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第14話 忘れないでいて(新版)

 負け犬のように項垂れたオデルは、曽祖父の代に邸の北側に増設された図書室へ向かった。  重い扉を押し開くと、昼日中でも書物を守るために日光の遮られた、薄暗い書棚の間をひとり、奥へと進む。しばらく開かれていない書物が気の毒なほど、暗く細い渡り廊下を経て、希少本のある狭く奥まった空間に入ると、誰も使用しないせいで埃に塗れたひとり掛けのカウチへ歩み寄った。オデルはハンカチで座面の埃を払うと、腰を下ろし、蹲った。 「ごめんなさい……」  家庭教師の先生に叱られたり、上手くいかないことがあると、幼い頃のオデルはここでひとり膝を抱えた。大抵は、丸くなって眠ってしまったところを、探しにきてくれた使用人や乳母に発見され、子供部屋へ運ばれていたが。  今はもう、成人し、あの頃のように途方に暮れることはない。 (……逃げてばかりでは、駄目だ)  ここへくると、オデルの心には火が灯った。  レナードのあんな顔は、見たことがなかった。オデルのために、イアンを詰問したのだ。自己嫌悪と嬉しさが同時にこみ上げ、オデルは両腕で膝をぎゅっと抱きしめた。一時的に価値あるものとして扱われているせいで、物事の本質を見誤りそうになる。レナードに訪れる試練も幸福も不運も成功も、傍にいる時だけでいいから分かち合いたい。望むなら、自分で伝えるべきだと、オデルは濁った視界を拭い、頬をごしごしと擦った。  抱えていた膝をほどき、立ち上がる。  希少本のある部屋を抜け、渡り廊下を戻るうちに、遠くから複数の足音が近づいてきた。オデルが急いで角を曲がったところ、レナードと正面からはち合わせた。 「あ……っ」 「オデル」  レナードのすぐ後ろにイアンもいて、オデルと目が合うと安心させるように頷いた。きっと、レナードとちゃんと話したと、伝えてくれたのだろう。すぐにレナードが視界に入ってきて、切り出された。 「少し、話をしませんか? オデル」  オデルも伴侶の顔を見上げ、覚悟を決め、頷いた。 「ぼくも、話したいと思っていました」  きれいな鳶色の眸。レナードの色だというだけで、心音が少し速くなる。美しく色褪せない双眸が、葛藤を映している。部屋の中央部分に設けられた正方形にくり抜かれたソファへ、レナードに誘われるまま、オデルも腰掛けた。イアンは着席を断ったが、立ち去りはせず、レナードの斜め後ろ辺り、オデルの視界におさまる位置に立った。 「あの、さっきは……」  オデルが言いかけるのを、レナードが片手を上げて止めた。 「まず、謝罪をさせてください。きみを不安にさせたことを。私がきちんと説明しなかったことで、きみの心を結果的に裏切ってしまったことを」 「ち、違います。ぼくが間違ったのです。イアンは、悪くないですし……、ぼくの、想像力が働きすぎて、少し混乱してしまっただけで……あの、その」  レナードとイアンのいる前で「ドレッサージュの君」の名を切り出すことが難しい。オデルはごくりと喉を動かすと「あなたのお相手を勝手に想像して、間違った感情を……」と吐き出した。 「でも、ぼくはレナードの側にいたいです。言い表せないほど感謝しているのも、本当です。邪魔をしたくないし、できる限りの協力を惜しまないと伝えたのは、本心です。ローズブレイド公爵家は……」 「オデル」  レナードは、苛立つ様子でオデルの言葉を遮った。 「それは違います。私が間違ったのです」  そう言うと、やにわにレナードはオデルの前の床に膝を付いた。 「レナー……ッ」 「先ほどは、取り乱して、みっともないところを見せました。感情に任せて、イアンやきみを問い詰めるなんて最低でした。でも、今は違います。私は……きみにきちんと説明をすべきだったのに、合意形成ができていると、ひとりで勝手に勘違いしました。ですから」 「や、やめ……っ、アルファがオメガに跪くなんて……っ」  オデルが制止しようと伸ばした手を、レナードがぎゅっと掴んだ。 「そんなもの、犬にでも食わせておけばいい」 「っ……」 「私は、きみに嘘を付きました。