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第22話 獣の休息(新版)

「きみは……無茶をしますね? オデル」  北の離れを辞したレナードは、イアンとオデルに寄りかかりながら、不満を口にした。 「情けをかけては、ためにならないと考えたのはわかりますが、きみが、私以外と言葉を交わすのを許容する甲斐性ぐらいは、持っているつもりですよ……?」  少し苦しそうなレナードを安心させようとして、オデルは微笑した。 「いいんです、レナード。でも……ありがとうございます。イアンも、すみませんでした」  散々に振り回してしまったイアンには返し切れない借りができてしまったが、当の本人は軽薄を装い、適当なことを言うばかりだった。 「いえいえ。ま、親友には、もう少しおれの冷え切った肝を、労わっていただきたいものですがね」  そう放言して隣りを見ると、レナードが軽く片眉を上げ、とぼけた。 「私か? イアン」 「きみ以外に誰がいる?」 「ああ……何だか、急に傷が痛み出しました……イテッ」 「ふたりとも」  掛け合いをはじめたレナードとイアンを諌めるつもりが、その前にオデルも笑ってしまう。イアンに軽く突つかれたレナードは大袈裟に痛がったが、わざとだということはオデルもイアンもわかっていた。  一階の、書斎の隣りの客用寝室へ戻ると、イアンは仕事が残っているからと、早々に引き上げていった。オデルはベッドへ横たわったレナードの上掛けを引き上げ、まだ青い顔色を眺めながら鳶色の髪を梳いた。無理をしていないわけじゃない。バレットを見舞った負担から、医師が縫合を済ませた傷のいくつかが、開きかけて、少し血が滲んでいる。オデルは看護師から教わった手順で包帯を巻き直しながら、消耗を露わに目を閉じているレナードへ囁いた。 「レナード……あなたの優しさを、ぼくも、少しはわかるつもりです。最近は、あなたに呼びかけられるたびに、少し嬉しくなります……」  包帯を替え終わったが、去り難くて、つい、できることがないか、探してしまう。 「不安にさせて、ごめんなさい……」  体力も気力も使い果たしたのだろう。横たわるレナードの額に、軽く、くちづけを落とすと、やにわにレナードが瞼を開けた。 「……オデル……?」 「はい、レナード……?」  心音が乱れて、身構えてしまう。緊張と恋情の区別が、ここ最近はつきづらかった。 「……ゆっくり我々の速さで歩こう、などと偽善めいた提案をしたことを、私は少し……後悔しています。きみに不安を抱かせ、周囲を侮っていることにも気づきませんでしたから……」  心細そうな双眸が、オデルを縋るように捉えた。疲労の滲む表情が寂しそうで、オデルはレナードへ向き直った。 「レナードの気持ちが迷惑だったことなんて、一度も。あなたがくれる愛情を、ぼくも、少しは、知っているつもりでいますから……」  最初は、打算だった。  すぐに、美しさに息を呑んだ。  政略婚だと割り切れず、たくさん迷惑をかけてしまったことを、後悔し続けている。でも、この道を通ったから、今があるのだ。後悔したとしても、過去を否定することは、レナードの過去も一緒に否定することだった。 「傷が治ったら言おうと思って、ずっと黙っていたのですが……、ぼくは、レナードが好きです」  オデルが告げると、レナードは眠そうに眉間を寄せ、数度、瞬きした。 「私の願いを、聞いてもらえますか……?」 「何でも」  出会い方が違っていたら、ここまでレナードを知ることができただろうか。過ごす時間が増えていたら、もっと深くレナードを好きになれただろうか。どちらも違う。オデルは、枕元に膝を付いてレナードの言葉を逃すまい、と耳を傾けた。 「傍に、いてください」 「はい」 「できるだけ……たくさん」 「はい、います」 「きみがいずれ、他の誰かと……恋に落ちてしまったとしても」 「……っ」  オデルが息を呑むと、レナードは何も言わなくていい、という表情をした。 「私はきみを、縛ってきました。ですから……」  聖人君子のような言葉を吐くくせに、心細そうに見上げるレナードは、押し寄せる疲労と怯懦を孤独に抱えている。 「もし、別れてしまっても、きみのことを……たくさん、思い出せるように……」 「レナード……」 「きみの記憶で、満足できると、確信、できるまで……で、いい。私、は……」  今、オデルが哀しんでいることを伝えられたら、レナードの心を癒えるだろうか。