだとわかった。目指す場所にいくには番になる必要がある。  それなのに「まだ早い」という免罪符を盾にされてしまう。  困ったように笑うニルスはカップに口をつけた。答えるつもりはないのだろう。  やはりカイトが思っていた通りにニルスに想い人がいるのだ。  では、なぜ番になることに了承したのだろう。  好きな人、という言葉を繰り返すと胸に針が刺されたような痛みを憶えた。  どうしてニルスに想い人がいるとカイトが嫌な気持ちになるのだろう。  悶々と思考を巡らせているとニルスはカップをソーサーに置いて、窓の外に視線を向けた。  「もう少ししたら、ですよ」  美しい青い瞳が翳ったように見えて、カイトは声をかけることができなかった。    「ドレスはごめんだぜ」  「……わかっています」  従者は面倒そうな手つきでクローゼットを開けた。そこには紺色の礼服がかけてありカイトは気づかれないようにほっと息をつめた。  どうやら脅しが効いたらしい。  首を覆いつくすシャツのお陰で首輪が見えず、不自然なおうとつは黄金色のリボンタイが隠してくれる。  すでに着替えたニルスは他の従者と段取りの確認をしていた。  ニルスは白い軍服のような装いに深紅のサッシュを腰に巻いている。金色の髪を後ろに撫でつけ、精悍な顔立ちが露わになっていた。  カイトの視線に気がついたのか、ニルスは会話が止めてこちらを向いた。  「とても似合ってますよ」  「そりゃどうも」  お世辞だとわかっていても頬が緩んでしまいそうになり、カイトは奥歯を噛んだ。  今夜のパーティーは王族や貴族がこぞって集まるので浮かれている場合ではない。  ニルスにエスコートしてもらい、大広間へと向かった。  城で行われるパーティーは主に上流貴族が参列している。そこここで楽しそうな談笑が聞こえるが、その内実は相手を蹴落とそうと隙を狙っているのだ。  聞こえてくる会話はマウントの取り合いばかり。相手を褒めるふりをして自分を持ち上げるのに必死な様子が見て取れた。  本音を砂糖でコーティングしたかのような緊張感に包まれた会場は気分が悪い。  「ニルス様」  従者が耳打ちをするとニルスは小さく頷いた。  「すいません。先に挨拶をしてきますね」  「いってら。俺は飯でも食ってるわ」  「すぐ戻りますから」  ニルスはそそくさと人混みの中に消えてしまった。広い会場に一人ぽつんと残されると嫌でも悪口が聞こえる。  (ニルスがいなくなったこれかよ)  無視しながら料理が並んでいるテーブルへ歩いていると一際大きな声が響いた。  「カイトにいちゃん!」  パタパタとけたたましい足音のラーニに飛びつかれた。  「こんなところで走ったら危ないだろ」  「だってカイトにいちゃん、あいにきてくれないんだもん」  「……色々忙しくて。ごめんな」  カイトもラーニに会いたかったが、また言われのないことでアンナに責められるのが面倒で自粛していた。  ラーニが庭で遊んでいる様子は部屋から隠れて見ていたが、それは言わないでおこう。  ちらりと周りを見たがアンナは入口付近で婦人たちと談笑している。次期国王の妻となる立場だから、挨拶周りは多いのだろう。  「ねぇ、おそとであそぼう。もうあきちゃった」  「外はだめだと言われてるだろ」  「でも」  じっと見上げられると心が掻き乱される。ガラスのように澄んだ瞳に見つめられると弱い。  「じゃあ部屋のすみで手遊びでもするか」  「うん!」  広間から出なければ問題ないだろうと窓近くにあるソファに座った。  手遊びは子ども時代に自然と憶えた。指の形で影絵を作ったり、じゃんけんをしているだけでもラーニは楽しそうにしてくれる。  「ここにいたんですね。用は済んだので、私たちも挨拶に行きましょう」  ニルスの言葉にラーニは小さな肩を落としてしまった。  「もうバイバイのじかん?」  「そうだな。終わったら戻ってくるから」  「やくそく?」  「約束、な」  頭をくしゃりと撫でてやるとラーニに笑顔が戻った。  会場内を歩き出すとふふっとニルスが笑みをこぼした。  「随分とラーニに懐かれていますね」  「まぁ子ども相手は慣れてるからな」  素直な子どもはかわいい。綿のようになんでも吸収して成長する姿を見ていると励まされるのだ。  「……カイトはいい母親になれそうです」  弾かれたようにニルスの横顔を見ると眉を寄せていた。言っていることと表情がちぐはぐだ。  (父親はおまえだろ?)  喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。