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第8話 その後の二人 前編
笹井がため息をついている。
音原は笹井の方を見ないようにして弁当箱を開けた。
どうせ幸せのお惚気ため息だ。音原はわかっているのであえて何も言わずにスルーした。今日のお弁当は父親が作ってくれたやつなので、がっつりおかずが多くて食べ応えがある。でかめの唐揚げをむぐむぐ咀嚼している音原の前で、また笹井がため息をつく。
構ってちゃんか。
相方の新條は今日は委員会があるとかで早めに昼を食べてそちらに行っている。その隙に笹井が音原に何やら言いたいのだろうが、匂わせ男の何やらを拾ってやるほど音原は優しくはない。
「音原」
「何、ようやく自分からいう気になったか」
「わかってて無視すんの酷くないか」
「どうせアキのことだろ?‥惚気を聞かされるだけなのに‥‥どっちかって言うと笹井の方が酷いと思う」
去年からの友人である新條と、今年から何故か接点ができた笹井がめでたく付き合うことになって、早一か月。セックスしてから決めるという、新條のトンデモ発言には度肝を抜かれたし、莫迦じゃねえのと思ったが、まあ二人がほわほわ幸せそうなので良しとしよう。しかし、まさか目の前で生BLが見れるとは思っていなかった。
しかし生BLは文字通りなかなか生々しいのであまり話を聞かせてほしいとは思わないのだが。
笹井は、いかにも困っている、という顔を作って(絶対作っているに決まっている)、ため息をつきながら言った。
「チカがさ‥」
大体チカってなんだ。アキだと自分とかぶるから嫌だったのか、心の狭い男だ。
「エロ過ぎて困る‥‥」
「はーい了解でーすもうこの話終わりでーす」
音原はくるりと笹井に背を向けて弁当を膝に乗せた。一瞬でも仏心を出して話を聞いてやろうとした自分が莫迦だった。こいつらに仏心なんていらないのだ。
だって、リア充なんだから!
音原に背中を向けられた笹井は、後ろからぐいっと襟首をつかんで訴え続ける。
「頼むよ、音原にしか言えないんだからさ」
‥くそう、俺がそういう言葉に弱いと知っていながらの笹井のこの言葉。
そしてそれに負けて身体半分を笹井の方に向けてしまった時点で、もう愚痴という皮をかぶったのろけを聞かせられるのは確定なのだ。
「チカはさ‥あの、結構後ろもちゃんと感じるみたい、でさ‥」
なんだよ恥ずかしいなら最初から話すなよ。そう思いつつも無駄に知識だけはある音原は、さっさと話が進むようにアシストしてやる。
「ああ、前立腺が感じられるってことね。それで?」
笹井はぎょっとした顔をしつつも赤らめて、もごもごと言葉を続けた。
「でも、さ、俺たちがその‥出来る時って少ないだろ、そしたらさ‥」
あなた方のセックス頻度なんか知らんがな。
そう思いながらもまた大きな唐揚げをむぐむぐ食べていたら、笹井が続けた。
「チカが、『間が空くとさあ、後ろが疼くんだよなあ。道具入れて弄ったりしても浮気にカウントされる?』って‥これは、俺なんて言えば正解だったのかな‥」
音原は飲み込みかけていた唐揚げが急にのどに詰まってごふごふむせた。慌ててお茶を喉に入れて流し込みながら、涙目で笹井を睨んだ。
誰が好き好んで、友人のセックス事情を詳しく知りたいと思うだろうか。大体この二人は、音原がBL好きだから何でも許容できると勘違いしてはいないだろうか、BLは、漫画や活字で読むからいいのであって、生々しい友人のセックス事情はそこまで聞きたいわけではないのだ。
「‥知らないよ。そんなの二人で話したらいいだろ」