結果的に嘘になってしまったとはいえ、嘘は嘘。謝罪をさせてください、オデル」  あたふたと動揺するオデルの片手を持ち上げたレナードは、片膝を付いたまま、手の甲に触れるだけのくちづけをした。 「ぁ……っの、」  途端に頬が熱くなる。オデルは挙動不審のまま混乱し、声に動揺を滲ませた。 「止めて……くださ、い……っ、レナード……でな、いと、ぼくは……っ」  ほとんど呼吸を止たまま、オデルは握られた片手を強く引き、レナードをどうにか立ち上がらせ、ソファに掛けさせた。  多くを望まない。  仲違いをしない。  苦情も不満も、対立の要因になりそうなものは、なるべく飲み込んできた。長く、レナードと一緒にいたいからだ。だが、オデルは今、肩で息をしながら、レナードが何を言っているのか、まったく理解できなかった。 「オデル」  名前を呼ばれるたびに、心がきゅっと反応する。優しく心地いい響きのレナードの声を、ずっと聴いていたい。オデルは執着を振り切り、レナードへ語りかけた。 「イアンと話したなら、わかったでしょう? ぼくの本性が、醜いオメガだと……」 「……」 「ぼくがどんな風にあなたの意中の人を、疎んじているかも……もう、知っているはずです。そんな風になりたくないのに、あなたが、その方を見つけ出さなければいいと……考えてしまうような人間です。ぼくは……」  言いながら、いっそひと思いに断ち切ってくれた方が、よほど楽かもしれない。 「最低なんです……。イアンに非はありません。ぼくが哀しい顔をしたので、驚かせてしまいましたが、原因は、ぼくの中に」  顔を上げ訴えると、視界の端にイアンがちらりと映る。イアンもレナードも、神妙な表情をしていた。 「レナードを……振り回すような真似をして、反省しています。心から、申し訳ないと思っています。改めるべきところは、努力して直します。だから、もう少しだけ……せめて新婚旅行にだけでも、一緒に行っていただけないでしょうか……?」  オデルが吐き出す間、沈黙を守っていたレナードは、やがて穏やかにぽつりと呟いた。 「……もちろん、延期していた旅行には、近々、いくつもりでいますよ、オデル」  握られた手をほどき、そっとオデルの顔の輪郭をなぞりながら、レナードは首を傾げた。 「しかし、こんな風にされると、何と表現すべきか……きみは私の嗜虐性を煽ります。私がきみに、いけない感情を抱かせてしまったのだと、自惚れてしまいそうです」 「っ……」  覗き込むレナードと視線が合うと、オデルは震えた。レナードの虹彩が、わずかに縦長に変化し、獣のようにオデルを追い込む表情で鋭く見つめられる。それだけで、オデルは被捕食者としての自覚が足りないと、圧倒された気分になってしまう。 「そのとおり、です……、ぼく、は……」  きっと幻滅させた。哀切が込み上げてきて、オデルは無意識に眉を寄せる。 「ぼくは……最悪です。すみませんでした、レナード」 「では」 「?」 「原因を究明しましょう。きみが私を失望させ、幻滅させた理由を。なぜ自分自身を最悪だと思ってしまうに至ったのかを。私よりきみが悪いと言うのなら、きみが最も憂いているのが何であるかを、詳らかにしてみせてください」 「えっ、そ、れは……」 「オメガだから? 男性のオメガは希少だから? アルファを容易く堕とす魔性だから?」 「っそう、です……」 「先ほども言いましたが、オデル。そんなものは犬にでも食わせておけばいい。私にとってはどうでもいい、取るに足らないことです」 「でも」 「はっきりさせておきますが、私はきみをオメガだと認識した上で求婚しましたが、きみを魔性だとか、男性オメガだから不吉だとか、ましてやローズブレイド公爵家をオメガを排出した忌まわしき家系だとか、そんな風に思ったことは一度もありません。婚姻するまで数度、きみと時間を共有したのは、純粋にきみの人となりを知りたかったからで、他意は……あったとしても、好かれたいという邪な気持ち以外、抱いたことはないです。ですから、オデル」 「っ……?」 「怯えないでください。