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第二十九話 ふたりなら、きっと
どうして、あんなことをしたのか。
同情でもしてもらいたかった?
天雨 の気持ちを知っていて、嫉妬してもらいたかった?
この身に沁み込んだあのひとの匂いを、彼が消してくれるのではないかと、心のどこかで期待していたのかもしれない。
けれども、彼は気付いてしまったのだろう。
裏切られたと、信じられないと思いながらも、離れられない理由。理由を付けてでも逢いに行く矛盾。真実を語って欲しいと思いながら、その口から語られることを恐れていること。
この想いは、作られたモノなどではなく。
偽りでもなく。
間違いなく、ホンモノなのだと。
今更、思い知った。
******
翠雪 を寝台に押し倒し、唇が触れるか触れないかというところで我に返った天雨 は、顔を真っ赤にしてその秀麗な顔にわかりやすく戸惑いの色を浮かべる。
強く掴んだ左肩から指を放し、顔の右横に置いていた手を戻す。見下ろすような体勢で翠雪 に覆い被さっていた身体を離すと、頬に残った涙の痕だけそっと拭った。
(違う。そうじゃないだろう? 俺は····ただ、涙を拭《ぬぐ》いたかっただけだ。翠雪 の気持ちは知ってる。俺がしてやれることは話を聞くことであって、こんなことをして慰めることじゃない)
天雨 は無言で翠雪 の開 けたままの衣を直し、目を背けたくような"あの痕"を隠していく。
肌に触れないように白い道袍を整え、若草色の衣を正した後、ひと呼吸おいてそのすぐ横に座り、天井を見つめている翠雪 の眼を隠すように左の手の平で覆った。
「あなたの心を縛っている想い は、たぶん、間違いなんかじゃない。作られたモノでもない」
昔から、強がりなくせに泣き虫だった。
夢の中のあの子も、そうだった。
自分たちはあの時から別々の時間を過ごして大人になったけれど、根本的なものは何も変わっていないと信じてる。
「もう、ひとりで抱え込まなくていい。これからは、俺がいる。なにができるかはまだわからないけど、それでも、いないよりはマシだろう?」
「······はい、」
覆われた手の平で暗くなった視界は、なんだか落ち着いた。なにより、その言葉が、不器用な優しさが、嬉しかった。あのまま唇を重ねていたら、きっと、こんな風には思わなかったかもしれない。
ほかのひとを想ったまま身体を預け、天雨 の気持ちを無下にするところだった。
「訊きたいことがあるんだが····、」
「····なんですか?」
深刻そうな面持ちで、天雨 は意味深に訊ねてくる。翠雪 は眼の上の置かれた手に触れて、首を傾げる。視界を取り戻し、横に座っている天雨 を見上げたまま、目を合わせようとしない様子から、なにか言いにくいことなのだろうと察する。
「その、さっき言った夢の話、なんだが······俺がいつも見ていた夢の中のあなたは、俺の認識では"少女"だったんだけど····なんでかわかるか?」
その質問に対して、翠雪 は翡翠の瞳に不満げな色を浮かべ、寝台に身体を預けたまま頬を膨らませた。どんな深刻な話だろうと構えていただけに、その質問は翠雪 にしてみれば馬鹿馬鹿しいにもほどがあった。
「幼い頃の記憶と夢が連動しているなら、どうして俺はあなたを少女と信じて疑わなかったんだ?」
天雨 とその両親が、縁あって翠雪 たちの住むあの山の頂で居候することになったのは、十年前のあの事件が起こるさらに三年前。天雨 が五歳、翠雪 が七歳の時だった。
両親は自分に女の子の衣を着せており、あの頃の翠雪 は自分がいつも着ている衣が、女の子が着る衣だとも知らずにいた。
恥ずかしいことに、子どもはみんなこういう格好というズレた意識と、特に着るものに関して気にしない性格だったため、疑問にも思わなかったのだ。
また天雨 もその両親もそのことにはまったく触れず、翠雪 の両親も三人には"自分たちの子"という以外特に説明もしていなかったので、当たり前の風景になっていたのだろう。
あの頃の翠雪 はあの場所から一度も出たことはなく、風獅 に保護されてから初めて、その常識を知ったのだった。
つまり出会いから三年間、ずっと天雨 は翠雪 を女の子だと思っていたことになる。もしかして、最後のあの時まで、その認識のままだったのだろうか? 翠雪 はそう思うと頭が痛くなった。
「そんなこと、私が知るわけがないでしょう」
「なにを怒っているんだ?」
「怒ってなどいません」
いや、明らかにその言い方は怒っている。天雨 はその内思い出すかもしれないと思い、それ以上問うのを止めた。夢の話を否定しないのは、やはりあの少女が翠雪 であるという、肯定といっていい。
「思い出した時に、どうして俺に話してくれなかったんだ?」
「あなただって、訊かなかったでしょう? その理由ときっと同じです」
もし違っていたら?