「俺は、チカのけっこう破天荒なところに惹かれて好きになったわけなんだけどさ‥」
笹井は全く音原の話を聞いていない。自分の言いたいことを全部言わずにはおられないようだ。音原は深いため息をつきながら、弁当の中身を消費するのに集中することにした。
とりあえず、ふんふんと聞いていれば満足なんだろう、多分。
「へーそーなんだ」
「でも、つき合い出すと、そういうところにちょっと戸惑うっていうか‥」
「へーそーなんだ」
笹井は菓子パンを片手に、はああっとため息をついてうなだれる。
「最近、ゲイサイトとかいろいろ調べてるみたいでさ‥将来どうするかとか考えてくれるのは嬉しいんだけど‥」
「へーそーなんだ」
「『後ろってすっげえ気持ちいいから、笹井にも挿れてやりたいなあ。背が低くても挿入はできるっぽいからやってみる?あーそん時は俺に笹井の後ろ、拡げさせてほしいな』って言われて‥」
「へー」
「いや、俺はチカのためなら喜んで尻を差し出すつもりはあるけど、前処理段階からしてやりたいって言われると‥ちょっと‥」
前処理‥ってあれか。
「‥ねえ俺まだ飯食ってんだけど」
「あ、すまん」
笹井が素直に謝った。音原は弁当のふたをとじて笹井を横目で見た。
「結局さあ、笹井は何に困ってるわけ?」
「へ?」
盛大にきょとん顔をかましている笹井に、淡々と音原は言った。
「尻に道具入れたら浮気かって?ちげーよ、ですむじゃん。笹井は道具も入れてほしくないわけ?そんならそう言えばいいよね?アキに突っ込まれたくないの?突っ込まれてもいい覚悟はあるんだよね?洗浄作業されたくないだけだよね?そんならそう言えばいいだけじゃん」
一気に言い切った音原に、笹井は口を少し開けたままぽかんとしている。
音原は弁当の包みを手に提げて立ち上がった。珍しく教室外の踊り場前ベンチで昼を食べていたのだ。
「あとはもう、二人でどうにかしなよ。じゃね」
音原はそう言い捨てるとサッサと自分の教室に戻っていった。
後に残された笹井はまた、はあ、とため息をついた。
わかっている、他人が聞けば、ただの惚気にしか聞こえないであろうことは。
しかし笹井は本当に困っているのだ!新條が‥エロ過ぎることに。
新條は素直に気持ちいい事が好きで、セックスにもほとんどためらいがない。だから、我慢している笹井の気持ちも知らずに、学校の中や放課後外で会っている時などにどんどん煽るようなことを言ってくるのだ。
「アナルセックスの頻度って、どんくらいが適切なのかな?」
「あんまりしょっちゅうしてたらさ、ケツが馬鹿になるって書いてあるサイトとかもあって‥でも、シュウだって機会があればしたいよな?」
「なあ、なんかゴムも色んな種類あるらしいぞ!今度通販で買ってみていい?」
「シュウ、ちゃんと俺でイケてる?」
「シュウはどんくらいしたい?」
やめて!外でそういう話題を普通の声の大きさで話すのはヤメテ!
笹井は何度も心の中でそう叫ぶのだが、新條の曇りなき眼を見ているとそれが口に出せない。
「あ、いや、わかんねえな‥」
「した‥い、けど、こうやって会ってるのも、楽しい、ぞ」
「しゅ、種類?って、サイズ以外に何が‥?」
「イ、イケてる!めっちゃいいぞ、いつも!」
「ど、どんくらい‥?むずいな‥」
つき合い出して一か月。挿入まで伴ったセックスをしたのは、まだ二回。
スタートがセックスだっただけに、今後どうやってつき合っていけばいいのか笹井はすっかり迷路に迷い込んでいた。
新條は会議室のドアを閉めて鍵をかけ、職員室に急いだ。もうすぐ予鈴が鳴る、次は移動教室だから急がないと間に合わない。