これではカイトが望んでいるようではないか。  ニルスは利用価値があるだけ。  発情期の相手をしてくれているだけ。  そうやって理由を付ければ付けるほど奥底に眠った感情の輪郭が浮かび上がろうとしていた。  「ないわっ! 私のペンダントがないわ!!」  聞き慣れた金切り声が広間に響いてカイトはげんなりと振り返った。  アンナはきれいにアップされた髪を振り乱し、オーバーすぎるリアクションで自分の胸元を指さしている。会場にいる全員の視線が彼女に向けられた。  「落ち着いて。ペンダントがどうしたんだい?」  すぐに駆け寄ってきた夫のシバはアンナの背中を擦って落ち着かせようとしている。  「ペンダントがないの。さっきまで首から下げていたのに」  アンナは同調を求めるように周りの婦人たちに目配せをすると、みな同時に頷いた。  「どこかに落としたのかもしれない。探してみよう」  「……盗まれたのよ。あいつに」  矢を射貫くようにアンナの鋭い眼光を向けられる。   やっぱりか、とカイトは肩を竦めた。  「俺が盗むわけねぇだろ」  「証拠を見せなさい」  「俺はそこでずっとラーニと遊んでた。ラーニが証人だ」  「子どもの言うことなんてアテにならないわ!」  確かにラーニはまだ三歳だが、物事の理解はできているし話も上手だ。  ラーニはアンナのドレスの裾を引っ張った。  「ぼく、カイトにいちゃんとあそんでたよ」  「あなたは黙ってなさい!」  アンナは扇子でニーナの小さな手を叩いた。ばちんと乾いた音が会場に響く。  後から痛みが襲ってきたのだろう。ラーニは火を噴くように泣き出し、乳母に抱えられて会場を後にした。  「おまえ……自分の子に手を上げるのか」  「あの子が言うことを聞かないから悪いのよ。それより盗んでないって証拠を見せなさい」  「最低な母親だな」  カイトが凄んでもアンナはふんと鼻を鳴らすだけで悪びれる様子もない。  これ以上話し合っても無駄だろう。カイトが両手を上げると男の従者が近づき、身体をくまなく触られた。  胸ポケットやズボンのポケットなどを調べられている間、アンナの勝ち誇ったような顔が目に入る。  (まさか、これって――)  「ありました!」  尻のポケットからダイヤモンドがふんだんにあしらわれたペンダントが出てきた。王家の紋章である薔薇が彫られているペンダントはジルベール家に嫁ぐ令嬢が代々受け継いでいるものだ。  従者は天井高くペンダントを掲げ、周りに見えるようにくるりと回った。貴族たちの悲鳴があがる。  (はめられた。クソ女)  まさかこんな汚い手口をしてくるとは。完全に油断した。  「俺はやってない!」  「ではどうしてあなたのポケットからペンダントが出てきたのかしら」  「そんなのでっちあげだろ」  「証拠は?」  「……証拠はねぇよ」  従者はアンナの息がかかった者だろう。真実を話して欲しいと訴えても、素直に聞くとは思えない。  歯噛みしながらアンナを見据えると美しい顔が老婆のように歪んでいく。なんて性根が腐った女だ。  「この嘘つきアバズレが!」  「まぁ恐ろしい。こんな野蛮人が王族にいていいのかしら」  アンナに殴りかかろうとすると従者たちに羽交い締めにされた。当然だ。ここにカイトの味方はいない。  (くそっ、これじゃ国を立て直すどころじゃねぇ)  アンナはカイトを城から追い出したいのだろう。オメガというだけで自分の地位を脅かすのが許せないに違いない。  こっちだって願い下げだ。だが国を変えるため、子どもたちに温かい食事を与えるために泥水を啜ってここにいる。  悔しい。アルファが大きい顔をして歩く世の中が。ベータにばかり負担を強いる社会が。  歯を食いしばりすぎて口の中に鉄の味が広がる。  「それにスラムにいたときは盗みを数え切れないほどしていたそうじゃない。そんな犯罪者がここにいるのがおかしいわ」  「お前たちのせいだろ! 多額の税金を払わされ、食う金もないんだぞ」  「それはあなたがアルファに生まれなかったからじゃない」  侮蔑の色を孕んだ青い瞳は澱んでいた。  生まれながら上に立つ者は下にいる人間の気持ちなんてわからない。みんな、好きでベータに生まれたわけではない。選択できるならみんなアルファに生まれたかったに決まっている。  でも生まれを嘆いても仕方がないのだ。みんな平等である社会であれば、こんな格差は生まれない。  なぜそんな簡単なことがわからないんだ。  貴族たちに野次を飛ばされる。罵詈雑言の嵐のただなかに一人立ち尽くした。  