29 / 33

第29話 罰よりも優しく、愛で返す

そして、数ヶ月後のある昼下がり。 駅前を通りかかったとき――聞き覚えのある声がした。 「……あれ、五十嵐じゃないか?」 反射的に振り返る。 「……清端さん」 そこに立っていたのは、あの元上司――清端だった。 隣には、前の会社で同じ部署にいた女がいた。 ふたりの距離は近く、まるで年の離れた夫婦のよう。 「お久しぶりです」 そう言うと、清端は薄く笑った。 ヨレヨレのスーツ、無精ひげ。あの威圧的な上司の面影はもうなかった。 女もまた、疲れ切った顔で、落ち着きなくバッグの紐をいじっている。 ――噂は本当だったのか。 清端が妻子を捨てて、部下であるこの女と不倫し、多額の慰謝料を請求されているという話は。 「お前、いい服着てるな」 清端が俺のコートを見て、皮肉っぽく笑う。 輝がくれたものだ。温かく、そして、俺には少し贅沢な一着。 「ええ。おかげさまで」 そう答えると、清端は視線を泳がせた。 「……実はさ、色々困っててな。会社が潰れて、再就職もうまくいかねぇんだ」 「私もなのよ」 隣の女が食い気味に言葉を重ねる。 「家も手放すことになって……。あなた、安堂さんの会社にいるんでしょ? お願い、推薦してもらえない?」 「少しでいい、金も貸してくれないか。頼むよ、な?」 二人の声が重なる。 どこかで同情の声が浮かびかけて――けれど、すぐに消えた。 「……まだ一緒にいるんですね」 沈黙。清端の眉がぴくりと動いた。 「そんな言い方するなよ。俺たちだって色々あったんだ」 「“色々”の中に、俺を巻き込んだんですよ。毎日の怒鳴り声も、理不尽なミスの押しつけも、全部……」 思わず、声が少し震えた。 けれど今の俺は、もう俯かない。 「その結果が、今のあなたたちです。……自業自得ですよ」 二人が固まる。 女の唇が震え、清端の顔がみるみる青ざめていく。 「ま、待ってくれ、俺は――」 「もう結構です」 静かにそう告げて、背を向けた。 背後で、何かを叫ぶ声がしたが、もう振り返らなかった。 ――過去は、もう終わったのだ。 * ビルの前で、輝が車に寄りかかって待っていた。 俺を見るなり、眉をひそめる。 「……何かあった?」 「前の上司と、同僚に会った」 「ふたりで?」 「うん。不倫の噂、たぶん本当だった」 輝が短く息を吐き、苦笑した。 「へえ。会社潰れても、まだ一緒にいるんだ。因果なものだね」 「金を貸してくれって。……輝の会社に推薦してほしいって」 「で、どうしたの?」 「断った」 輝の目が、静かに細められた。 「そっか。ちゃんと突き放せたんだね」 「……ああ。もう怖くない」 そう言うと、輝が微笑んで俺の頭を撫でた。 「偉いよ。あの地獄に耐えた自分に、やっと報いてあげられたね」 その声に、胸の奥がじんと熱くなる。 窓の外、冬の陽射しが柔らかく街を照らしていた。 もう、過去の影はどこにもなかった。

ともだちにシェアしよう!