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第15話 未来をつなぐ過去(新版)

「さ、そろそろ戻りましょう。使用人たちが気を揉むといけません」 「あの……っ、レナード。その前に、訊きたいことが」  図書室の正方形のソファから立ち上がったレナードを、オデルは引き止めた。オデルの手を取るレナードから、いい匂いがする。危険な兆候だった。前後不覚になってしまう前に、確かめておかなければならなかった。 「その、レナードは、ぼくが「例の彼」だと言いましたが……ぼくには、それらしい記憶がありません。……すみません」  アルファは体面を気にする者が多い。レナードが該当するかはわからないし、イアンを信用しないわけではなかったが、無用な噂の種を蒔くわけにはゆかず、ふたりきりになるまでオデルは黙っていた。  記憶など、些細なことだ。繋ぎ止めたいと、気持ちが揺れる。が、レナードが余分な不利益を被らないようにするには、必要だった。 「ああ……私の第二性別が判明したのは、十二歳になる半年前でしたから。周囲より少し早熟だったのです。きみが覚えていなくても、驚きません」 「でも……」  七歳差、ということは、オデルが四歳の頃に出会っているはずだ。その頃の記憶はおぼろげで、レナードらしきアルファに出会ったことは覚えていない。 「オデル」  レナードは、握っていたオデルの手を離した。これ以上、触れていると、互いに影響を与え合いすぎてしまうと思ったのだろう。本当なら、夜まで過接触は避けるべきだった。 「自分を責める必要はありません。きみが覚えていなくとも、私は確かにきみと出会った。あれは私の過去で最も美しい瞬間でした」  レナードの気遣いに感謝する一方で、オデルは失った温もりが恋しくなる。静かな興奮に、ふわっと身体が熱くなった。今、発情したら、きっと理性を凌駕し、レナードに迷惑をかける。 「私が「ドレッサージュの君」の正体を正確に知ったのは、叙勲の少し前のことなのです。女王陛下とお会いした時に、かつてきみが、陛下を実の祖母のように慕っていたと伺いました」 「陛下が?」 「ええ。しかも、恥ずかしいことに、彼女は当時の私の失敗を鮮明に覚えていらっしゃいました。陛下の御前で不敬な振る舞いを働いたことまで記憶されていて、二十年以上、昔の失敗を指摘された時は、冷や汗が出ました。それで、きみがどこの誰であるか、正確にわかったのです」  レナードが叙勲前に女王と話したのなら、オデルに突然、婚姻の話が持ち込まれたのも頷ける。容姿が独特のオデルは、欠席続きの社交界では不吉だと噂されていたし、あたりを付けることは容易かっただろう。しかし、公爵家の嫡子に、アルファといえど、一介の実業家に過ぎないレナードが気軽に声を掛けられるはずもない。女王のお墨付きをもらったことで、やっと行動に移せたのだろう。いずれにせよ、ローズブレイド公爵家にまつわるすべてが競売にかけられ、散逸する期限まで一週間を切っていたオデルの前にレナードが現れなければ、財産だけでなく、オデル自身もどこかへ身売りを余儀なくされていただろう。 「幼かった我々は、陛下の目を盗み、少し話をしたのです。きみが初めて宮城の馬場に出るのだと、私はその日、知りました。酷く緊張した様子でしたから、覚えていなくて当然です」  レナードは微笑し、再びオデルの横へ腰掛けた。 「私がこっそり話を振ると、きみは陛下を心より敬愛申し上げていると言いました。誇らしさと未熟さを自覚し、恥ずかしくなる時もある、と。飾らず、奢らず、年端もいかない一介の調教師の息子の私に、本心を打ち明けてくれた。きみはただ、素直に振る舞っただけかもしれません。でも、私より遥かに成熟し、凛としていました。初めて出会った高位の貴族がきみだったことは、私を根底から変えました。きみから、世界の見方を教わったのです。それからは折に触れて、その日を思い出しました。