12 / 28

第12話 悪い夢を見ないように(新版)

 その夜以来、オデルはレナードと目を合わせられなくなってしまった。  最初は静観していたレナードも、さすがに十日以上も続くオデルの拒絶に、時々、理不尽な表情を浮かべるようになった。  そして、二週間ほどが経過した夜、レナードがついに切り出した。 「……先日、邸を空けた件ですが」  主寝室でナイトウェアに着替えたオデルは、レナードの窺う声に身体を強張らせた。あれから毎日、気づかれない時間帯を選び、独りきりで伴侶を辱める後ろめたさがオデルを苛んでいた。覚えてしまった禁断の味と、いつ見咎められるかわからない不安が混ざり合い、心は乱れたままだ。  そんな状態のオデルにも、レナードは言葉を選び、歩み寄る意志をみせた。 「腹を立てるのも無理からぬことです。何も知らせずに、きみを蔑ろにして……」 「そうではないのです」  下手に出るレナードを、オデルは慌てて遮った。どう贔屓目に見ても、避け続けているオデルに問題がある。レナードは、とばっちりを食っているだけだ。 「問題はぼくにあります。自分でも、嫌になるくらいです」 「問題?」 「はい」 「私にも、わかるように説明していただけませんか?」 「それは……」  辛抱強く和解の糸口を模索するレナードに、到底、打ち明けられることではなかった。 「……言えば、きっと呆れるでしょう。ぼくも自分が嫌になりました」  可愛げのない素っ気なさに、オデル自身も呆れてしまう。嵐の夜が過ぎ去って以来、レナードは律儀に帰宅時間を守り、オデルとお茶と夕食をともにし、同じベッドで眠る生活を繰り返している。しかし、この習慣が維持できているのは、オデルが主治医に泣きついたからだった。  発情抑制剤のレシピを強いものに変え、日に一度、溢れる前に熱を処理している。でないとレナードの傍へ寄ることもできない。独りでするのは、孤独で、空虚で、屈辱的で、それでいて何もかもを吹き飛ばすほど甘美で、誰にも打ち明けられなかった。主治医にすら細かい話は誤魔化してしまっている。  レナードはしばし黙考し、オデルをベッドサイドへ招いた。 「オデル、こちらへ」 「っ、でも」 「いいから、こちらへ。座って、少し話をしましょう」  躊躇うオデルへ、レナードは初めて、有無を言わせぬ口調を使った。アルファの要求を拒むのは、番っていないオメガにとっては少し難しい。本能的にアルファへ従うことに悦びを見出す種だからだ。レナードはオメガの特性を理解し、オデルに向かって強いる口の利き方をしたことは、今までなかった。  恋を自覚した途端、レナードの残り香がオデルに深く作用するようになった。オデルはレナードに従うと決めると、保険としてサイドチェストの抽斗から緊急用の抑制剤のアンプルを飲んだ。  傍らに座ったオデルへ、レナードは沈んだ声で呟いた。 「私は……少し浮かれすぎていたようです。オデル」 「え……?」  てっきり叱責されるとばかり思っていたオデルが顔を上げると、レナードは哀しげに肩を竦めた。 「きみと婚姻できたことが嬉しくて、この初夏のような日々が、ずっと続けばいい、と……。でも、我々は互いに知らない者同士だったのですから、相手を理解する努力を怠ってはならなかったのですね。我慢をさせて、嫌な思いもさせていたかもしれません。申し訳なく思っています」 「ち、ちがいま……」 「違いません。きみは、私を恨み、憎む権利があります」  身を乗り出したオデルへ、レナードは無力な声を出した。  レナードの思い詰めた横顔がランプの灯りに弱く浮き上がり、オデルは、やっと、この伴侶が懊悩を深めていることに気づいた。  傍に寄ることで身体が反応してしまい、それを知られてしまったら。あるいは理性の箍が外れ、思い余って行為を迫ってしまったら。ゆっくりと醸成されつつある信頼関係に冷水を浴びせる真似はしたくないと思っていたが、肝心のレナードの心を蔑ろにしてしまっていたことにを、オデルは深く後悔した。 「ぼく、は……」  レナードの視線がオデルを捉え、見詰める双眸が柔らかな灯りに揺れる。ランプの灯火が反射したものだが、魂を映したように美しかった。オデルが思わず手を伸ばすと、レナードはそれを遮った。鳶色の眸に反射する灯火が揺れ、そっとオデルから視線が逸らされる。 