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第19話 涙雨(新版)

 邸に帰り着く頃には雨が止み、柔らかな日差しが世界を照らしていた。  青空の下に出したテーブルで立食形式の軽い食事を各々が嗜む中、皆の視線がオデルへ吸い寄せられるのがわかった。オデルは蒼白なまま、紅茶に口を付けた。熱い液体が冷えた身体を温めてくれるはずなのに、震えが止まらない。 「オデル」  ビジネス上のパートナーでもあるイアンとの相談が一段落したレナードが、傍へきた。柔らかな声だった。 「レナード、あの、」 「大丈夫。心配ありません」  オデルが顔を上げると、鳶色の柔和な眸とぶつかった。レナードは、いつもどおり抑制の効いた声で、少し哀しそうに語りかけた。 「何を言われても、きみが傷つくことのないようにします」 「え……?」  何の話をしているのか、よくわからず問い返したオデルへ、レナードは言い切った。 「殺しはしません。約束します。きみの大切だった人だ。命は助けます。必ず」 「っ……」  その瞬間、オデルの中にある激昂が、激しく渦を巻き膨れ上がった。 「レナード、ぼくは……っ」 「絶対に、です」  真摯に宣言され、オデルは何も言えなくなった。レナードはオデルの方へ屈み込むと、そっと頬へ触れるだけのキスをした。 「許してください……きみを、巻き込むつもりはなかったのです。私はきみのこととなると、抑えがが効かなくなってしまう。つらい思いをさせますが……」 「っ違います……!」  怯懦による震えが、気づくと止まっていた。視界が濁り、溢れる寸前でオデルは嗚咽を飲み込み、レナードの乗馬服の袖に縋った。 「生きて……いてください……っ、絶対に。約束です……っ」 「……そうですね」  気づいていないわけではなかった。時折、露わになる寂しそうなレナードの横顔に。何かを窺う視線でオデルを追うのを、意識していないわけではなかった。 (ぼくが……ふらふらしているからだ)  バレットがレナードとぶつかる可能性を、もっと深刻に予知できていたら、上手く立ち回ることができたはずだ。この事態を避けることが、できたかもしれない。少なくとも、オデルが不用意にひとりきりにならなければ、バレットは近くへこなかった公算が大きい。 「あなたに、言わなければならないことが……っ。叱っていただかなくては、ならないことも……っ」  拳銃は、手元が狂う確率が高い。でも剣なら、あるいは……と、レナードは考えたのだ。 「オデル、この件は私が望んだことで、きみに責任はありません。でも、秘密を打ち明けていただけるのであれば……楽しみです」  譲歩を選択したのは、オデルのせいだ。レナードは、少しくたびれた顔をしていたが、微笑むと、オデルの左手を持ち上げ、その甲にくちづけを落とした。薬指に婚約指輪がないことに気づいていないはずはないが、何も言われなかった。 「あなたが負けたら……ぼくは一生、喪服しか着ません」  震える声を絞り出すと、レナードは瞠目した。 「本気です」  レナードの気配りと優しさに、ひりつくような痛みを覚える。オデルは、凄まじく腹を立てていた。自分に対して。レナードに対して。決闘を焚きつけたがる、周囲のアルファらに対して。心がぐちゃぐちゃになったオデルへ、レナードは笑ってみせた。 「戦闘不能になったら、潔く降伏します。きみを未亡人にする気はありませんから」  冗談に紛れさせた本音を、柔らかく言う。その時、オデルはほとんど初めて、自分からレナードに視線を絡め、ねだった。 「少し……屈んでくれませんか、レナード」 「ええ。どうしましたか?」  内緒話を耳打ちをされると思ったレナードが、オデルの方へ斜めに身を屈める。その唇の端へ、オデルは触れるだけのキスをした。一瞬の接触だったが、見ていた者もいるだろう。虚を突かれたレナードが、オデルを見返す。オデルは頬を染め、恥ずかしくなり俯いた。完全に、子どもの癇癪と同じだった。