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第8話 奇妙な夜の始まり

――今日中。息をのむ。 どうして、そんなに急いで。 手の中のカップが、微かに震えていた。 男の目が、期待でキラキラと輝いている。 断ればきっと、がっかりさせてしまうだろう。 「……はい」 思ったよりも簡単に、口から返事が出た。 頭では“話だけ聞くつもり”だったのに、気づけば流れに逆らえなくなっていた。 心の中では怖さと後悔が入り混じる。 「よかった、ありがとう」 男は満面の笑みを浮かべた。 「お相手は、できれば明日の夜にでも会いたいと。圭さんのご都合はどう?」 「……明日、ですか?」 あまりにも急だ。心の準備なんて、できているわけがない。 「うん。それだけ圭さんを気に入ったみたいだよ。どうしてもすぐに会いたいと仰ってて」 “気に入られた”という言葉が、なぜか喉に引っかかる。 動画を見て――“気に入った”。 そう思うと、顔の奥がじんわり熱くなった。 「場所と時間は先方からの希望を確認して、改めて連絡するね」 男はスマホを操作しながら淡々と続けた。 「おそらく、高級ホテルのラウンジか個室になるかな。そういう方々は、プライベートな空間を好まれるからね」 高級ホテル。 自分にはまったく縁のない場所だ。 “場違い”という言葉が真っ先に浮かぶ。 「あ、それと服装なんだけど、普段通りのスーツで。むしろその方が自然でいいと思うよ」 「……わかりました」 スーツのままでいいのは助かる。 けど、会社帰りに“そんな場所”へ行くのかと思うと、胃のあたりが重くなる。 「圭さん、緊張してるね」 「……こういうの、初めてなので」 「大丈夫だよ。相手の方はきっと紳士的だし。それに、合わないと思ったら途中で帰っても構わないから」 ――そんな簡単に帰れるなら、誰も苦労しない。 そう思いながらも、曖昧に笑ってごまかした。 「それから……本日話を聞いてもらったお礼として、こちらを」 男が差し出した封筒を受け取る。 開けると、万札が数枚。 「ありがとうございます……」 声が少し震えた。 たったこれだけの時間で、これだけの金。 普通の仕事の感覚が、もう遠くに思えた。 「じゃあ、またすぐに連絡するね。おそらく一時間以内には詳細を伝えられるかと」 事務所を出ると、秋の夜風が肌に冷たく刺さった。 息を吐いても、頭の中はまだ整理がつかない。 俺は――見知らぬ男に会う。 自分の動画を見て、“会いたい”と言ってきた人間に。 どんな顔をして、何を話せばいい? 怖い人じゃなければいい。 そう願いながらも、もう後戻りはできなかった。 スマホが震えた。 運営者からの通知。 『場所と時間が決まりました。〇〇ホテル最上階スイートルーム。明日、午後8時にフロントでお名前をお伝えください』 画面を見つめたまま、思わず息をのむ。 ――最上階のスイートルーム。 どれだけ金を持っているんだ、その人。 金の匂いと、得体の知れない不安が胸の奥でせめぎ合う。 ポケットの中の封筒が、やけに重く感じた。 俺の人生で、いちばん奇妙な夜が――もうすぐ始まる。

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