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第16話 ロイヤル・アスコット(新版)

 帝国国民なら誰もが沸き立つ、ロイヤル・アスコットの季節がきた。  貧富も身分も問わず、皆が賭け事に夢中になる初夏、初日にグランド・ワンのレースが開催される。レナードに伴われたオデルも礼装姿で、先ほど特別貴賓席でイアンに会った。イアンは先日の出来事など忘れてしまった様子で、ひとしきりオデルを褒めると、いつもの調子でレナードを揶揄い、早々にシャンパンを取りにいってしまった。 「オデル。そろそろ、プレ・パレード・リングを見に行きましょう。今年はどの馬が勝つと思いますか?」  出走馬が二十五分前にお披露目されるプレ・パレード・リングへ、レナードがオデルを誘った。プレ・パレード・リングで披露された馬は、出走十五分前になるとパレード・リングへ移され、レースに出ることになる。グランド・ワンと呼ばれるステークスに賭けるなら、出走前の様子は必見だった。 「何番に賭けますか?」  ねだるような声で囁かれ、オデルは浮き立ってしまう。あれから、レナードとの間にあった空気が少し緩和し、柔らかくなった。相変わらず眠る時は同じベッドへ横になり、手を繋ぐが、レナードはそれ以上の行為を強いない。たまに手の甲にキスをされるおまけが付くぐらいで、アルファの権利を行使することもなく、親愛と呼ぶには濃すぎる情愛を示すものの、オデルがおっかなびっくり応じようと葛藤するのを、楽しげに待っている様子だった。 「配当が高いのは、三連単ですね」  レナードの楽しげな声に、オデルもつい真剣に応じてしまう。 「ぼくは単勝を狙いたいです。一番か、三番」 「潔い賭け方をしますね」 「レナード、三番はどうですか? 額に流星のある、左前足に白い靴下を履いている……愛嬌がありますし、いい馬だとひと目でわかります」  後ろ脚を歩くたびにひょい、ひょい、と跳ね上げる仕草が、他の馬より気合が乗っている証のような気がする。引き馬係の誘導にも素直に従うところが好感触で、図抜けているわけではないが、落ち着いて見えた。もっとも、五頭とも選りすぐりの良馬だから、レースの予想は難しい。  ざっと出走馬を観察したレナードが、オデルの隣りで頷いた。 「一番はシルヴィッド卿の馬ですね。毛艶もいいし、仕上がりも悪くない。でも、三番を選んだきみは、目が高いと言わざるをえません」 「元調教師の勘……ですか?」  そっと尋ねると、レナードは首を横に振った。 「それもありますが、どちらかというと親の欲目に近いです。三番はレフティソックスと言って、イアンと私の会社が所有する厩舎の馬ですから」 「えっ」  言われてみれば、先ほどから、主催側の人々に、レナードは時折、意味ありげな視線を投げかけられていた。そのたびに、帽子を持ち上げ、挨拶を返していたので、てっきりオメガのオデルを連れているのが珍しく、そのせいだとばかり思っていた。  顔を上げると、レナードの視線を真正面から受けてしまう。いけないと思い、目を泳がせるオデルへ、レナードは興味深げな眼差しを送る。 「八百長などする必要がないほど、いい仕上がりですよ。うちのレフティソックスは。元調教師として雑に予想しますと……そうですね、騎手も一流揃いですし、六十五フィート以上の高低差があるコースですから、きみが言うように、緊張しすぎていないわりに、気合の乗ったレフティソックスが、いいと思います」  出走馬表をオデルに預けたレナードは、あえて周囲を憚るかのように耳打ちした。 「我々は三番に賭けましょう。馬券を買ってきます。ここにいてください」 「っ……わかりました」  オデルはレナードが雑踏へ紛れてしまうのを見送り、まだそれほど混雑していないプレ・パレード・リングを見渡した。礼装姿の紳士淑女が、抜け目なく出走馬の値踏みをしている。今日はしっかり抑制剤が効いているらしく、誰もオデルを気にしない様子で、ふと肩の力が抜けた。  第二性別がオメガと判明して以降、アルファが集う場所を避けてきたオデルにとって、レナードと参加できる今年のロイヤル・アスコットは、いい機会だった。伴侶の存在を印象付け、噂を上書きするのに、またとない時だ。  人の流れに逆らわずにいるうちに、オデルはいつしか、柵のある一番手前まで押し出されてしまった。次第に先ほどの比ではない混み方で、雑踏の間から、背後から肩に触れる指に気づいたオデルは、レナードだと思い、無防備に振り返った。 