だが、衝動を抑えられなかった後悔も、嫌悪感も、微塵もない。 「きみは、本当に……好きです、オデル」  見下ろされたオデルは勇気を総動員し、再び顔を上げ、レナードに視線を合わせた。レナードの腕が伸びてきて、オデルの後れ毛を指先に絡める。 「……震えています」  くるくると巻き取られ、するりと離される。レナードの指はオデルの頤を持ち上げた。 「私に……何も、言わないのですね……?」  何かを求めているレナードが、何を求めているのかオデルにはわからない。  唇をほどいて零れる弱音を、レナードに見せていいものか、迷いながら音にする。 「怖い、です……でも」  その先の言葉を吸い取るように、ほどかれたオデルの唇に、レナードがくちづけた。触れるだけで吐息が混ざり合い、レナードの舌が一瞬、オデルの上唇を掠めて舐めた。艶かしい熱に侵食されかかったオデルが、ぼうっと瞼を伏せる。情けない顔をしているのが自覚できて、恥ずかしかった。 「どうやら私は、きみが傷つくと、虐めたくなるらしい」  頬を染めたオデルの上唇を、レナードの指先がそっと拭った。 「決闘が終わったら……少し、虐めてあげましょうか?」  揶揄するように言われただけで、臓腑の奥から熱いものが迫り上がってくる。喜悦に似ているが、名前の付かない感情に、オデルはほとんど祈るように頷いた。 「はい……レナード」 「いいのですか? きみを、めちゃくちゃにしてしまうかもしれませんよ……?」 「……いい、です」  困惑と戸惑いを浮かべるレナードへ、オデルはこくんと頷く。 「あなたになら……ぼくは」 (食べられたい)  それ以上は言葉にできなくて、口を噤んでしまう。大切な場所で、大事な時を選んで伝えるべきことだと自覚しているからだ。でも、明日の夜を迎える頃、レナードが無事か、わからない。 「……きみを愛しています」  ずっとここで愛を囁いていたい。オデルが願いを自覚する前に、おもむろにレナードを呼ぶ声がする。答える形で振り返ったレナードが、片手を上げる。 「こっちだ、イアン……!」  それから、再びオデルへ向き直った。 「明日に備えて準備がありますから、今夜は先に眠っていてかまいません。疲れたでしょう。また明日、きみに会えるのが楽しみです」 「ぼくも、です」  オデルが返答すると、レナードは少し口角を上げ、それから踵を返した。  仕事の顔になったレナードを見送ったオデルの視界に、イアンと他数名の貴族らが合流するのが映った。緊急事態を知らない客がいないよう、また、外に秘密が漏れないように、仔細を伝えて回っているようだった。 「大丈夫なのか?」 「問題ない。が、今日中に、やることが山積みだ」 「乗りかかった船だ。手伝ってやるよ。法務大臣にも、念の為、電話を入れておこう」 「助かる、イアン」  会話の一部が漏れ聞こえる中、オデルは、この場から身を引く機会を窺った。レナードたちの邪魔をしないでいることしか、オデルにはできない。人目を憚る形で邸へ逃げ込もうとした時、突然、目の前に影が差して「失礼」と低い声が降ってきた。 「こちらこそ、失礼しました。……ガジャージュ伯爵」  見上げると、堂々たる体格の壮年のアルファが、オデルの前に立ちはだかっていた。 「レナード卿の伴侶にとっては、今日はとんだ日になりましたな」 「まったくです。どうか、オデルと。レナードからお話は伺っています」  もう、間違えない。肚が決まると、不思議と落ち着きがオデルに宿った。白髭のガジャージュは、傍らにあるサンドウィッチを勧めてきた。 「現ローズブレイド公爵は、いい人物ですな。意見の相違があることを差し引いても、わたしの主張を頭ごなしに否定しないところが、気持ちの良い男です。あなたも、なかなか肝の据わったところがあるとお見受けします。オデル」 「あ、ありがとうございます」  先ほどの戯れを見られていたのだろうか。オデルがまだ赤みの残った頬を擦りながら照れると、深いバリトンが問いかけた。 「不安ですか?」 