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第11話 恋(*)(新版)
階下へ降りると、轟々と嵐の音を吸い込み開いた玄関扉が、レナードを吐き出し、閉じられたところだった。濡れ鼠のレナードが執事にコートと帽子を手渡しているところへ、オデルは何も考えずに飛び込んだ。
「レナード……!」
名を呼んで抱きつくと、ふわりといい匂いがした。縋るようにレナードの背中に腕を回し、オデルは心底から安堵する。
「オデル……?」
レナードは不意に現れた伴侶を両腕で抱きしめ、小さく深呼吸した。
「すみません……起こしてしまいましたか?」
疲労の滲んだ低い声は、少し掠れていた。
「酷い雨だったので、工場の二階に泊まったのです。ひと段落したのが深夜で、朝から書類の処理や残務が残っていて……邸の者を煩わせるのも忍びないと思ったのですが、やはり連絡を入れればよかったですね……?」
神の怒りを体現したような昼夜だった。レナードから雨の匂いを吸い込んだオデルは、途端に正気に戻り、ぱっと距離を取った。胸の前で腕を交差させ、俯いた頬がみるみる血の気を帯びるのを自覚しながら、オデルは後悔と自己嫌悪でいっぱいになった。
「あの、ぼくは……っ」
慎みのない振る舞いをした羞恥心が遅れてこみ上げ、言い訳を探したが、咄嗟に言葉が出てこない。執事が目のやり場に困り、視線を逸らしたのが視界の端に映る。レナードは上着を脱ぐと、そっとオデルの肩に掛けた。
「きみも、疲れた様子だ」
うな垂れたオデルの眦を、レナードの指先が優しくなぞる。
「これからは、ちゃんと連絡を入れます。遅くなったり、帰れない日は」
「いえ、あの……っ」
睡眠不足の酷い顔は、きっとオデルもだ。そんなオデルへ配慮を示すレナードの言葉に、途端に落ち着かない衝動が込み上げる。
「ぼくの我が儘ですから……すみません」
「謝るようなことでは。きみの我が儘は、嬉しいですよ」
レナードの気配りが急に隠微なものに感じられ、オデルは心の奥で強く衝動を抑制した。秘密を知られるのが怖い。シャツ一枚で、靴さえ履かず、子どものように駆けてきてしまった自身を省みた。
「お疲れのところを邪魔したくないので、どうぞお休みになってください。ぼくは、あの、少し、着替えて……散歩を」
「オデル?」
「っ失礼します……っ」
使用人らの目もある。オデルは冷静を装い、踵を返した。途端に間違った選択をしたのではないかという寂しさが込み上げる。上気した頬を乱雑に擦り、会話を拒むように階段を駆け上がった。貴族としてまったく相応しくないおこないをしてしまったのに、この胸の高鳴りは何だろう。狼狽とともに、覚えのある衝動が込み上げてくる。
レナードの、普段は見せない、やつれた表情。
休息を欲する気配。
だが、それ以外の匂いはしなかった。ともにいたはずのイアンの気配さえせず、汗の名残りが混じった正真正銘のレナードの匂いに、臓腑の奥が昂ぶる。背後から数回、名前を呼ばれた気がしたが、振り返ることができなかった。
レナードとの共用の寝室は不在に満ちていて、今までどうやって安眠していたのかわからなくなる。寝室へ戻るなり鍵を掛け、誰もいないことを確認すると、オデルは肩に掛けられたレナードの上着を両手で引き寄せ、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。身体に上着を巻き付け、深呼吸するが、緊張が緩まない。鼓動が煩く跳ね、心臓が全身を脈打たせているみたいだった。
(これ、……っ)
発情期とは、たぶん違う。抑制剤を飲みはじめてから、サイクルが狂ったことはない。膝を折り、身体を丸めたオデルは、やがて絶望に近い声を漏らした。
「な……んで……っ」