「レナー……ッ」 「オデル様」  しかし、視界にいるのが、かつての恋人、バレット・アシュリーであることを悟ると、オデルは息を呑んだ。黒いお仕着せを纏い、小さく頷いたバレットへ、迂闊にも「なぜここに」という顔をしたのだろう。バレットは結んでいた唇の端を歪に曲げた。 「意外ですか? 今年から、ロイヤル・アスコットは庶民にも開かれた場所として、生まれ変わったのですよ。ジェントリと認められた者は、アルファに限らず通行証を発行してもらえるようになったのです。金の力は偉大だ」  バレットはステッキの柄で帽子の鍔を押し上げ、オデルへ視線を向けた。 「バレッ……ト」 「お久しぶりです。しばらく商会を留守にしていました。資金繰りに追われて……。でも、今日を境に巻き返せそうです」  バレットは少し痩せたように見えた。オデルは狼狽を飲み込み、立派になったバレットへ、無難な言葉をかけることしかできなかった。 「あれから、どうしているかと。……元気そうで、何よりです」 「オデル様も、お幸せそうで何よりです」 「……っ」  皮肉を込めたわけではないとわかっていても、オデルの胸は痛んだ。だが、ジェントリとしてここにいるのなら、バレットを尊敬すべきだった。ベータであるにもかかわらず、才気煥発で有能なバレットは、未来を自ら選別し、推進する力がある。オデルとは正反対の気質を持つ幼馴染は、しかし、オデルにどこか判然としない違和感を与えた。 「婚姻式に欠席してしまい、申し訳ありませんでした。あなたをさらう勇気が、ベータの俺にはなかった。少し、後悔しています……オデル様」  陰ったバレットの表情に、オデルは苦しくなる。バレットとの交際を絶ったのはオデルの方だが、婚姻式で異議を唱えてくれたなら、すべてを棄てて違う人生を生きるという夢を、まったく想像しえなかったかと心に問えば、嘘になる。 「もう、終わったことですから……。謝らないでください。きみも、元気そうで……」  バレットは、さっと周囲に視線を走らせると、距離を取ろうとするオデルに、屈み込んで耳打ちをした。 「うなじを噛ませていないのですか?」 「っ……!」  ぱっ、と首の後ろをに手をやり、オデルが一歩、飛び退くと、バレットは苛立ちを滲ませた。伸ばした後れ毛はオデルのうなじを覆い隠しているが、風が強く吹いたり、深く俯くと、処女地を晒すことになる。 「遠目にもあなただと、すぐにわかりました。先ほどまで一緒におられたのが、レナード卿ですね? 帝国随一の金回りというのは誇張ではないようだ。ご紹介いただきたい気持ちでしたが、やめておきます。噂の真偽を確かめるつもりでしたが、その必要はなさそうだ。……これではまるで」 「噂?」 「失礼……あなたに聞かせていい話ではありません。しかし、新生ローズブレイド公爵のおかげで、昨今の社交界は火が消えたようですよ。それに、周りをご覧なさい。あなたは目立ち過ぎる」  バレットの言葉にオデルが周りを見渡すと、それまで無関心に近かったはずの群衆の誰もが、オデルから視線を逸らすのが窺えた。ひとりになったオデルをどう扱うべきか、所有者を探す視線が、責任の所在を問うていた。レナードの不在がオデルにとっても周りにとっても脅威になりうると、口を噤んだまま、誰もが雄弁だった。 「ありがとう、バレット。ぼくが不注意でした。レナードを探してきま……」 「駄目です、下手に動かない方がいい」  圧を感じ、この場を立ち去ろうとしたオデルを、バレットの手が強く引き止めた。 「抑制剤なら、ちゃんと効いています。少なくとも俺には」 「でも……」  バレットは、アルファの群れの中にひとりでいるオデルを見かねて、緩衝材になるべく声を掛けてくれたのだ。困った人が誰であろうと、差し伸べる手を厭わない。そういうところに恋をしたのだと、オデルは思い出した。袖にした過去へ引き戻されそうになるのを、堪えていると、バレットが、ふと苦笑した。 「俺はベータで、平民ですよ。あなたは優しすぎる、オデル様。あなたが、誰かのものになったのなら、俺の出る幕はないと思っていましたが……」  何か考え込む表情で、不意にバレットが沈黙した。落とした視線に揺らめく光が鋭さを包含している。オデルはどこか不安を覚え、少し前の話を切り出した。 「きみに……手紙を出しました。しばらく前のことですが。受け取っていただけましたか?」 「手紙? ……すみません。私書箱から転送されたものは、おそらく今、商会の郵便箱に眠っています。