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第17話 フレイムトラスト社(新版)

 イアンに電話したその足で、フレイムトラスト社を訪れたオデルが受け付けで名乗ると、すぐに奥へと通された。  きちんとした教育のおかげか、対応が早い。が、新聞社が特ダネにしている張本人が、わざわざ噂の本拠地を訪れることへの好奇の視線までは、遮断できない。しかも、オデルの訪問は先週に引き続き、二度目だ。  案内された二階の編纂室でしばらく待っていると、編集作業室と書かれたプレートのある扉を開けたイアンが、インクの匂いをさせながら出てきた。 「オデル。歓迎しますよ。ゆっくりしていってください」  イアンは先週と同じ明るい顔で、上半分が硝子窓になっている「編集長室」と記された別の扉を開け、オデルを中へ誘った。扉を閉めてしまっても、中に誰がいるかわかるが、声は漏れないようだった。 「ありがとうございます、イアン。締め切り前だと聞きました。忙しいのでしょう?」  緊張した面持ちでオデルが切り出すと、イアンは肩を竦めた。 「やれやれ、サボろうとしているのがバレた。他の社員には内密にお願いします」  明るい声で、オデルを気遣ってくれるイアンの冗談に、オデルは難しい依頼をしたことを、心の中で詫びながら、促した。 「例の件、どうでしたでしょうか?」 「……まずは、これを。こいつは、相当まずいことになっていますよ」  イアンも単刀直入に、一番上の右側の抽斗の鍵を開け、数枚の紙の入った大判の封筒をオデルへと差し出した。中の調査報告書には、アシュリー商会の内情が赤裸々に記されていた。 「結論から言うと、自力で立て直すのは難しいでしょう。よほど大口からの融資があれば別ですが……この手の話は珍しくありません。皆、少しの工夫が足りないのです」 「そうですか……」  覚悟していたことだったが、ざっと目を通すと、想像以上に厳しい状態だった。 「代表者のバレット・アシュリーですが、ロイヤル・アスコットにもきていたようです。貴族らを中心に、かなりしつこく商談を持ちかけた話が、爵位持ちの間で噂になっています。おれが知るだけでも、餌食になった貴族が五人。悪いことは言いません。投資なら、別口を当たるべきです」  イアンの言葉なら、信用できる。オデルは暗澹となり、唇を噛んだ。ロイヤル・アスコットから十日後のことだった。レナードには、フレイムトラスト社に寄るとは言わずに出てきた。悩んだ末、イアンに、密かにアシュリー商会についての調査を依頼し、現状を把握するだけだと言い訳をして行動したのは、ロイヤル・アスコットが無事に終わってからすぐのことだ。  芳しい茶葉の香りが、イアンの淹れてくれた紅茶のカップから立ちのぼる。こうしている間も、アシュリー商会の借金が嵩んでいっていると考えると、寒気がした。過去、オメガとして生きるのが難しく、寂しさと挫折感に落ち込みがちだったオデルが立ち直る機会を持てたのは、バレットが傍にいてくれたからだ。ベータでありながら高い理想を描き、挑戦することで誰も成しえなかった道を切り開いてゆくバレットを、このまま見捨てるべきか、オデルは悩んでいた。  イアンの言うとおり、知らぬふりを通すのが、きっと正しい道なのだろう。正直、バレットへの情もある。未練と表現すべきか微妙だが、借金取りの怖さを、オデルもまた身を以て知っていた。バレットに同じ轍を踏んで欲しくないのは、身分差はあれど、幼い頃から友誼を結んできたからだ。恋が終わったこととは関係ないと主張しても、信じてはくれないだろう。だから、オデルはそれを勘案し、ひとつの決断をした。 「お願いがあります、イアン」  愚かな行動だと、誰もが言うに決まっている。 「この指輪を担保に……お金を借りられないでしょうか?」 「……」  オデルは沈黙するイアンの机の上に、婚約指輪を静かに置いた。 「理由は言えません」  イアンは反対するだろう。