怯えさせているのが私だということは重々承知していますが、お願いです。私はきみを、金で買ったも同然です。でも、きみのことが……好きです」  寝物語に付き合う約束は、初夜の翌日に交わした約束だった。  何を、怖がっているのだろう。オデルだけでなく、レナードも。言葉を尽くすのは、誤解を解きたいと思うからだ。困惑の視線を向けたオデルの視界にふと、イアンが入り、目が合うと苦笑していた。何かとても大きな誤解を、オデルがしているとでもいうように。  一瞬、視線を外し、再びオデルがレナードを見上げると、今度は少し苛立っているように見えた。再び、視界の端に映ったイアンを見ると、レナードがオデルの視線を遮るように身体をずらす。 「何を見ているのでしょうか?」 「え?」 「わかっていて、やっているのですか?」 「え……?」 「いえ……話が逸れました。きみに、大事な話があります。ですから、ちゃんと聞いて欲しくて、独占欲を……すみません」 「いえ、ぼくこそ……良くないとわかっているのに」  自分を蔑むのが貴族としてのおこないに反することは、幼い頃から何度も言われてきた。アルファになると信じていた頃には自制できていたのに、オメガだと判明した途端に、不安と一緒に噴き出してくるこの感情を、持て余してしまうようになった。  レナードは、静かにオデルへ確認した。 「イアンから聞きました。きみが、私の特別な相手に対して酷く嫉妬をしていると」 「はい……事実です」 「私が夜毎にする寝物語の相手に、きみが良くない感情を抱いてしまっていることも、今、きみの口から聞きました」 「はい……っ」  ひとつひとつ罪を暴かれる。オデルがとうとう観念し、頷くと、レナードは同じ調子で次の段階に進んだ。 「この婚姻は、政略婚でした」 「っ」  息を呑んだオデルが奥歯を噛みしめると、その声音を少し緩め、レナードは主張する。 「……が、今は、違う気がします」  眉を寄せ、言葉を重ねるレナードに、オデルは耳が火照ってゆく。家庭教師にだって、こんな詰められ方はしたことがない。だが、オデルが俯く寸前、レナードはそっと言葉を選び、言い継いだ。 「きみが変わりつつあるから言うのではありません。私の望む状況に、希望が出てきたから、嬉しくて、浮かれすぎる自分を制御するために言っているです」  レナードは深呼吸すると、震えるオデルの髪を一房つまんで梳いた。 「きみがしきりに憂いている「ドレッサージュの君」の正体は——きみです。オデル」 「っ……?」  問題が明かされることに思わず目をつぶったオデルは、しばらくレナードが何の話をしたのか、認知できなかった。恐るおそる瞼を開くが、世界が変わってしまうようなことは起こっていない。オデルの様子を見ながら、レナードが続ける。 「もう一度、言いますが……きみが「ドレッサージュの君」なのです。オデル」  レナードの噛んで言い含めるような言葉に、脳内がハレーションを起こしたように段階を経て処理された情報を、やっと汲み取ることができた次の瞬間、オデルはぽかんとした。 「へ……?」 「だからきみは、私の特別なのです。オデル」 「は……? え……?」 「何が起こったのかわからない、と顔に出ていますよ、オデル」 「えっ……え? だ、って……何、で……?」  騙されているのかもしれない。もしくは、自分が聞き間違ったのかもしれない、とオデルは目眩がする中で訝った。レナードは苦笑を湛え、それ以上は何も言わない。視界の端に入っているイアンを見ても、してやったりとでも言いたげな表情だった。 「あ、あの……」 「きみは私を嫌いではない。ということを……事実として受け取っていいのでしょうか?」 「もちろんです……っ、でも……っ」  オデルは混乱を整理しようと額を押さえた。なぜこんなことになっているのか、理解が追いつかない。 「あれがいつだったか、古い日記か備忘録を確認すれば、正確な日付けがわかりますが」 「でも……あの、」 「ん?」 「あなたが探しているのは、アルファでは……?」 「最初は、アルファに限定して探していました。しかし、見つからなかった。そして、違うと思ったのです。