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第23話 条件(新版)

 二週間が経過した頃から、レナードは急速に回復しはじめた。  だが、治療が継続中であることを理由に、レナードはオデルのいる二階の主寝室を固辞し、一階にある書斎の脇の客用寝室をひとりで使い続けていた。重ねて、最近はオデルと会うのも気が進まない時があるようで、様子を伺いに訪ねても、素っ気ない態度で長居をしないよう促される。大抵は「おやすみ」と言い渡されるが、オデルが粘ろうとすると、眉間に皺を寄せて「すみませんが」と拒絶されるので、話をする機会も減っていた。  さすがにイアンが同情し、打ち合わせが終わると、その日のレナードの様子を伝えてくれるので、オデルはどうにか理性を保っている状態だった。 「オデル。レナードが、会いたがっていますよ」  その日の夕刻、イアンが持ってきた報せに、オデルはぱっと顔を上げた。 「レナードが……? わかりました。訪ねてみます」  少し前に出されたフレイムトラスト社の号外を読んでいたオデルが立ち上がると、イアンは同情に近い眼差しを向けた。 「大丈夫ですか?」 「もちろんです。これぐらい、全然、平気です。……ありがとう、イアン」  レナードが何を怖がっているのか、わかる気がする。オデルはレナードが納得するまで待とう、と決めていた。 「じゃ、おれは失礼しますよ」 「イアン」  急ぐ様子で踵を返したイアンに、オデルは言った。 「ぼくの我が儘を聞いてくれたこと、感謝します。あなたが、最後まで約束を守ってくれたことも……。お金は近く、返済します。今後は……」 「ああ、いいんですよ、オデル」  オデルの言葉に、書類鞄を抱えたイアンは手を振って笑った。 「きみはもう友人だ。言うのを忘れていましたが、金はレナードを問い詰めたら、あっさり返ってきました。まったくあいつは……事後承諾事項が、多すぎる」 「そうでしたか」  ずっと気になっていたことに、レナードはきちんと蹴りを付けてくれていたのだ。オデルは胸を撫で下ろすとともに、少しだけ寂しさを覚えた。 「ま、たまに感謝してもらえれば、おれの良心の呵責も減るってもんです。何しろこちらも事後承諾で、きみらのことを書き立ててしまって、申し訳ないと思っているんです。願わくば、ここは引き分けにしていただけると」 「もちろんです、イアン」  これから校了まで、もうひと働きするのだろう。イアンは「またきます」と挨拶を返し、ローズブレイド公爵邸をあとにした。  イアンが出しているフレイムトラスト社の号外は、ローズブレイド公爵家を舞台にした『架空』の決闘騒ぎを皮切りに、半月が経過しても断続的に、その後の経緯を伝え続けていた。あくまで物語であることを強調したレナードとオデルの恋を描いた記事には、わざと現像を甘くした写真をペンでなぞった画風の絵を載せていたが、それを目にした世論は沸騰に近い反応を示し、新生ローズブレイド公爵の一途な愛を受けるに相応しいオメガはオデルだけだ、という印象を、衆目に抱かせたようだった。  遠乗りついでにレナードとバレットの剣技を見学した貴族たちは、決闘が終わるとあっさり解散し、それぞれの領地へ散っていった。レナードが取りまとめた商談の成果より、世間を席巻している恋物語の本当のところを聞かせて欲しいと催促されることが多いようで、茶会や夜会に引っ張りだこだと挨拶状で嘆いているアルファも多いらしい。勿論、彼らは『架空』の物語を広めているだけだ、という態度を崩さず、面白おかしく勝手に脚色した作り話をしまくるものだから、警察が引っ張ってみても証言が食い違いまくり、辻褄が合わないことだらけで、結局、証拠不十分のまま放免せざるをえないようだった。レナードは彼らの挨拶状を捌きながら、どこにも出かけず、面会もすべて断り、イアンに無理を通して、書類仕事漬けの日々を送っている。  北の離れに逗留していたバレットは、三日前にローズブレイド公爵邸をあとにしていたが、やはり堅く口を閉ざしたままのようだった。  オデルは、バレットが目覚めてすぐの頃、レナードとともに見舞ったきり、幼馴染でもあるバレットとの接触を慎重に避け続けた。顔を合わせることも、言葉も、手紙も、言伝も、視線や、気配すら、二度と交わすことのないように努めた。一片の希望も哀れみも抱かせず、思いつく限りのすべてを切り捨て、何も与えないようにした。たったひとり、レナードを愛することが、レナード以外のすべての者を排することと同義だと、短いが様々なことがあった仮初めの新婚生活に学んでいたからだ。  