夢がただの妄想だったら?
せっかく見えた光が、また暗闇に変わってしまうかもしれない。そうなるくらいなら、夢のままであった方がマシだと。
「でも、話せて良かったです。まだまだわからないことばかりですが、あなたのおかげで、少しだけ前に進めた気がします」
「これからどうする?」
天雨 はやっと翠雪 の方へ視線を向けて、訊ねてくる。気付けばいつも通りのふたりの距離に戻っていた。自然に言葉を重ね、視線を重ねられる。背けることなく、すべてを受け入れられる。
ゆっくりと寝台から身体を起こし、肩にかかった長い茶色い髪の毛のひと房を、細い指で耳にかけた。天雨 はその横顔をじっと見つめ、なにか考えているだろう翠雪 の答えを待つ。
「やはり待っているのは、性に合いません。直接、あのひとと話します。一緒に、来てくれますか?」
ひとりで、ではなく、一緒に。
その優しさも、ぜんぶ。嬉しかった。
一緒ならきっと、大丈夫と思える。こわくないと、恐れるものなどないと。わかる。
あの事件の真相は、ふたりにとって両親の死の真相を知るために必要なこと。誰が、なんのためにあんなことをしたのか。しかしそれを本人に問うということは、なにかを知っているかもしれない、関わっているかもしれない自分たちの恩人を、面と向かって疑うことになる。
「わかった。俺も、本当のことを知りたい。あのひとがなにを隠しているのか、どうして俺たちを保護したのか、本当の理由を、知りたい」
もしかしたら、彼こそが首謀者で、すべては彼の望みだったのかもしれない。そんな絶望的な結果が待っていたとしても、ふたりなら、きっと乗り越えられる。
「ありがとうございます、」
蝋燭に仄かに照らされた翠雪 の横顔にはもう涙はなく、小さな笑みが浮かんでいた。それは少し前に見せた儚い笑みでも、強がりでもなく、悲し気な笑みでもなかった。きっと、もう大丈夫だ。天雨 も自然と口元に笑みが零れる。
失くしたもの。離れていた時間。
まだまだ曖昧な記憶も。
傍にいたら、ふたりの中で消えてしまった空白を、すべて埋められる気がした。
肩に凭れるように身を寄せてきた翠雪 に応えるように、その手の上に自分の左手を重ねた。自分よりひと回りは小さな手。幼い頃は、いつも手を繋いで歩いていた気がする。あの時は同じくらいだったのに、今は自分の方が背も高く手も大きい。
守りたいと思うのは、記憶の名残だろうか。
大事にしたいのは、その弱さを知っているから?
こうやってふたり、寄りかかって支え合っていること。怖いのは、次に目を開けた時に消えてしまうこと。傍にいないこと。存在自体が失われること。もう二度と離したくない。離さない。なにがあっても、守り抜くと決めた。
そのためには、風獅 が隠しているだろうあの日のことを語らせる。それが翠雪 にとって辛い現実になるとしても。自分にとって、今まで信じて積み上げてきたものが、すべて崩れてしまおうとも。
もう、なにも怖くない。
ふたりなら、きっと――――。
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