風の噂を頼りに聞き回ったせいで「ドレッサージュの君」のことが尾ひれの付いた噂になりましたが、背に腹はかえられませんでした。きみ以外にありえません。特徴が合致しています。白銀の髪に黄金色の瞳……ひとたびまみえれば、見間違いようがありません」 「それは……」 「しかし、そんなことできみが思い悩んでいるとは知らずに、私はきみの心が離れてゆくのを怖れて、どう引き止めるべきかと迷っていました……きみと離れるぐらいなら、無理矢理にでも番ってしまうべきかと、何度、考えたかわかりません」  その瞬間、レナードの眸が光った気がして、オデルは、はっとした。レナードが時折、見せる憂いを孕んだ眼差しの意味が、唐突に理解できた。オデルは後悔に胸がキリキリと痛み、同時に臓腑の底から熱い興奮が湧き出してきた。それが快楽に似た衝動だと自覚する頃には、一陣の風に洗われたように視界が開けた。 「ぁ……」 「……震えていますが」 「ぁ、それ、は……」 「怖いですか……? 私が」 「あ、その……だ、大丈夫、です……」  レナードが、オデルの手を再び取った。少し温かく、乾いていて、オデルよりも大きい。その手を音もなく握られ、再びレナードを見上げると、膝が震えていることに気がつく。 「少しだけ……あの、こうして、いたい、です……」 「私もです、オデル」  オデルの不備や早とちりを、笑うことも責めることもせずに、レナードは傍らにいた。こうして暴かれるのが少し甘い気がして、もう少し、このままでいたいと思ってしまう。 「……もう少し、触れていても?」 「ぁ……は、い……っでも」 「でも?」 「あの、少し、だけ……っ」 「はい。少しだけ、です。……私のオデル」 「っ」  オデルが瞼を伏せる寸前、レナードの目が黄金色に煌めいた気がした。そのまま顔を寄せてきたレナードの声を聞き取るために、オデルが身体ごと傾けると、耳元で囁かれる。 「きみから、いい匂いがします」 「……っん」  レナードはそのままオデルの結婚指輪と重ね付けされている婚約指輪の歪な石に、触れるだけのくちづけを落とした。 「オデル。きみが、好きです」 「っ」 「きみは大きな誤解をしていた。でも、はっきりさせておきますが、その誤解のせいで、きみの価値が毀損されることはありません。私は軽率だった自分を呪いますが、きみにまったく不備があったとは思えません。それどころか、毎晩、きみを傷つけているなどとは考えもせずにあの話をしていただなんて……迂闊すぎて死にたくなります。これからは、曖昧な比喩表現は避け、主語を明確にして話すことにします。ですから……私の謝罪を、受け入れていただけますか?」 「はい、レナード……ぼくこそ、申し訳ありませんでした。早とちりを……、これからは、あの……あっ、あのっ、あの、レナード……ッ」  オデルが謝罪すると、レナードはそのまま耳朶に息を吹きかけてきた。 「どうしてきみは、私に遠慮がちなのでしょうか? たまに私を避けようとしているように見受けられますが、好きな人に拒絶されたら、傷ついて哀しくなるのは、私も同じだとわかっていますか……?」 「っわ、わか……っ」  イアンの視界をまるで意に介さないレナードの強引な愛着に、オデルは瞬く間に頬が火照り出す。赤面したままふらついたオデルへ、レナードが柔らかく肩を貸し、支える。 「あっ……の、レナード……あ、あまり、こう、しな、いで……っ」 「こう? とは……?」  上ずり掠れた声で、ねだるようにレナードに催促されている気がする。  オデルは必死で体勢を立て直そうとしたが、心臓が暴れすぎて、壊れてしまいそうだった。 「あなたは……あ、合い、過ぎて、て……っ、ぼく、は……っ」 「……私に、反応してくれますか……?」 「っ……っ」 「……それは、嬉しい誤算です」  この距離で、この声なら、きっとオデルの耳にしか入らないはずだ。熱のある上ずったレナードの声が、鼓膜へ直接、叩き込まれるのは、それだけでオデルには愉楽を伴う行為だった。経験がなさすぎて、こんな時、どう躱せばいいのかわからない。おたおたするオデルを、レナードは悪戯でもする少年にしては、淫靡な視線で見つめている。 