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第28話 愛で終わらせる、パワハラの記憶
ある日の午後、輝の会社に一本の電話が入った。
「圭、ちょっと会議室に来て」
いつもと変わらない穏やかな声だったが、どこかに張り詰めた空気を感じた。
会議室の扉を開けると、そこに見覚えのある顔があった。
「……五十嵐?」
その瞬間、呼吸が止まる。
――前の会社の上司、清端。
毎日怒鳴られ、ミスを擦りつけられた、あの男だった。
「……ご無沙汰です」
「五十嵐、お前……なんでここに……?」
視線が絡む。あの頃の記憶が、嫌でも蘇る。
輝は静かに立ち上がった。
「清端さんですね。お越しいただきありがとうございます」
柔らかな笑み。だが、その奥の瞳は氷のように冷たい。
「今日は、業務提携の件でご相談を、と伺いました」
「は、はい。御社と協業できればと……」
清端はぎこちなく笑いながら資料を広げた。
その手がかすかに震えているのを、俺は見逃さなかった。
輝が静かに言った。
「ご紹介します。うちの財務を見ている、五十嵐圭です」
「……は?」
清端が、目を見開いた。
「彼は仕事でも――私生活でも、大事なパートナーです」
その一言に、空気が一瞬、凍る。
清端の口元が醜く歪んだ。
「……そういう関係、なんですね」
軽蔑を含んだ声音。
だが輝は、まるで風でも受け流すように、淡々と資料に目を落とした。
「さて、本題に入りましょう。提携の前に、御社の財務状況を拝見します」
清端の顔が引きつる。
輝がノートパソコンを開き、静かに指を滑らせる。
「……おかしいですね。この収益計上、実際の期とズレている」
「え?」
「さらに――ここ。費用の記録が消えています。意図的に、でしょうね」
輝の声が低くなる。
清端の額に、じわりと汗が浮かぶ。
「圭、どう見る?」
「……粉飾です。数字の辻褄が、完全に合ってません」
「やっぱり」
輝が小さく頷く。
その一瞬の冷静な微笑みに、清端の顔色が真っ青に変わった。
「待ってください、それは誤解で――」
「誤解ではありません」
輝の声が、低く鋭く響いた。
「あなたの会社、内部告発が上がっています。
収益の改ざん、長時間労働の強要。こちらでも確認済みです」
「そ、そんな――」
清端が言葉を失う。
輝は静かに歩み寄り、冷ややかに見下ろした。
「そして――僕のパートナーを、散々苦しめたそうですね」
清端の瞳が揺れる。
輝の声が、さらに低くなる。
「そんな人間のいる会社に、提携する理由はありません」
沈黙。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。
「お引き取りください」
凍るような声。
清端が震えながら立ち上がる。
「ま、待ってください! 安堂社長、私は――」
「お引き取りください」
もう一度、はっきりと。
その瞬間、清端の肩が震えた。
何も言い返せず、資料を抱え、逃げるように部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、静寂が戻った。
「……圭」
輝が俺のもとへ歩み寄り、そっと肩に手を置く。
「大丈夫?」
「ああ……スッキリした」
小さく笑ってそう言うと、輝もふっと表情を緩めた。
「圭の前の会社、もう長くないね。粉飾が明るみに出れば、倒産もあり得る」
「……そっか。俺、あいつのせいでどれだけ苦しんだか」
「お前はもう、誰にも傷つけさせないから」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
輝がゆっくりと俺を抱き寄せる。
「でも、あの地獄があったから、今こうしてお前といる」
「……え?」
「あの会社にいなかったら、俺、動画の仕事なんてしてなかった。そしたら、お前にもう一度、見つけてもらえなかった」
輝の指が、そっと俺の髪を撫でた。
「……そうだね。あの日、俺が画面越しに圭を見つけたのは――運命だよ」
静かなオフィスに、心音だけが響く。
輝の胸に顔を埋めると、あの頃の痛みが、少しずつ遠のいていった。
「圭は、もう俺のものだから。これからは俺が幸せにする」
その囁きは、優しくも確かな約束のようだった。
――過去も理不尽も、すべて輝の腕の中で帳消しになった気がした。
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