下着の中がきつくなり、興奮していた。外はまだ荒れている。これでは散歩になど、いけるはずもない。今さら言動のおかしさに気づいたが、思考は回らず、たまらず下着をずらすと、存在を主張している自身に指を絡めた。
「ん、ぁ……っ」
(っいやだ……っ)
少し触れただけで声が出てしまうことなど、今までなかった。恐るおそる、だが強い欲望が込み上げてきて、絶望を覚えながら、震えながら手を動かす。
「ぅ、く、ぁ、ぅ、っぁ、っん、ぅ……っ」
はしたなく声を殺すこともできない快楽が、瞬く間に全身に回る。気づくと利き手を上下に動かしながら、レナードの上着の布地を噛んでいた。それでも悲鳴が短く漏れる。声に誘われるかのように、興奮が密を溢れさせ、白濁が零れはじめる。
「っ、ん、は、ぁ、っぁ、んぁ、ぁっ……!」
オデルは独り、身悶えながらレナードを想った。充填された熱が膨れ上がり、オデルの利き手を汚す。淫らな水音とともに快感が込み上げたが、放出はゆっくりと、終わりなく続いた。
「っ、ん、んん……っ!」
絶頂が訪れても途切れることのない衝撃がオデルを蝕み、どこかへ流されそうになる。外は嵐だ。部屋はランプの灯火で薄暗く、影がゆらめき、オデルの芯を燃やして、じわじわと愉楽が注がれてゆく。
「ぁ……っ、な、んで……っ、なん、で……っ」
過敏になった身体の奥で火花が散り、止められない。興奮のあまり、背徳的な熱がせり上がり、化学反応のように炎が上がる。
(こんな……っ、ど、どう、し、たら……っ)
通常の発情期を凌駕して、なおあり余る熱がオデルを苛み、押し流そうとしていた。果ててしまえば落ち着く程度の熱しか経験しなかっただけだと、初めて悟る。記憶された感覚は増幅し、オデルを駆り立て、追い詰める。一度も触れたことのない内側にすら、欲しいという明確な欲が生まれ、未踏の地を荒らされたいと望んでしまう。
「ゃ……っだ、ぁっ、な、なんで……っ」
足掻く傍から情動が迸る。レナードの声や気配、衣類に残る微かな熱さえもがオデルを蝕んだ。迸りというには長くゆっくり射精が続き、オデルは裸足の指をぎゅっと丸めた。
(き、もち、ぃ、っな、んて……っ)
誰にも言えない。
こんなの、知らない。
「ぁ、ぁっ……ぃ、ほ、し……っ、なん、これ……っ、ゃ、ゃ、ぁ……っ」
求めたところで与えられない。去らない熱を追い出すために、オデルは手を止めることができずにいる。
(レナード、が……っ、いれ、ば……っ)
助けを求められたら、どんなに楽だろう。
だが、決して与えられることのないものを、オデルの身体は欲していた。
『——アルファは、オメガの前で、獣になってしまいます……』
その意味を識る日が訪れるなど、思いもしなかった。オメガだって獣になる。それとも、オデルだけが違うのか。
どちらにせよ、ここまで強く誰かを想いながらするのは初めてだった。
次こそは終わる。次こそは——そう願い続けながら足りない愉楽にオデルは喘いだ。まるで熾火が一瞬で燃え上がるように、その場所をかき回して欲しくてたまらなくする——こんな餓えは知らない。
腹の中で熱のうねりが暴れ、煮え滾る。レナードと生活をともにするようになり、発情抑制剤は再調整してもらった量をきちんと服用しているのにだ。
(なの、に……っ、なんで……っ?)
「レナー……ド……、っして……っ」
去らない灼熱に溺れてしまいそうだ。
口をついて出た名前に、オデルはいつしか啜り泣き出していた。
「ひぅ、んっ、ぁっ、ぁ、っぅ、そだ……っ」
べそをかきながら、戸惑い、怖れた。
(この、身体は……っ)
間違いない。
(心は……)
レナードに、恋をしてしまっている——。
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