オデルは祈るように、レナードの手を両手で包んだ。 「もちろん、です。レナード……傍にいます。あなたが……ぼくなどいらないと言うまで、ずっと。あなたが、ぼくに飽きるまでずっと。飽きて、他の誰かと新たな恋に落ちたとしても、ぼくが必要な限りは、あなたの傍に、ずっと、いたいです……」  求めることばかりに気を取られて、与える悦びを忘れていた。今は、何を求められても、奪われたとは思わない。レナードになら、差し出す享楽に、浮かれてしまいそうだった。 「どれほど不自由を強いてしまい、きみを支配するようにしか、好きになれないとしても、私は……」 「どんな可能性があったとしても、ぼくはレナードが諦めるまで、います……。レナードが、ぼくの存在そのものに、油断して、寄りかかって、駄目になってしまったら……その時、きっとぼくは、目的を果たせたと思うから……」  決して起きないとは限らない、わずかな可能性の話だ。馬鹿げた惚気にしか思えなくても、オデルは心の底で誓いを立てる。この伴侶を愛しはじめた道を、畏れずにゆこうと。  婚約指輪と結婚指輪で互いに契約を交わし、うなじを噛んで、社交に揃って出席し、適度な惚気話をして、浮かれた様子で新婚旅行に行き、互いに互いを唯一の運命だと信じ込む。そんな簡単なことが、なぜできなかったのだろう。望まない人生だと看過していたとしても、生きる楽しさが今より少しだけ欠けていると思ってしまっても、そんな機微には気付かぬふりをして、いずれレナードと恋に落ちる瞬間まで、待てばいいのだ。  どうしてそれが、できなかったのだろう。 (……いや、違う)  レナードがうなじを噛もうとしないのは、劣情より不安が先走るからだ。オデルへの束縛を選ぶのは、省みるたびに自分の行いに不安が過ぎるからだ。オデルが、そうであるように、レナードもまた、恋を求めている。 「好きです、レナード」  震える囁きは、果たしてレナードに届き、夢の中であるかのように瞠目される。 「あなたが……、ぼくは、レナードが好きです」 「う……」 「嘘じゃありません。目的もありません。隠し事ばかりで、束縛してしまう、自分を受け入れられずに、悟り切れていない、ちょっと不恰好で、不器用なあなたが、ぼくは好きです……。人は、完璧さに惹かれるわけじゃないんですね……ちょっと、驚きです」  震えるレナードに、痛むところや不快なところがないかを、オデルは確認した。  腕を伸ばしてくるレナードに「眠るまでいますから」と囁く。 「何か……話をしてもいいですか? 神話や、ぼくが主人公の話をしても……?」  きっと、レナードならこうする。オデルは静かに、ゆっくりした速度で、眠りの邪魔をしない言葉を選んだ。 「きみの……話が、いいです」 「そうですね……。では、昔々、あるところに、ひとりのオメガがいた話を……」  手放すどころか、かき集めてもなお足りない。与え続ける愛の在り方を、オデルはその瞬間、少しだけ理解した気がした。 「レナードは……初夜を覚えていますか? あなたは、恥ずかしいからと、オメガの前で我を忘れ、獣になる姿を見せたくないとぼくに仰って、交わることから、遠ざけてくれました。本当は、怖かったのだと見抜かれたかと思ったのです。姿形と声ぐらいしか知らない殿方と……身体を重ね、結ばれることが、ぼくにできるのか、と……。でも、あなたはぼくに、選択肢をくれました。あの時、薬で強引に抱き合っていたら、きっと、こんなには、あなたを、愛せなかったかもしれません……」  つい先日、命のやり取りをしたばかりだ。オデルの静かな囁きに、眠りに落ちてゆくレナードが消耗し、少しの安堵とともに瞼が閉じられるのを、じっと待っていた。容体が悪化したら困るから、せめて話は傷口が塞がってから、と決めていたのに、花がしぼむようにゆっくり呼吸の回数を落とすレナードの額に、オデルはそっと触れるだけのキスを落とした。 「はやく、ぼくを叱ってください……待っています。おやすみなさい……レナード」  人は、誰もが簡単に獣になりうるのだと、レナードとバレットの決闘を目の当たりにし、オデルは痛感した。命懸けで争ったからではない。衆目も、簡単に獣に変貌しうる。  そして、レナードを奪ってしまいたい衝動に駆られるオデルもまた、例外なく獣だった。

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