カイトを招き入れた国王はその様子をただじっと眺めている。  ここにはカイトを守ってくれる人はいない。  「おかしいですね」  低く尖った声に顔をあげる。細い顎に指をかけたニルスが思案顔を浮かべていた。  「なにがおかしいのかしら、ニルス」  「私はカイトがラーニと手遊びをしているのを見ました。私の従者も目撃しています。ですよね?」  「仰る通りです、ニルス様」  ニルスは隣に控えている従者に問いかけると彼は恭しく頷いた。  「それにカイトはここで盗みをしても意味もありません。衣食住は保証され、安定した生活を送れています」  「そんなの、このペンダントが欲しかっただけだわ!」  「そうでしょうか。カイトと数日過ごしていますが、彼は宝石の類には興味はありません」  「じゃあどうしてあの人のポケットに入っていたのよ!?」  激昂したアンナはカイトを指差した。  「それは簡単です」  ニルスは内ポケットからなにかを握り締めるとペンダントを見つけた従者に握らせて耳打ちをした。段々と彼の顔色が悪くなる。  従者は重々しく口を開いた。  「アンナ様に脅されました……」  「まぁ」  「なんて」  アンナの取り巻きたちが瞬時に顔色を変えた。憎々しい表情のままアンナはこちらを見据えている。  「もう止めなさい」  国王の静謐さの中に怒りのある声が割って入った。コソコソ話していた参列者たちの声がぴたりと止む。  「身内の恥を見せてお恥ずかしい。ここは私の顔に免じて欲しい」  国王の言葉に貴族たちは曖昧に頷いた。その隙にアンナはシバに連れられて広間を出て行く。  尻尾を巻いて逃げるなんて小物だな、と内心毒づいていると国王の視線がカイトに向けられた。  「おまえも早く役目を果たせ」  かぁと頭に血がのぼる。こんな大勢の前で言うことではないだろう。  だがここで負けるのは性分ではない。カイトは表情筋を総動員させ、余裕たっぷりの笑みをつくった。  「それは旦那様にお伝えください。俺はいつでも準備ができています」  カイトは華麗に身を翻し、大広間を辞去した。  「くそったれ!」  部屋に戻り、一人きりになると礼服を脱ぎ捨て肌着一枚でベッドに飛び込んだ。  「くそっ! くそっ!」  何度も枕を叩くと羽毛がふわりと舞い上がる。月光に照らされて星屑のようにきれいなのに心は全然落ち着かない。  (アルファは腐ってる)  怒りで視界が真っ赤に染まった。どいつもこいつも腹立たしい。一人残らず脳内でパンチを食らわせてもすっきりしない。  「枕に罪はないですよ」  大きな手にやんわりと遮られ、持ち主であるニルスを睨みつけた。  「おまえんち、みんな頭どうかしてる」  「それはすいません」  申し訳なさそうに眉根を寄せているが心から思っていないのがわかる。表面上の謝罪は余計に神経を逆撫でされた。  「まるで威嚇している猫みたいですね」  「莫迦にしてんのか」  「いいえ。かわいいと思いまして」  「は?」  言っている意味がわからない。カイトが怒り狂っているのが見えないのだろうか。  「そうやってまっすぐ感情を表す人が身近にいなくて」  言葉を探すようにニルスは数秒黙った。  「幼少期から常に感情を殺すよう教育されてきました。それは周りも同じでした」  ニルスは常に穏やかな笑顔を称え、隙がなかった。でも違ったのだ。  感情を押し殺し続けたせいで自分の気持ちにも他者の気持ちにもニルスは鈍感なのだろう。  「だから感情をぶつけてくれるカイトにどう対処すれば正解なのかわかりません」  項垂れるニルスの旋毛を見て、これが本音なのかと驚いた。  幾重にも重ねられていた仮面がいま剥がれようとしている。  カイトが殴り続けてきたノックにいまニルスは手をかけていた。  「おまえはさっきのどう思ったの?」  「カイトが盗みをするわけないと思いました。でもどうやって言葉にすればいいのかわからず、卑怯な手を使いました」  ペンダントを見つけた従者を脅したことだろう。確かに褒められる行動ではない。  川を流れるせせらぎより遅いスピードでも、しっかりとニルスはカイトのことを知ってくれている。信用してくれている。それが嬉しい。  「もう誤解は解けたからいいよ」  「ですが、またアンナは仕掛けてくるかもしれません」  「そしたらまた守ってくれるんだろ?」  口角を上げるとニルスは目を細めた。  「はい、もちろんです」

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