職員室のキーケースに鍵を返し、ダッシュで階段を上がる。階段ダッシュは中学までいつもやっていたので新條にとっては全く苦ではない。その速さに驚いて振り返っている生徒もいたが気にせず教室へ急いだ。
教室前までくると、教科書やノートを小脇に抱えた笹井の姿が見えた。
「チカ、当番がもう鍵閉めたからチカの分の荷物とっといた」
「え、ありがと、助かった」
新條が礼を言うと、笹井はふわっと笑った。
かっこいいよなあ。
新條はその顔をじっと見て思った。笹井は自分のことは「普通」だと言うが、新條から見れば身体もがっちりしていてかっこいいし、顔だって少しいかついけどイケメンと言われる部類だと思う。
最初は、変なやつだな、と思った。陽キャ特有の、自分とは違うものに興味本位で近づいてきて飽きたら去っていく、そういう扱いなのかと思っていた。
だが、笹井はそもそも陽キャっぽくなかった。戸倉というへらへらした奴はいかにもな陽キャで、そいつと話していることが多かったからそうかと思っていたのだが、よく観察していると笹井は割合無口だった。
初めて話したのは、席が隣になった時だ。ふと気づけば笹井にじっと見られていることに気づき、何か言いたいことでもあるのかと聞けば別に何もない、という。
変なやつだな、と思った。
その次は新條が風邪をひいて学校を休んだ翌日だ。身体を労わられて驚いた。
次は‥思わず新條が拳を振るった時だ。
しかし笹井は、学校でもその事に触れないでいてくれた。ただお礼を言うだけで騒がずにいてくれた。新條は、喧嘩のことや自分の強さについて何か言われるのが嫌だったからそれは本当に助かったし、いいやつだな、とも思えた。
まあ、その後のストーカー発言からの性的に見てる発言で一気に話が進んでしまったわけだが。
新條秋親は、今まで恋愛感情を抱いた事がなかった。友達もどちらかと言えばかなり少ない。奇跡的に高校に入って音原と仲良くなれたが、中学までは無視まではされないまでもかなり遠巻きに見られていた。
それもこれも、物心つくかつかないかの頃からトレーニングばかりさせてきたじじいのせいだ、と新條は思っている。
新條には、強くなれるだけの環境と遺伝子があり、たまたま強くなってしまったが別にそれを望んだわけではなかった。どちらかと言えば格闘技はそこまで好きではない。ただ、小柄なこともあってか(中学までは160cmないくらいだった)、絡まれることが多く、それを振り払っていたら喧嘩が強いやつだと認識されてしまい、面倒なことに巻き込まれることが増え、うんざりしていた。
だから高校は少し遠いところを選んだ。
特に友人などいなくてもいいと思っていた。自分の趣味に生きるのだ。勉強は将来の邪魔にならないから、そこそこ頑張って普段は趣味三昧だ、と考えていたら、ばっちり趣味の合う音原と出会って友人になった。
そして今年、クラス替えで出会った笹井修一郎。少し付き合ってみれば、いいやつなのはすぐにわかった。しかし、欲を孕んだ恋情を向けられるとは想像していなかった。
そしてその向けられた恋情が、心地いいと感じることも。
だからセックスしてみたいと思った。身体を触れ合わせながらその心を覗いてみたい。そう思ったのだ。
結果、セックスは最高によかった。
準備や拡張作業は少し大変だったが、信じられないほどの快楽を得られた。自分が莫迦になるんじゃないかと思ったくらいだ。笹井の熱い陰茎が何度も身体のナカを擦っている時、最高に気持ちよかったし幸福感に包まれた。
何度だって身体を重ねたい、と思った。
そこで、新條の心にある感情が芽生えた。
(シュウは、本当に俺の身体で満足なのか?)