「きみは……」  オデルが伸ばした手を握ったレナードが、掠れた声で囁く。 「……私を、試しているのか、煽っているのか、判断が難しいです」  苦悶が頬に現れ、レナードが葛藤を晒す。 「このまま……手を繋いでも?」 「はい……」  オデルが頷くと、レナードは優しく握った手に力を込めた。触れ合うと、互いの体温の差が埋められることに、オデルは初めて気が付いた。 「そろそろ、眠りましょうか……?」  促され、詰問の終わりを悟ったオデルは安堵した。レナードの隣りへ横たわり、伴侶が添い寝するのを確認する。シーツの上で繋いだ手は、そのままだった。 「オデル……」 「……?」  ランプの灯火を消して、暗闇の中、互いの気配だけになる。呼吸も心音も落ち着いてきた頃、ぽつりとレナードが呟いた。 「怒らないで、聞いて欲しいのですが……」  握られた手に、引き止めるような力が込められる。子どものように、オデルに縋るように手を握ったレナードは、言葉を継いだ。 「……散歩にいくと言ったきみが、扉の向こうで甘い声を上げているのを耳にしてしまったとしたら、私はどうするのが正解だったのでしょうか……?」  瞬間、オデルはひゅっと息を呑んだ。身体が強張り、こちらを窺うレナードを振り返ることができない。握られた手に握力を感じながら、拒めないまま、オデルは全身が震え出すのを止められない。 「盗み聞きを許していただけますか? もし許されなくとも……きみへの気持ちは変わりません。それを、知って欲しいです。私は、きみという人をとても好ましく……」 「っ……ぁ!」  飛び起きて振り払おうとするより先に、握られた手を引かれてオデルはバランスを崩した。気がつくとレナードの腕に、暴れようとするオデルは抱きしめられていた。 「先日、主治医から、きみが抑制剤のレシピを変えたと報告を受けました。オデル、もしかしてきみは……」 「黙……っあれは」 「きみの価値は変わりません。こんな程度で、私はきみを嫌ったりしない」 「ゃ」 「オデル、私はどうしたら——」 「あ、あれは……っ」  心臓が破れそうに暴れる一方、身体の芯が熔けるような錯覚に陥る。薄いナイトウェア越しに肌と肌が触れ合い、互いの体温が伝わる。オデルよりレナードの方が少し体温が高いのだろう。もしくは突然、心の機微に触れられたせいで、そう感じるのかもしれない。 「オデル……私は」  レナードは悪くない。触れ合うことで部屋の空気が攪拌され、濃いフェロモンが鼻腔を占有した。強い目眩に襲われたオデルは、外れかけた箍を必死で押し込めようともがいたが、まったく力が足りなかった。 「た、ただの、体調の、変化、で……っ」 「オデル、きみは……」 「あれは、あれ、は……っ」  静謐としたレナードの視線がオデルに向けられる。言葉を待つレナードの双眸を見返す勇気が、オデルにはなかった。ぎゅ、と枕の端にぶら下がっていたタッセルを掴み、必死で動揺を隠そうとする。 「ごめ、ん、なさ、い……っ、ごめん、なさい……っ、ごめんなさ、い……っ」  頭蓋で音が反響し、上手く声が出せているのかわからない。肩で息をするほど動揺しながら、恥ずかしさのあまり、オデルは謝罪し続けた。 「あ、あなたを……辱める真似を……っ」  消えてしまいたい。涙で視界が歪み、やがてぱたりと水滴がシーツに散った。震えるオデルを、レナードは指の跡が付きそうな力で抱き寄せた。 「それは違います、オデル」  レナードの強い確信に満ちた言葉を解釈する余裕もないほど、どうしたらいいのかわからない。だが、レナードはオデルを離そうとしない。 「私は地に足がつかないぐらい、きみと暮らせることに浮かれていました。憎からず意識されていることが、嬉しかった。私の方こそ、恥じるべきなのです」 「ゃ……」  もがくが、オデルの力など容易に押さえ込んで、レナードは拘束を緩めようとしなかった。 「オデル……私は嬉しかったのです。なのになぜ、謝るのですか」 「だっ……て」  隠せていたと過信した自分の愚かさ。それ以上に、レナードを妄想の中で何度も辱めた事実が、オデルを苛んでいる。もしかすると、口には出さないが、日々、オデルがしていることにも薄々感付いているのかもしれない。沈黙は思いやりだが、いたたまれないほど強くオデルは消滅を願ってしまう。 