でも、自分が恋に落ちていることに気づいたのは、不覚にも大人になり、陛下と直にお会いした時でした」  レナードの言葉を聞いても、そういえばそんなことがあったような気がする、としか思えないのが、オデルは悔しかった。うろ覚えだが、父に連れられ、幾度か女王の乗馬に随行したことがある。しかし、そういった機会は非常に稀で、レナードの言うとおり、緊張と不安で、目の前のことに集中することに精一杯だった。  重ねて、本当にオデルがレナードの相手だとしても、ちゃんとレナードに相応しい人物になれるのか、訝しんだ。雨上がりの朝に、ローズブレイド公爵邸へ訪ねてきたレナードを、オデルは思い出す。あの日よりずっと前から、レナードには数え切れないほど不誠実な態度を取ってきた。  眉を寄せるオデルへ向けられる、レナードの視線は柔らかい。 「きみが不安がるのも無理からぬことです。この婚姻には、陛下の内々の御意志もありましたし……。私としても、どうしてもきみと結ばれたくて、勇み足になってしまっていましたし」 「えっ……?」  驚いたオデルが顔を上げると、レナードはばつの悪い表情で頬を掻いた。 「ローズブレイド公爵家を、どうにか救える手はないか、と……代わりに、与えうるものは何でも与えるという条件で、提案されました。心に決めた人がいた私は、陛下の提案を、一度はお断りしたのです。しかし、粘り強く説得され、あの時のことを持ち出されて、きみが運命の人だとわかりました。それで、私は爵位を手に入れ、きみに求婚を。あとは、知ってのとおりです。でも……あの一瞬をくれたきみに、ずっとお礼が言いたかった。ありがとう、オデル。私の運命になってくれて」 「ぼく、こそ……ぼくの方こそ、お礼を……」  恋を自覚する前、オデルはレナードとの婚姻を、仕方のないことだと割り切ろうとした。「ドレッサージュの君」の噂に動揺し、期待しながら何も選ぼうとしなかったことを省みた。失望され、嫌われるのが怖かったのは、レナードの興味がただの義務になることを怖れたからだ。救いの手を差し伸べられたオデルは、その手を取りながら、心のどこかで、運命を受け入れることを拒んでいた。 「あなたに、酷いことを……、ぼくは、愚かでした、レナード……」  憐れみを向けられ、利用されたくないと意地になっていた。男性オメガに価値などないと考えていた。なのに、ともに過ごすうちに、レナードの存在が特別になった。矛盾する感情に呑まれたオデルは、自分を保つためにどこかで線引きをするしかなかった。 「あなたを我慢することが、こんなにつらいだなんて」  オデルが打ち明けると、レナードは、鳥の囀りに耳を傾けるかのように聞き、呟いた。 「いつかきみと、心のすべてを共有できたら、と夢見ています」 「レナード……」 「オデルは私の運命です。きみを愛しています」  名前を呼ばれるたびに、ぎゅっと心臓が震える。 「あなたに……従います、レナード。ぼくを、好きにしてください」  不実なオデルの態度の端々から、レナードもまた、不安を感じていたのだ。切なげに目を細めたレナードは、不意にオデルを引き寄せると、こつん、と額をオデルの額へくっつけた。 「これ以上は、しません。今は、まだ……」  艶やかで甘いレナードの声が、オデルを柔らかく崩してゆく。 「今日、きみは、触れたことのない場所を私に許してくれました」 「はい……」 「素晴らしいことです」  視線を合わせるたびに、甘い疼きがオデルを侵食する。嫌だと思わないのが、不思議だった。愛されている実感は、レナードが繰り返し口にするたびに、心地よくオデルへ浸潤していった。 「きみの変化を、ひとつも見逃したくありません」 「……ぼく、も……です」  目を閉じ、放たれた言葉をひとつたりとも聞き逃すまいとするオデルの両手を、レナードは力を込めて握り返した。

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