というものだ。
新條とて、一般的にはセックスは男女でするものだと認識している。なぜか笹井に忌避感がなかったのですんなりセックスはできたが、後々話を聞いてみれば、別に笹井は男しかいけないヤツではないようだった。
と、いうことは、いつか笹井に好きな女ができた場合、新條はフラれる可能性が高いということだ。普通に考えて男とヤるより女とヤッた方が気持ちいいのだろうし。
新條自身は、自分から女性を好きになる想像があまりできなかった。というよりも、誰かを好きになる想像ができない。逆に今、笹井に対して好きだという気持ちがあるのが自分で不思議なくらいである。
せっかく、好きになれたのに、フラれるのは悲しい。
だから新條は、笹井を引きとめるべくエロで釣ろうとしているのだ。
まあ、貧相な自分の身体にどれだけの魅力があるかわからないが、努力はすべきだろう。
この新條の想いが笹井を困惑させていることに、新條自身は全く気づいていなかった。
「泊まりたい」
その新條の言葉に、一瞬笹井は固まった。
「‥え?」
新條は眼鏡をずり上げ、下から笹井を見上げた。
「夏休み、どっかで泊まりたい。もっといっぱいセックスしたい」
笹井はごくりと唾を飲み込み、辺りを見回した。騒がしいファストフード店では、新條の言葉はあまり響かなかったようでほっとする。
窓に向いたカウンター席に二人で隣り合って座り、少ししなっとなったポテトを義務のように口に運びながら、夏休みについて話しているところだった。新條の発言に笹井は声を潜めて返事をした。
「‥こんなところでデカい声でいう事じゃないだろ‥」
「そうか‥?ごめん」
新條は素直に謝ってオレンジジュースを口に含んだ。
笹井はじっと新條を見つめた。
正直、泊まりは魅力的だ。そうなれば一晩新條を寝かさない未来しか見えない。‥しかしそれは、新條にとって負担になってしまうのではないか。
笹井にとって新條はどんなに強くても、小柄でセックスすると腰が痛くなってしまう守るべき存在だった。
しかし、あれだけ強い新條に『俺お前のこと抱き潰したいけど体力大丈夫?』と聞くのも躊躇われる。
新條の裸体は、小柄ながらしなやかな筋肉に覆われていて腹もしっかり割れていた。腰に負担はかかっても新條が体力がないということはあり得ないだろう。それに比べて自分は‥。笹井は自分の身体と、体力の事を考えると目が遠いところを見てしまう。そもそも新條を抱き潰せるのか俺。
とりあえず笹井は初めて新條とセックスした日から、腹筋を始めていた。
あっ、新條の腹から腰にかけてのあの感じを思い出しただけで、あっ。
「シュウ?どした?腹でも痛い?」
やや前かがみになった笹井に新條は怪訝そうに声をかけてきた。お前の裸を想像してちんこ勃った、とは言えない笹井だった。
笹井が脳内ヒーリングミュージックを必死に再生して鬼リピしている時に、新條は言った。
「‥なあ、シュウは俺と泊まりに行ったりするの、気が乗らねえ?」
笹井は、新條の少し寂しそうな口調に驚いてその顔を見た。新條は、普段あまり言葉に感情を乗せない。だがこのところ、笹井は自分と話している時に新條がこのようなふっと昏い顔をして話すことがあるのに気づいていた。
新條は、素直に、笹井と泊まりで出かけたかっただけなのかもしれない。
まだ二回しかセックスはしていないが、二回目の時も何度も身体を重ねて、新條はきもちいいと何度も艶めかしく喘いでいた。‥‥新條も、セックスは好きなのかもしれない。というか高校生男子は多分全員好きだろう。
ただ、セックスしたいと言ってはいるが本当は‥ひょっとしたら単純に笹井ともっと一緒にいたいと思ってくれたのかもしれない。
笹井はそう考えてすぐに答えた。
「そんなことない!新條と一緒にいられるだけで、俺は嬉しいから」
笹井はそう言ってオレンジジュースのカップを握っている新條の手に自分の手を重ねてそっと握った。笹井は、人並みに恥ずかしいという感情は持ってはいたが、人前でいちゃつくことにはそれほど抵抗がないという、こちらも一風変わった認識を持つ男だった。
音原の苦労も推して知るべし、である。