「え?」  単刀直入だった。 「あなたの伴侶が、法を犯して決闘する場に立ち会うことが」 「……不安のない者など、いないと思います」  オデルもまた、率直に話すことにした。ガジャージュはバレットと懇意だが、それを差し引いても、審判役を買ってくれた恩がある。 「警察は、わたしと、その他の有志で抑えます。その点は心配なさらず。命については……こればかりは、予想が付きませんが」 「お力添えいただき、感謝します。ぼくひとりでは、何もできなくて」  そんな力があるのなら、この馬鹿げた決闘をぶち壊してくれないかと願いたかった。だが、気負ったアルファに消極的提案を示しても、臆病風と揶揄されるだけだ。オデルひとりの反対も、オメガの戯言と笑われるばかりか、下手をすればレナードの名誉さえ傷付けかねない。  俯いたオデルが憂鬱な顔を晒すと、ガジャージュは覗き込むようにして続けた。 「野心家の多くは、自信ほどの実力を伴わない例が多いですが、あなたの伴侶はどちらも備えている。失礼を承知で言わせていただけば、男性オメガとの性急な婚姻に、道を違えるのではと心配した時期もあったのです。しかし、彼の様子を見て、あなたがたがどれだけ慕い合っていかを理解できました。観察する者と、される者……両者の認識が変わった。皆があなたを意識するのは、そのせいです」  レナードとの触れ合いを見られていた、と明かされ、オデルは耳が真っ赤になったまま、自棄になった。 「よ、よくわかりませんが……ガジャージュ伯爵、その「ドレッサージュの君」の噂が、貴族間で広まっていると聞きました。どういった内容なのか、ご存知ありませんでしょうか?」  オデルの問いに、白髭を蓄えた口元が、にやりと笑みを作った。 「あなたのことでしょうな」 「え?」 「噂では、社交界の寵児と持て囃された新生ローズブレイド公爵が「ドレッサージュの君」に溺れていると。骨抜きだの、妖しいだの、表現は様々ですが……直に目撃するまで確信が持てませんでしたが……、皆、納得したはずです。あなたと、彼の絆を」 「それは……」  オデルはてっきり、根も葉もない酷い話が出回っているのかと危惧していたが、肝心の「ドレッサージュの君」とオデルが結びつかないまま、レナード側の事実が先行しただけなのだと気付いた。 「ガジャージュ伯爵。ぼくはてっきり……いえ、誤解のないように弁明させてください。「ドレッサージュの君」が、ぼくのことだとレナードに打ち明けられたのは、婚姻したあとなのです。ですから、もしかすると、ぼくと同じ誤解をしている方が、まだいらっしゃるかと……」  バレットや、周囲の貴族ら、今朝のレースに参加していない者たちは、たぶん誤解したままだ。オデルが付け足すと、ガジャージュは大きく頷いた。 「当人の言質を得たわけですから、これからは噂を誤解釈する手合いに出くわしたら、真実を話すよう努めましょう。まあ、その前にウェッダーバーン伯爵あたりが、盛大なキャンペーンでもして、払拭してしまうかもしれませんが」  面白そうにイアンの名を出したガジャージュは、気が済んだのか、笑い声を上げながらオデルの元から去っていった。 (そうか)  オデルは急に、婚約指輪が不在の左手の薬指が恥ずかしくなった。結婚指輪もしているが、よく見れば急ぎのあり合わせ品だとわかる。ちゃんとレナードのものだと主張することぐらいは、オデルにもできるはずだった。  あちこちで、わっと笑い声が起きた。政治や経済の話が活発に交わされ、その輪の中にはレナードとイアンがいる。オデルはこれ以上、噂の種にならないように、その場から離れ、邸へ戻ると、階段を上りながら、膝と、熱を持った唇が震え出すのを自覚する。  非業の死など、誰も望まない。  たとえ勝負に負けても、生きてさえいてくれたら、それでいい。  レナードとした初めてのくちづけは、雨と、涙の温もりがした。

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