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第26話 君の隣で、息をしている

翌日、俺は会社に辞表を提出した。 「五十嵐、本気か?」 上司が、信じられないという顔で俺を見た。 「はい。色々と、考えた結果です」 「……そうか。まあ、お前なら他でもやっていけるだろう」 意外にも、あっさりと受理された。 引き継ぎに一ヶ月かかるが、それが終われば――自由だ。 会社を出ると、いつものように輝が迎えに来ていた。 「お疲れ様」 「……うん」 車に乗り込むと、輝が俺の手を握った。 「辞表、出した?」 「……ああ。来月で、辞められる」 「そっか」 輝が、嬉しそうに笑う。 「じゃあ、来月からは毎日一緒だね」 「……うん」 少し不安もあった。 でも、輝の笑顔を見ると、その不安も消えていく。 「今日は、お祝いしよう」 「お祝い?」 「うん。圭の新しい人生の始まりだから」 輝がハンドルを握り、夜の街を静かに走り抜けていく。 ビルの灯りがフロントガラスに流れ込み、車内は柔らかな光に包まれていた。 「着いたよ」 そう言って案内されたのは、街外れにひっそりと佇む高級レストランだった。 外観からして特別感が漂っている。 重厚な扉の前には小さなプレートに、控えめに“予約制・一日限定数組”の文字。 思わず息を呑む。 「……ここ、入っていいの?」 「もちろん。ちゃんと予約してある」 「……ありがとう」 案内されて席につくと、すぐにウェイターがやってきた。 「本日のおすすめは――」 丁寧な説明が続くが、頭にはほとんど入ってこない。 静かな空間。 柔らかな照明。 目の前で微笑む輝。 それなのに、俺はまだ実感が湧かなかった。 ――本当に、会社を辞めていいのか。 ――本当に、輝にすべてを委ねていいのか。 「圭、どうした?」 「……なんでもない」 「嘘。顔に出てるよ」 輝が、そっと手を伸ばしてくる。 温かい掌が、迷いごと包み込むように重なった。 「不安なんだろ?」 「……うん」 「大丈夫。俺が、ちゃんと守るから」 その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。 「……ありがとう」 「お礼なんていらない。当たり前のことだから」 輝が優しく笑う。その笑みが、どうしようもなくまぶしい。 「圭は、俺のものだから」 一瞬、呼吸が止まった。 「……所有物みたいな言い方」 「違う。愛してるんだよ」 輝の目は真っ直ぐだった。 まるで迷いのない光がそこにあるようで、視線を外せない。 「お前が幸せなら、俺も幸せ」 「……っ」 込み上げてくるものを必死に飲み込む。 「泣くなよ」 「泣いてない……」 「嘘つき」 輝が笑いながら、指先で頬をなぞった。 「可愛い」 「……やめろ」 照れくさくて顔を背けても、輝の手は離れなかった。 * 一ヶ月後。 俺は、正式に会社を辞めた。 最後の日、同僚たちが小さな送別会を開いてくれた。 「五十嵐、幸せになれよ」 「……ありがとう」 笑って答えたけれど、胸の奥が少しだけ締めつけられる。 もうこのオフィスに来ることはない。 それでも、どこかでホッとしている自分がいた。 ビルを出た瞬間、夜風が頬を撫でた。 空気が澄んでいて、まるで新しい世界に足を踏み入れるような気がした。 「お疲れ様」 迎えの車のドアが開き、輝の声が聞こえる。 「……ただいま」 「おかえり」 輝が、迷いなく俺を抱きしめた。 「これで、本当に自由だね」 「……うん」 「これから、どうしたい?」 「……わからない」 素直にそう答えると、輝は微笑んだ。 「じゃあ、ゆっくり考えよう。急がなくていいから」 優しく頭を撫でられ、胸の奥の不安が少しずつほどけていく。 「今は、休んで」 「……うん」 車が静かに走り出す。 窓の外の街灯が、流れるように過ぎていった。 「今日から、本当に二人の生活だね」 「……ああ」 その言葉が、少しだけ甘く響く。 ――数週間後。 気づけば、俺は完全に輝の生活の中に溶け込んでいた。 朝は、輝の隣で目を覚まし、 昼は、ゆっくりと過ぎる時間を二人で共有する。 夜は、一緒に食事をして、風呂に入り、同じベッドで眠る。 まるで夢のような日々だった。 満たされている――そう感じる瞬間も、確かにあった。 けれど、ふとした時に思う。 この幸福のすべてが、輝に支えられていること。 ――もし、それを失ったら、俺はどうなるんだろう。 そんな考えが、胸の奥で静かに、ゆっくりと芽を出していた。

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