「に、二度と……二度と、しません……っ、わ、忘れて……っ、あ、あなたを、穢したことは事実です、でも……っ」  オデルは必死で謝罪した。他に何ができるだろう。握っていたタッセルを離した両手で、レナードに溺れんばかりにしがみつく。 「泣かないで、オデル」  レナードの唇が、そっとオデルの眦から溢れる水滴を吸い取る。握り込んだ両手の爪が手のひらに食い込んでも、ほどくことができないほど乱れているオデルの指先を、レナードが剥がし、指を絡めてきた。 「きみを……私のものに、無理矢理してしまおうかとも、考えました。でも……」  あんなみっともない真似を、この指を使ってしてきた、とレナードに知られてしまった。この世の終わりを望む時がくるとしたら、今をおいて他にない。なのに、オデルはレナードを振りほどけなかった。 「戸惑っているのは、きみだけじゃない。私も、なのです。きみに、獣のような姿を晒したら、世界が終わってしまうかもしれない……。とても非合理的な考え方です。でも、不安でたまらないのです。こんなこと、初めてで、どうしたらいいのか……」  ぽろぽろと零れる涙を拭いながら、レナードの唇が放つ言葉が甘い。 「ど、どうして……」  嗚咽を堪えようとするオデルを再び両腕でレナードが強く抱き締める。 「どうして……「どうして」と思うのか、不思議です」  でも、レナードには「ドレッサージュの君」がいる。 「きみが好きだから、というのは、答えにならないでしょうか?」 「っ……」  社交界の寵児と評されるほどの存在のレナードは、もっと世慣れた年上のアルファだと思っていた。噂どおりの人物なら、オデルは軽い失望と軽蔑とともに、自己犠牲の人生を後悔しながら謳歌できただろう。でも、違った。 「いつか、きみとすべてを分かち合える日を、私は夢見ています」  オデルとの日々に、「ドレッサージュの君」への恋情とはまた別の感情を、抱いてくれているのだろうか。もし、極めて個人的な親愛の情に近いものを抱いてくれているとしたら。平等に考えればオデルが不利だ。でも、心は別の言葉を叫んでいた。 「ぼく、も、あなたが……、レナード」 「きみが何を隠していても、何をしていても、私はきみが、きっと好きなままです。オデル」 「……っ」  その「好き」に順番が付いていても、それがオデルの順番とは違っていたとしても。  オデルは眦を寄せ、泣き声を上げてレナードの背中にしがみついた。胸が締め付けられるような痛みに襲われる。同時に肚の底から湧き出すような悦びを覚え、オデルはそれを堪えようとした。 「きみには、知っておいて欲しいのです。些か強引な手段を取ったことは謝罪します。でも、急がなくていいですが、考えてください。少しでいい。少なくとも、私はきみを、好きです」  希望も未来もない。  急峻な道かもしれない。  それでも、できる限り長くレナードと一緒にいたい。 「きみにたくさん触れられて、私は今宵……ちゃんと眠れるかどうか」  布越しの心臓が暴れる音をさせたまま、レナードが言うから、オデルは「ぼくもです」と小さく応じた。  きっと残酷な夢になるだろう。  オデルの首筋の髪を一房、梳いたレナードは、やがてべそをかいていたオデルが落ち着くまで待ち、大きくひとつ、深呼吸した。 「眠りましょうか……? きみが悪夢を見ることが、ありませんように……」 「子どもみたい、です……」 「存外、子どもっぽいところがあるのですよ、私は……。目を閉じますが、よければこのまま……手を繋いでいても?」 「はい……」  闇の中、互いにひとりしかいない命綱のように手を取り合った。 「……オデル」 「?」 「おやすみなさい」 「おやすみなさい……レナード」  寝息が聞こえてくるまで、長い間、オデルは目を閉じていた。レナードと抱き合ったのは、初めてだった。体温を、まだ身体が覚えている。きっと忘れることができないだろう。 (運命でなくて、よかった……)  運命だったら、きっと正気でいられない。  たとえレナードが別の誰かを愛するとしても、捧げる心と同じ強さで愛情を返されないとしても、そんなことなど霞んでしまうほど、好きだと思う。 (悪い夢を見ないように、彼をお護りください……神様)  オデルは、自身が抱く感情の深さに戸惑い、その強さに驚きながら、暗く滲む視界を祈るように遮断した。

ともだちにシェアしよう!