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第6話 彼の人の行方ぞ何処に有らんや(新版)

 オデルが目を覚ますと、レナードは先に起床していた。  初夜から一週間が経過していたが、オデルのうなじには、まだ傷ひとつない。  レナードは式の翌日から目まぐるしく働いていた。通常の貴族では考えられない量の書類を精査し、サインを入れ、指示を出し、日々、どこかの視察や打ち合わせに出かけ、お茶の時間に間に合う日もあれば、夕飯前まで帰宅がずれ込むこともしばしばある、働き詰めの毎日だ。オデルの父から引き継いだ仕事に加え、ローズブレイド公爵家の借財のすべてを解消する煩雑な手続きを、なるべく早く終わらせようとしていると聞けば、新婚旅行の延期を切り出されても、オデルも引退した父も、異を唱えられなかった。 「彼としては、身綺麗にして旅立ちたいのだろう。わたしも、その方がいいとは思うが」  閉じこもりがちだったオデルの父は、ここのところ病状が安定し、快復しつつある。当主不在の午後のお茶会には、オデルとオデルの父、そして週に一度、双子の弟たちが同席する約束だった。 「ご機嫌よう、父上」  身支度をして喫茶室へ降りると、オデルの父が席についていた。 「お加減は如何ですか? 今日は、少し顔色が良いようにお見受けします」  レナードが不在であることに触れたくなかったオデルは、当たり障りのない話題とともに父の斜向かいに腰掛けた。オデルの婚姻を機に「公爵」の肩書きから退いた父は、病気療養を兼ねた静養に湖水地方の別荘へ出かける予定だったが、双子の兄弟がまだ幼いことや、貴族の決まり事に不慣れなレナードの補佐と引き継ぎを頼みたい、とオデルが我が儘を言い、待ってもらっていた。 「やあ、オデル。今日は……レナード卿は不在のようだ。早朝に馬車で駅まで向かったと聞いたが」 「ぼくに遠慮して、見送りはいらないと」  家族が勢ぞろいする週に一度のお茶会に遅刻するレナードを、快く思っていないらしいオデルの父は、皮肉というより自虐に近い言葉とともに肩を竦めた。 「あの御仁がきてくれたおかげで、蘇ったようなものだからな、我が家は……」  父がため息をつくまいとするのを、オデルは礼儀正しく静観した。レナードとの婚姻話を切り出した時の父の苦悩の様子を知っているオデルは、どんな小さなことでも、レナードとの間に問題があるなどとは、口が裂けても言えなかった。  しかし、オデルのうなじが処女地であることは、そこに視線が集うことで、肌感覚として理解できた。使用人らは皆、沈黙を守っているが、この婚姻を進めた当事者でもある父には、正当な理由を打ち明けるべきだとわかっていた。だが、それにはオデルとレナードの仲が、欠けることなく円満であることが絶対の前提条件だった。 「そういえば、ノエルとリアムの姿がありませんが」  オデルが双子の弟たちの話題を振ると、父は途方に暮れた様子で肩を竦めた。 「あの子らの熱量の高さを、説明もせずに公爵に会わせていいのかどうか……」 「レナードなら、きっと腕白だと納得しますよ。子どもは嫌いではないようですし。調教師をしていた頃は、頻繁に貴族の子女らの指南役を任されていたとか」  笑みを浮かべ、オデルは話した。心配をかけていることが心苦しかったが、オデルが悩む様子を見せれば、父はもっと深く悩むだろう。選んだからには、今を良くしてゆくしかない。それが砂上の楼閣になるかどうかは、オデルの心ひとつで決まる。 「オデル……お前に少し、尋ねたいことがあるのだが、いいだろうか?」 「ええ……かまいません」  オデルはわざと身構えず、弛緩した態度で父を見た。そろそろ限界だろうと思っていた。父を納得させる理由がないまま時を座して待つのは、もどかしく、おそろしかった。 「社交界の噂をどう思う?」 「噂……ですか? 根も葉もないものがほとんどで、気にする必要はないかと」 「新生ローズブレイド公爵のことでもか」 「っ……ええ」  ついにきたか、と息を呑んだことを誤魔化すために、オデルは空のままのティーカップをテーブルの奥へ押しやった。 「何か心配事があるのですか? 父上」  父は言い淀んだ末に、苦い表情のまま「気になることがあるのだ」と呟いた。 「お前は、あの御仁との婚姻を、どう思っている? もしわたしの知らないところで、何か問題が起きているのであれば……秘密には、しないでくれ。わたしが不甲斐ないばかりに、お前に多くを背負わせすぎてしまっているとすれば、亡き妻に申し開きができない……」  滲むように言葉を絞り出す父へ、オデルは柔らかな笑みをつくり、困った表情をした。子どもの頃から、この気弱で繊細なところのある父が、いつもオデルを心配していることを十分すぎるほど見聞きし、理解していた。婚姻するだけですべてが解決するという考え方が甘い夢だとわかっても、父にはなるべく煌びやかな表層の幸せを見ていて欲しかった。 「父上。レナードと一緒になると決めたのは、ぼくですよ。公爵として相応しいと判断したからです。それにレナードは、ローズブレイド公爵家を立てようと努力しています。型破りでもありますが……ぼくは、それで十分だと考えています」 「オデル……しかし」 「父上が仰っているのが「ドレッサージュの君」とのことでしたら、ご心配には及びません。彼は、そのことも話してくれました……すべて、いいように、解決します。大丈夫」  真っ赤な嘘でも、オデルは心の奥へ不安を押し込め、当面は父にショックを与えず、懸念をやり過ごそうとした。とはいえ、オデルの処女地は雄弁だ。さらにオデル自身も、レナードとの寝物語の時間以外に「ドレッサージュの君」の話を切り出せていない。口先だけで周囲を謀り誤魔化すのも十日が限度だろう。オデルとしては、速やかにレナードと話し合う必要があったが、勇気を出すには強い覚悟が要った。 「わたしが口を出すべきことでないことは、承知している。が、しかし、オデル……」 「ぼくは気にしていませんが……父上がそこまで言うのなら、彼と話し合ってみます。少しだけ待っていただけませんか。まだ新婚旅行にも行っていないのですから」  戯けた口調で冗談のように強調することで、オデルはレナードが旅行前にうなじを噛むことを控えているという、印象操作を試みた。  こうして不安がるくらいならば、いっそ湖水地方へ早く旅立たせてしまった方が良かったかもしれない。しかし、レナードとふたりきりになるのが、オデルはまだ怖かった。蔑ろにされたり、侮られたりという心配はしていない。レナードはオデルに優しすぎるぐらいで、時々、その気遣いが息苦しく、疲れしてしまうほどだ。いずれ慣れなければならないが、レナードのようなアルファには会ったことがなく、どう振る舞うべきか、どこまで踏み込むべきか、オデルは考えあぐねていた。 「ところで、ノエルとリアムを呼んできてもいいですか? すぐ戻りますので」  適当に理由を付け、オデルは考えごとのために席を立った。  父がオデルの態度に感化され、少しでも安堵してくれたら、と願いながら。

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