「ああもう、いい加減にしてやれよ、レナード……!」 「……何だ、いいところなのに」 「何だじゃないだろ……。きみ、おれにまで嫉妬するのに、なぜそんな無茶をするんだ。オデルの様子がわからないわけでもあるまい? このままだと……発情するぞ。オデルも何か言ってやってください。この無茶苦茶野郎に」 「……だって、オデルが私と別れるようなことを言うから」 「駄々っ子か。ったく……」 「だって……」 「だってじゃないだろ」  叱られた子どもみたいに拗ねるレナードと、呆れた顔で上から注意するイアンに、最初はぽかんとしていたオデルも、笑みをこぼしてしまう。 「……すみませんでした、オデル」 「いえ……っ、決してレナードを責めることなんて」  好意を隠そうともしないレナードの視線に、オデルはくすぐったくなり俯いた。レナードはそれを責めるどころか、子猫を見るような表情で威嚇する。 「オデル……こんな単純なことで、我々はずっと、ぎくしゃくしていました」 「……はい」 「でも、理由がわかれば、どうということのないことでした。それに、イアンにも聞きましたが……きみは存外、とても可愛い悩み方をするのですね?」 「っ」  今度こそ、まるで獲物をいたぶる獣のような視線でレナードは笑った。オデルはむずむずするのを堪え、レナードにいたぶられるのを受け入れる努力をすべきかもしれないと思った。 「イ、イアンにも、申し訳ないことを……っ」  内心の動揺をどうにか堪えるために、心のなかで謝りながら、イアンに感謝した。 「確かに。でも、最初に私に言って欲しかったです。彼は部外者なのですからね?」 「おい、きみ、酷い奴だな、レナード……! おれを何だって?」  混ぜっ返したイアンも、レナードも、もう通常と変わらない態度になっていた。 「ったく……おれは帰るぞ? レナードの奴が大人気ないので、見送りは不要です、オデル」  ぶつくさ言いながら踵を返したイアンに、オデルが慌てて立ち上がろうとしたが、レナードの上がそれを阻んだ。 「イアン……! ありがとうございました……っ」 「彼ならひとりで帰れます。オデル」 「でも」 「いいんですよ、オデル。きみも、レナードも、おれの大事な友人だ。どうせレナードの見切り発車が原因だったんですから。でもまあ、愛情が深い証拠でしょう。……良かったな? レナード」  扉の前で振り返ったイアンは、にやけた顔でいつもの調子でレナードを揶揄した。さすがに悪いと自覚したのか、レナードがしおらしくなる。 「悪かった、イアン」 「まったくだ。世話の焼けることだよ。次はロイヤル・アスコットで会おう」  甘い雰囲気にこれ以上あてられまいとしてか、イアンは言い置くと、扉を開いた。見送りに立とうとするオデルと、それを引き止めたレナードへ、イアンはさっと片手を振り、颯爽と出ていった。 「彼なら、ひとりで大丈夫です。来週は、ロイヤル・アスコットですよ。オデル」  柔らかなレナードの声が言う。貴族の社交の場だ。その声が少し弾んでいることを意識した途端、オデルはふわっと気持ちが浮き立った。 「ロイヤル・アスコット……」  慌ただしくなるのは目に見えているし、準備が間に合うかどうかもわからない。しかし、レナードが采配すれば、きっと間に合うと信じられた。  女王陛下の御前でおこなわれるレースを楽しみにしていた昔を、オデルは思い出していた。第二性別がオメガだと判明してからは、アルファばかりで混み合う場所は遠慮することが多くなっていたが、まだ弟たちが生まれる前、幼かったオデルは、父と母に手を引かれ、地面を蹴る馬の蹄の音に胸を踊らせたものだった。 「今年はふたりでいきましょう、オデル」 「いいのですか?」 「もちろん。きみは馬が好きでしょう?」  レナードは、言うと、オデルを覗き込みながら、その手の甲にくちづけを落とした。  オデルは急に恥ずかしくなり、おどおどと視線を泳がせたが、レナードが揺らぐことは、もうなかった。

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