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第二十八話 告白

 氷鷹(ビンイン)が立ち去った後、天雨(ティェンユー)はずっと考えていた。これからどうするべきか。どうしたいのか、を。考えて考えて、そして決めた。  三日月が煌々と夜の闇を照らしていた。細く白い光は星々を引き立て、澄み渡った夜空に光を齎す。天雨(ティェンユー)翠雪(ツェイシュエ)を捜していた。部屋にはおらず、書庫にもいなかった。夜も深まる頃。  時折、明け方近くに帰って来る事もあった。なにをしていたのか、問うのが怖かった。どこへ行っていたのか、知らないふりをした。本当は、わかっていたのに。  けれども。そんなものは関係なくて。 (俺は····もういちど、あの日の誓いを)  天雨(ティェンユー)は別棟の外でひとり佇んでいた。それからどれくらい経っただろう。遠くから足音が聞こえ、顔を上げる。  その足取りはふらふらとしておりどこか気怠そうで、こちらに気付いていないようだった。  心配になって、まだ遠い場所にいる翠雪(ツェイシュエ)の方へと自ら足早に向かって行った。天雨(ティェンユー)が近くに行くまでまったく気付く様子はなく、目の前まで来てようやく目が覚めたかのように見上げて来た。 「····大丈夫か?」 「こんな時間に、なにしてるんですか?」  それはこっちの台詞だ、と普段なら言っていただろうが、その声はどこか震えていて、ますます放っておけなかった。前に立ち塞がった天雨(ティェンユー)の横を通り過ぎようとするが、そこで翠雪(ツェイシュエ)の身体が傾ぐ。反射的に腕を出して抱き止めるが、触れた途端、びくりとその肩が大きく揺れた。 「····は、なして······くださ、い」 「嫌だ」  そのまま薄い肩と細い腰に腕を回し、守るように強く抱きすくめる。衣の上からでも冷たい身体は、自分の体温と違いすぎて不安になった。  月明かりしかない薄闇の中、お互いの心臓の音だけが大きく響く。  最初は身体を離そうと拒んでいた指先から、だんだん力が抜けていくのを感じた。その後は諦めたのか、身を委ねるようにほとんど動かなくなった。  離したくない。  天雨(ティェンユー)は先程よりは力を緩め、柔らかい茶色の髪の毛ごと翠雪(ツェイシュエ)を抱きしめる。伝えたいことがあった。訊きたいことがあった。顔を見たら、全部、真っ白になった。これは自分だけの想いで、翠雪(ツェイシュエ)の想いは、おそらく違う方を向いているのだ。  どこに行っていたのか。  なにを、していたのか。  聞きたくなかった。 「ある夢を、よく見る。幼い頃の夢。紅い蝶に囲まれながら、俺があるひとに誓いを立てる夢。あなたと関わってから、その夢は動き出して····曖昧だった記憶が少しずつ埋まっていった」  夢の中の少女。  ずっと、自分の心の中にいたひと。  夢の続きを見るために、曖昧な記憶を取り戻すために、利用しようと思った。 「俺はずっと、そのひとの顔が見えなくて····わからなくなってて、」  どうしてそんな大切なことを忘れてしまったのか、わからなくて。あの日、十年前のあの日からずっと、失くしたままだった。  氷鷹(ビンイン)のあの言葉の意図もわからない。嘘かもしれないし、自分たちを揶揄っていただけかもしれない。現に、彼のことを自分も翠雪(ツェイシュエ)でさえも憶えていなかった。  ずっと。あの時も一緒だったのに。  最期は一緒、そう誓ったのに。 「あの時、暗い部屋の中で守れなかった」  あの時はまだ子どもで。  なんの力もなくて、弱くて。 「紅蝶があなたの傍にいないのは、俺があの誓いを破ったから?」 「それは······、」  翠雪(ツェイシュエ)が肩越しになにか呟きかけて、止めた。今、どんな顔をしているのだろう。急に変なことを言い出したと思っているかもしれない。  変わったのは、違和感を感じたのは、二年前のあの時から。今思えば、あの時、翠雪(ツェイシュエ)はなにか思い出していたのではないか? あんな風に笑ったのは、昔の記憶の名残だったのかもしれない。  夢の中の少女が笑う時、困ったように笑うその癖も、まったく同じだった。たまに見せる、油断した時の可愛らしい笑みも、ぜんぶ。 「俺は、あなたが誰を見ていようと関係ない」  到底、自分が勝てる相手ではない。力も資格もない。それでも、もういちど。 「今度こそ絶対に守り抜く。すべてを敵に回しても、あなたを、必ず守る。これは俺自身への誓いだ。あなたは頷かなくてもいいから、」 「····私にはあなたに守ってもらう資格もないし、そんな誓い必要ありません。すべて遅すぎたんです。この身も心も、もう····、」  だんだん小さくなっていくその声に、天雨(ティェンユー)は首を振る。 「あなたが嫌だと言っても、俺は勝手にあなたを守る。言っただろ? これは俺自身への誓い。