出社したら、すぐに確認しましょう」 「いえ、きみの手を煩わせるほどの内容では、ないので……」  オデルは落ち着かない気持ちで、レナードを探した。仮に何かが起きた時、バレットを盾にしたくなかった。バレットが手紙を読んでいないことが引っかかったのは、きっとオデルに執着しなくなったバレットへの、未練だろう。これは棄てるべきものだ、と内心、言い聞かせるオデルへ、バレットは揶揄する言葉を投げる。 「……その様子じゃ、レナード卿が苦労されているのでしょうね? お気の毒だ」 「否定はしません」 「ははっ」  軽く息を吐いたバレットが笑った。一切の期待を持たせず、昔の恋人に報いるには、どうすればいいのだろう。バレットが何を望んでいるのか、今のオデルには見当がつかない。少し、眼差しに影が見えて、小さな緊張が生まれる。オデルは手紙の内容を、口頭で伝えようと切り出した。 「アシュリー卿……きみには感謝しています。今のぼくがいるのは、きみの……」  言いかけた言葉を遮り、バレットが言葉を発した。 「なら、俺に出資しませんか? オデル様」 「へっ?」  突飛な提案に目を瞠るオデルへ、バレットは少し大きな声で当てこすった。 「資金がショートしないよう、走り回っているのですが、アルファの連中はどうにも階級意識が強くて保守的過ぎるきらいがある。俺の事業に金を出したがらない、厄介な奴らですよ。うちは今、内情が火の車でね。その指輪でひと財産、できませんか? とびきり高価な代物でしょう?」 「っこれは、駄目です……っ」  後ずさったオデルが左手を庇うと、バレットは皮肉げに苦笑した。 「冗談ですよ……。ま、金が用意できなきゃ、テムズ川に身投げするしかなくなりますが。俺の遺体が浮かんだら、身元の確認をお願いします。頼めるのはあなたぐらいなのです、オデル様」 「そ、んな……」  時勢に疎いオデルより、バレットの方が先読みをする力がある。そのバレットが切羽詰まった表情でオデルに弱みを見せている。本当にギリギリの戦いをしていることを、物語っていた。ショックを受けたオデルへ、自身の現状を告げると、バレットはさっと踵を返した。 「気が変わったら、連絡を。電話帳でアシュリー商会と引けば、出てきます。……お健やかで。投資の話なら、歓迎しますよ」 「バレッ……」  瞬く間に群衆に紛れてしまったバレットは、それきり、一度もオデルをふり返らなかった。 (バレットが……)  オデルは肩を落とし、虚しさが込み上げるまま、いつの間にか空になったプレ・パレード・リングを眺めた。いったい、なぜ無力なのか、と、レナードのことを想いながら、オデルは震えた。窮地にあるらしきかつての恋人を追いかけることも引き止めることもできずに、出馬表を握りしめたオデルは、そこから動かずいることしかできなかった。  やがて、人混みが緩和され、流れが変わりかけた時、レナードの声がした。 「ああ、オデル……! 迷子になってしまうところでした。見つかって良かった」 「レナード……」  あからさまに安堵が顔に出てしまい、オデルがレナードの袖を引くと、鳶色の眸が好奇心を露わにした。 「どうしましたか? 怖い思いでも?」 「いえ……でも、心細かったです」  思わず口走ると、レナードは柔らかな口調でオデルを宥めた。 「馬券は買いました。単勝、三番。せっかくですから、特別貴賓席でレースを観ましょう」 「はい、レナード」  オデルの背中を、手袋に包まれたレナードの手が、そっと促す。もうこの触れ方を、知っている、と思うと、オデルはなぜか泣きそうになった。  バレットのことを話をすべきか迷い、結局、オデルは沈黙を守った。打ち明ける勇気より、傷つける不安が勝ってしまう。バレットがただならぬ問題を抱えていることも、オデルの決断を後押しした。婚前、幾度も拒んだレナードの温かさがを、オデルは選んだのだ。罪の意識から、レナードに打ち明けられないのではない、と遅れて悟る。 (捨てたんじゃない。ぼくが……捨てられたんだ)  手紙が行き違いになることは、今まで一度も起こりえなかった。バレットの心の中から、オデルが消えつつあるのだ。オデルの心の中から、バレットが薄れつつあるように。 (……子どものような、恋だった)  心の一部にできた空虚さを埋めようと、オデルは深呼吸した。  もどかしさの中、初恋が終わったことを、今、やっと理解することができた。

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