レナードにも話せない。だが、あの日、助けを求めてきたバレットを見殺しにする真似が、正しいとオデルには思えなかった。保身のためなら、放っておくのが正しい。手切れ金だと解釈されるかもしれない。オデルが与える金が、バレットの矜持を傷つけるほどの大金だったとしても、命はひとつしかない。延命の手段があるのに、使わない選択をすることは、果たして人として正しいのか。 (……正しく、ない)  オデルは揺れながら、そう結論づけた。 「それ、レナードにもらったものでしょう……?」 「はい」 「ふむ……」  部屋の空気が重たく沈む。休みなく動き続ける輪転機の音と、どこからか響いてくるタイピング音が鼓膜を叩き続ける。やがてイアンは深く深呼吸すると、動かないオデルに向けて頷いた。 「わかりました。小切手でいいですね? 幾らぐらい要りますか?」  これでバレットを見殺しにしなくて済む。  指先が震えるのを疎んじ、オデルは指輪を置いた手を引っ込めると、おずおずと答えた。 「イアンなら、この指輪の値段をご存知なのでは、と思うのですが」 「まあ、確かに。レナードの奴に付き添ったので、知らないわけではありませんが……」 「もし可能なら、底値で預かっていただけませんか。お金はなるべく、早く返済します」  婚姻の際に持参金としてレナードから贈られた金は、残らず借金と利息の返済に充ててしまっていた。ローズブレイド公爵家の財産は、レナードが不良債権とともに一旦、引き継ぎ、一本化して、今はそれを消化している最中だ。共同相続という形を取ってはいるが、公爵本人の許可なく、理由も告げずに一部であっても動かすことはできない。だから、指輪の代金の八割をアシュリー商会の運転資金に充て、二割を運用し、イアンへの返済に充てようとオデルは考えていた。だが、オデルの表情に思案顔になったイアンは、こう提案してきた。 「では、指輪の代金とは別に、一万ポンドの小切手も付けます。きみは二枚、二種類の借金を、おれからするということで」 「えっ、そんなには……!」 「返すには、元手がいるでしょう?」  額面に驚いたオデルに、イアンは苦笑した。 「借金の怖さは、きみが一番よく知っているはずです。何に使うかは詮索しませんし、記事にもしませんが、有意義に使ってください。特別に、出世払いにしておきますよ」  言うと、イアンは抽斗をあちこち漁り、見つけ出した小切手に金額とサインを入れた。指輪分と一万ポンドの小切手を二枚、切ると、それぞれを別の封筒に入れ、糊付けしてオデルへ渡す。 「あの、このことは……」 「レナードには内緒、ですね。大丈夫。おれは隠し事と冗談が得意ですから、黙っています」 「恩に着ます、イアン……」  正確な指輪の代金はオデルにはわからなかったが、貴族の屋敷を数年維持できるぐらいの額だろうと察しがついた。これでアシュリー商会の社員らの食い扶持は、当面維持できる。さらに、オデルの手元には、運用できる一万ポンドが残る。 「どんな理由があるかは知りませんが、そんな顔をするのでは、友人として見捨ててはおけません。他言はしません。レナードにも、誰にも。何、いつか借りを返してくれれば、かまいませんよ。おれは懐の深い人間になりたいのでね」  理想めいたものを述べたあと、いつもの調子に戻ったイアンは立ち上がり、オデルを促した。 「さ、急ぐのでしょう? おれもそろそろ仕事に戻らないと、部下にどやされます」 「なんとお礼を申し上げたらいいか……」  礼を尽くそうとするオデルへ、イアンはひらひらと手を振り、一緒に建物の外へ出た。 「寄り道をしてはいけませんよ? きみはレナードの、ただひとりの人なんですから」 「わかりました。本当に、ありがとうございます、イアン」  建物から出てすぐに辻馬車を拾ったイアンに見送られ、馬車の中で、オデルは帰り着くまでの間、ずっとレナードのことを考えていた。

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