あなたがなんと言おうと、関係ない」 「····天雨(ティェンユー)、話がしたいです。記憶を、真実を、取り戻すために。私に起こったこと、あなたに起こったこと、ぜんぶ、最初から」  その言葉で、ようやく天雨(ティェンユー)翠雪(ツェイシュエ)に回していた両腕を緩め、お互いに見つめ合えるようになる。そこには戸惑いながらも真っすぐに見上げてくる翡翠の瞳があり、天雨(ティェンユー)はゆっくりと頷く。  月だけが静かにふたりを見守っていた。  その想いも、願いも、ぜんぶ。  一度溢れてしまえば、元には戻せない。  そんなことは、わかっていたのに。 ******  翠雪(ツェイシュエ)を寝台に座らせ、天雨(ティェンユー)は向かい合うように椅子に座った。お互いに記憶を、夢を、繋ぎ合わせるように重ねていく。あの時、あの場所で、聞いたこと、見たこと。ふたつがひとつになれば、見えてくるものがあった。 「あの香炉を持って来た奴が、二年前に翠雪(ツェイシュエ)を攫った奴で、魔界の第三皇子? あの事件を視ていた紅蝶は、そいつに捕らえられていたのか?」  そして、翠雪(ツェイシュエ)の目の前で潰されてしまったこと。その時に触れた欠片が断片的に記憶を呼び覚まし、今までどの記憶にも存在しなかった天雨(ティェンユー)の存在を、翠雪(ツェイシュエ)に認識させたことも。 「けれども、肝心なところは曖昧で····緑葉(リュイェ)も協力者の名までは口にしませんでした。まあ、私も訊かなかったんですけど、」 「訊いたところで言わないだろう。だとしても、やっぱり風獅(フォンシー)様が関わっている気がしてならない。氷鷹(ビンイン)の存在も、怪しい。今になって戻って来たこと、わざわざあんなことを言って俺たちを試したことも」  あの事件のすぐ後にあの場所にやって来たこと。自分たちを保護したのはなぜなのか? 引き離したのは、記憶を戻させないため? 考えれば考えるほど、風獅(フォンシー)の行動の意図がわからなくなる。 「私の中からあなたはいなくなって、あなたの中から私がいなくなった。それは、犯人が望んだことなのかもしれません。もし、本当に、風獅(フォンシー)様が関わっているのだとしたら····わ、たし、は」  氷鷹(ビンイン)が言っていた、彼らとの記憶の中になにか手がかりがあるのかもしれないが、本当に少しも思い出せない。それは天雨(ティェンユー)も同じで、あの頃の記憶は翠雪(ツェイシュエ)とのことばかりで、それ以外がすっかり抜け落ちてしまっていた。  ふたりにとっては、大したことのない日常の一部。その程度の記憶なのかもしれない。  幼い頃の記憶など、余程の強い印象がない限り、事細かに憶えている者の方が少ないだろう。楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、強い感情の動きが記憶となって記録される。  もうひとつ考えられることがあるとすれば、憶えていたくない記憶。消してしまいたいほどの、怖い記憶だろう。 「······天雨(ティェンユー)、」  ぼつりと零れ落ちるように紡がれた声に、今にも消えそうなほどに儚く微笑む姿に、天雨(ティェンユー)は目を瞠った。するり、と突然、自ら上衣に手をかけ、肩を滑らせるように肌を露わにした翠雪(ツェイシュエ)に、そこに現われた生白い肌に浮かぶいくつもの情事の痕に、言葉を失う。  部屋は蝋燭の灯りひとつだけで、自分たちの周りだけ暖色にほんのりと染まっている。紅や紫の痕が生々しく浮かび上がり、目を伏せている翠雪(ツェイシュエ)の気持ちを想うと、腹の辺りから湧き上がってくるざわつきを抑えるしかない。 「十五歳の時····私は、あのひとを、好きになりました。十七歳の時、あのひとから想いを告げられました。あなたが私のところに来た時には、そういう関係になっていて、この身も、心も、あのひとのモノであることを、嬉しく思っていました」  ぎゅっと衣ごと両手で自分を抱きしめるように握り締め、困ったように笑みを浮かべる。それはまるで自分自身を嘲笑っているようだった。 「もしも、この気持ちさえ、作られたもので····間違いだったのだとしたら、私は······もう、なにを信じればいいのか、わからなくて、」  ずっと、ひとりで抱え込んできた気持ち。  二年前のあの日から、迷子になっている。 「でも、どうしてもあのひとの口から本当のことを聞きたくて····今夜も、あのひとと、」  翠雪(ツェイシュエ)の告白を、天雨(ティェンユー)は黙って聞いていた。その肌を、情事の痕を隠してあげることもせずに、ただ、黙って聞いていた。 「あんなに知りたかった真実を知るのが、今更こわい、なんて····本当に、どうかしてますよね、」  しかしその瞳からひと筋の涙が零れた時、天雨(ティェンユー)の中でなにかがふつりと切れた音がした。

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