新條はそう言われて、にっと笑った。
「じゃ、行こ?どこ行きたい?」
そこから二人で、出かける先を色々と検索しまくり調べまくり、費用はどれくらいかけられるかなどを熟考しまくった。
期末試験も何とか乗り切って(とはいえ新條は今回も学年で十三位には入っていた)夏休みになった。
笹井は夏休みの前半はアルバイトをして旅行のお金を貯めることにした。運送会社で、日によって引っ越し作業と荷物の仕分け作業をする仕事である。期末試験の結果がほぼほぼ中の中だった笹井に、新條はちょっと眉を顰めた。
「お前、バイトよっかもう少し勉強した方がいいんじゃないか?」と言われてしまったが、いやいや、お前とのラブラブお泊りのためにバイトを優先します、という気持ちでへらりと笑ってごまかした。
新條は授業態度はあまりよくなかったが、勉強自体は怠らない生徒だった。新條曰く「勉強はやっておいても邪魔にならない」ということで、勉強ができた方が将来の選択肢が広がる、という考えを持っていた。そういうところも、笹井は新條を尊敬し好きだと思う部分ではあったのだが、とにかくこの夏は新條との旅行のためにバイトをすることに決めた。‥勉強は、休みが終わったら取り組もう、と言い訳している。
笹井は一学期の間あまり家に寄りつかなかったのだが、その原因を新條に訊かれ、仕方なく経緯を話した。そして新條に鼻で嗤われた。
「いやそんな、シュウ。それはないわ。ガキじゃあるまいし。‥親がいちゃつきたがってそうだったらイヤホンでもして音楽聞いとけばいいだろ?親が幸せならそれに越したことはないじゃん」
あっけらかんとそう言い放たれて、笹井は茫然とした。自分が悶々と心の中に抱いていた違和感は何だったのか、と思った。そのくらい、脳内が一気に晴れ渡った気がしたのだ。新條の言い草を聞いていると、自分のもやもやとした気持ちなど全く大したことではなかったような気がしてくる。
「そっかあ‥」
繁華街を彷徨わなくなってからは、新條と出かけることで家を避けていた笹井は、新條にそう言われてから気負うことなく家に帰れるようになった。その変化を、父も義母も驚くほど喜んでくれた。ああ、心配をかけていたんだな、とその時初めて笹井は気づき、また新條に対しての気持ちが膨らむのを感じたのだった。
新條はつき合えばつき合うほど、笹井にその魅力を見せてくれる。笹井はどんどん新條に自分の心が傾くのを感じていた。もともとめっちゃ好きだ、と思っていたのに、好きの上限はないのかもしれない‥と莫迦なことを考えてしまうくらいだ。
バイトの合間を縫って、新條にも時々会う。新條は意外に笹井の勉強の事を気にしてくれて、課題は終わったかなどといちいちチェックしてくれた。親に言われればウザいなと思いそうなことも、新條に言われれば全くそんなふうには思わなかった。
新條は新條で、笹井とつき合えばつき合うほどなぜ笹井は自分を好きになってくれたのかがわからなくなっていた。興味本位だったのだろうと最初は思っていたが、二人で逢うと笹井はとても優しい目つきで自分を見つめてくれる。その優しい目で見つめられる甘さに、どんどん溺れそうな気がして新條は怖かった。身内以外で、このような優しい感情を向けられたことがほとんどなかったのだ。
笹井はあまり勉強することにも関心がないようだったが、新條が勧めれば嫌がらずにきちんと取り組む。新條の意見は、ほとんどの場合取り入れてくれる。おそらく笹井には興味もないだろう、新條の好きな漫画やアニメ、ゲームの話にでも何時間でも耳を傾けてくれる。
音原と話している時でさえ、ここまでよく聞いてもらえたことはない。あまりの居心地の良さに新條は空恐ろしくなってくる。‥‥こんな感情を受け取ることに慣れてしまったら、それをなくした時の喪失感はいかばかりだろうか。
最初に笹井に好意を伝えられた時からすると考えられないほど、新條は自分が笹井に捉われていると感じていた。笹井との心地いい時間を失いたくない。だが、そのために自分は何をすればいいのかわからない。
新條に思いつくことは、結局肉欲しかなかった。せめて、セックスが気持ちいいと思ってもらえれば簡単に捨てられることはないんじゃないか。
