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第3話 見えない傷、隠した傷
あれから何年経ったんだろう。十年……くらいか。
甘くて痛い高校時代の思い出は、今の俺にはもう、遠い景色だ。
――いや、正確には、“遠ざけている”だけかもしれないけど。
冷蔵庫のドアを閉めて、俺はテーブルの封筒をもう一度見つめた。
「……あいつ、来るのかな」
胸の奥に、微かなざわめきが残る。昔の記憶の残響が、静かに波紋を広げていく。
「まあ、いいや。知らねえよ」
そう呟いて、俺は卵を溶いて、フライパンに流し込む。ジュウという音が狭いキッチンに響く。
「……最悪」
窓の外は、もう真っ暗だった。
*
翌日、俺はスマホの画面を見つめていた。
通帳アプリ。残高:¥23,847
「……マジか」
給料日まであと二週間。
家賃の引き落としが来たら、完全にマイナスになる。
カードローンの返済通知が、次々と届く。
延滞料金の文字が、目に刺さる。
「はは……終わってんな」
乾いた笑いが漏れた。
――消えたい。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
でも死ぬ勇気なんてない。痛いのも怖い。
ただこの苦しさを、どこかに逃がしたかった。
働いても働いても、金は減っていく。
寝ても疲れが取れない。朝起きるたびに、「今日も生きなきゃいけないのか」と思う。
ポケットの中の、ハンカチに包んだもの。
それは、カッターの刃だった。
“持っている”ことが、なぜか安心だった。
「いつでも逃げられる」という選択肢があることが。
手に取る。刃を出す。
シャツの袖をまくり、左手首を見つめる。
脈打つ青い血管が、薄い皮膚の下に透けて見える。
刃を当てる。冷たい感触。
ゆっくりと、引く。
「……っ」
皮膚が裂けて、赤い線が浮かび上がる。
じわりと血が滲んで、ぽたりと落ちた。
……痛い。
でも、不思議と胸の苦しさが少し和らいだ気がした。
もう一本。もう一本。
気づけば、手首に三本の赤い線が刻まれていた。
血が滲む。痛みが走る。
でも、何も変わらない。苦しさは消えない。
「……意味ねぇな」
ティッシュで血を拭って絆創膏を貼る。袖を下ろせば見えない。
鏡に映った自分の顔はやつれていた。
目の下にクマ。頬はこけて、唇は血の気がない。
「なんで、こんなことになったんだろう」
呟いた言葉に、答えはなかった。
何食わぬ顔で出勤したら、廊下で上司とすれ違った。
「おい、五十嵐。昨日の資料まだか?」
「すみません、今すぐやります」
「ったく、使えねぇな」
背中に投げつけられた言葉に、俺は何も言い返せなかった。
ただ、黙って席に座る。
パソコンの画面を見つめながら、左手首がじんじんと痛んだ。
袖の下の傷は、誰にも見えない。
この苦しさも、誰にも見えない。
……それでいい。
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