そう言った気持ちが、新條に「二人での旅行」を提案させたのだ。
お盆も過ぎた夏休み後半の頃、笹井と新條は近場の温泉地にやってきていた。新條はあわよくばずっと旅館に籠っていようと狙っていたので、あまり観光するようなところではなく、保養地のような温泉地だ。
駅に降り立てば、ほのかに硫黄のような匂いがする。温泉なんだなあと笹井はその匂いを吸いこんだ。
そこからバスに乗って旅館に向かった。土地が違うとバスの内装や雰囲気も違っていて面白いな、と二人で話しているうちについた。旅館は古いようだが清潔で、客もそこまで多くなく雰囲気のいいところだった。ここを探し出したのは新條だったので、「結構当たりだったな」と嬉しそうに笑っていた。笹井はその顔を見てまた可愛い‥と心の中で悶えていた。
昼食を食べていなかったので散策がてら温泉街へ出向いた。真ん中に川が流れていて、その両岸に温泉宿や飲食店、土産物屋などが立ち並んでいる。温泉の地熱を利用した蒸し饅頭や蒸し料理なども売られていて、二人で目移りしながら歩いた。
「楽しい」
新條がぽつりと言った。その声が、内容とは裏腹にとても寂しそうに聞こえて笹井は思わず新條の顔を見た。新條は少し下を向いていたので、前髪と眼鏡が邪魔をして表情があまり見えない。
「チカ」
「楽しいな、シュウ」
やはり、寂しげな声だった。新條は笹井に目を合わせることなく少し前を歩いていく。笹井はぐっと新條の肩を掴んで歩くのを止めた。
「チカ」
そして新條の顔を少ししゃがんで覗き込む。新條の大きな眼鏡の向こうにある小さな黒い瞳が、じわりと滲んでいるのがわかった。
「チカ、どうした?‥何か、悲しいのか?俺何かしたか?」
まさか泣きそうになっていたとは思っていなかった笹井は吃驚して、思わず焦りながらそう尋ねた。新條は眼鏡を取って腕でぐいと目の辺りを擦る。
「はは、なんでかな、眼鏡してんのにゴミ入った、かな」
「チカ」
笹井は、辺りを気にすることなく新條を抱きしめた。新條は驚いてすぐに腕を突っ張って笹井の腕から逃れようとした。
「おい、ダメだろ、笹井」
「チカがそんなこと言うのおかしい」
「‥‥なんで」
「いつもチカは、そういうの気にしないだろ。‥そして、ゴミじゃないだろ」
笹井の手が、新條の背中と頭をぎゅっと抑えて自分に押しつけている。
笹井の匂いがする。
そんな事さえ、わかるようになってしまったんだな、とぼんやり新條は考えた。
俺、めっちゃシュウが好きじゃん。
恋愛なんて、どういうものか全然わかってなかった。
でも、シュウのせいでわかってしまった。
ずっと気になる。ずっと考えてしまう。
そして、すっと心配になって不安になる。いつまで好きでいてもらえるのか。いつかこの関係が終わってしまうのか。
男女なら結婚というゴールもあるけど、日本では同性の恋愛だと公式には何も保証されない。パートナーシップ制度だって何を確約してくれるものでもない。
新條は色々調べてみたのだ。しかし現状、日本では何がしかの法的繋がりを持ちたいと思えば、養子縁組を結ぶしかなかった。
しかも、養子縁組を結んでしまえば、その後婚姻を結ぶことはできなくなる。法改正が行われた場合にも結婚することはできなくなる。
詰んでるな、とパソコンの画面を見ながら考えた。
「シュウ」
「ん?」
「俺、シュウが好きだ」
笹井は、新條の切迫した口調に身体を離してその顔を見ようとした。新條は顔を上げてくれない。
「チカ。俺も好きだよ。すごく、好き」
「うん」
「チカ」
新條が黙って顔を笹井の胸にすりつけてきた。
「‥‥俺も好き」
笹井はへらッとにやけるのを我慢して新條の身体を囲い込んだ。道の端っこで男子高校生二人ががっしり抱き合っているこの風景を、あまり周りの人は気にしていないように見える。新條の髪の毛に鼻を突っ込んで匂いをかいだ。ふわっと汗と新條の香りがする。
「でも、シュウがいつまで俺のこと好きでいてくれるか、わかんないだろ」
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