フレイムトラスト社の中折りの三面には、先日、第二性別と階級制度の現状への問題提起をおこなう些か過激なコラムが、決闘事件で審判役を務めたとされるガジャージュの署名とともに載った。無謀にもアルファに挑み、敗北したベータとして、帝国一有名になってしまったバレットとアシュリー商会への支援を、ガジャージュは伯爵という地位を持つ者として見捨てておけない、として、続けるつもりだと記事の末尾に添えていた。このことから、きっとバレットの命は助かるだろう、という希望的感想をオデルは持った。 「レナード、具合は如何ですか?」 「オデル」  夕食を終えたあと、使用人が仕事を切り上げ、邸が寝静まる頃、オデルは書斎の隣りの客用寝室を訪ねた。着替えるべきか迷ったが、いつ出てゆけと言われても対応できるように、服装はあえて昼間のままにした。  背中にクッションを幾つか当て、ベッドで半身を起こしたレナードは、ナイトウェアの肩にモヘアのガウンを羽織り、オデルが声をかけると、きれいな顔を上げた。致命傷は避けられたとはいえ、傷だらけに相違ない。半月前と比べたら血色も戻ったし、容体も安定しているが、油断はできなかった。 「あなたが、ぼくに会いたがっていると」  イアンの勘違いだと言われかねない不安を押し殺して、オデルはそっと扉を閉めた。手持ち無沙汰のまま、ベッドサイドに慎重に歩み寄る。書類を持ち込んでいるレナードの周囲には、同じサイズのあらゆる紙が、無造作に広げられていた。 「ええ。その前に、これを片付けるのを手伝っていただけますか?」 「もちろんです」  オデルはレナードの指示で、散らかった書類を未決と決済後のものに分類し、決済前のものには赤い付箋を付け、サイドテーブルの上に積む作業を手伝った。その時、テーブルの上にフレイムトラスト社の透かし印が入った歪に膨らんだ封筒がちらりと見えたが、オデルはそれについて、何も言わない選択をした。 「今夜は、調子が良いのですか? あなたに呼ばれて、ぼくは、その、嬉しくて」 「……こちらへ。オデル」 「? はい」  ベッドの上をきれいにすると、イアンが使用したらしいベッドサイドの椅子ではなく、ベッドの上の、レナードのすぐ隣りに座るよう、求められた。添い寝を求められたのかと思い、オデルは逸る気持ちを押し隠し、レナードの横へ身体を滑り込ませた。レナードに近づくと発情抑制剤の効きが鈍るが、多少のリスクよりも、傍にいたかった。 「あの、今日は……っ?」  オデルが傍に座すと、不意にレナードの腕が伸びてきて、オデルを引き寄せた。 「っん……っ」  目の前に鳶色の眸が飛び込んできたと認識した時には、唇を奪われていた。驚いて、ほどいてしまった口内に舌がねじ込まれる。反射的に身体が強張ると同時に、深く結びついた舌が触れ合った。 「あむ……っ、ん……っ」  熱い舌がオデルの上口蓋を撫で、そのまま離れたかと思うと再び絡められる。過激な行為に身体の芯がじわりと潤み、レナードの匂いがオデルの肺を満たすのに数秒もかからなかった。 「ぁ……んっ、レナー……ッ」  頭部を抱えられ、首の後ろを両手が支える形で唇を結ばされる。執拗にねぶるレナードの両腕に縋ることで、オデルはやっと理性を保っていた。濡れた音が響き、身動きするどころか、くにゃりとなってしまう。これ以上されたら、きっとねだってしまうと脳裏で警鐘が鳴り出す寸前、やっと唇が離れていった。 「は……ぁ」  唾液が糸を引くほど、突然のくちづけは甘く、オデルは反応してしまっていることを自覚し、赤面した。伏せられたレナードの鳶色の瞼が開かれた瞬間、自分の欲情した顔が映るのが怖い。奪われることに興奮を覚えるだなんて、告白したくなかった。  唇が離れた瞬間、レナードが囁いた。 「バレット・アシュリーの繊維工場の赤字は補填されます。私が買い支えましたから」 「え……っ?」  耳を疑ったオデルが目を瞠ると、レナードの鳶色の眸が上気したオデルの表情を映す。 「やっと、です。やっと、アシュリー商会に、行き延びる選択をさせることができました」 「ぁ、……っ」  オデルの背中に回されたレナードの指が、うなじの毛を弄ぶように巻き取る。愛撫めいた執拗さと静かな声音の差異に、背中がぞくぞくする。レナードはこんな用意周到なアルファだっただろうか。名残惜しげなバード・キスが、オデルの瞼や眦に散る。 「きみの大切だった人だ。放ってはおけません。それに今、身投げなどされたら、どんなゴシップが生まれるか……。私ひとりならともかく、きみを野次馬連中の好奇の視線に晒すなど、言語道断です」 「でも……っ」  なぜ、という疑問が顔に出てしまったのだろう。レナードは切なげに笑った。 「誤解しないで、オデル。先手を打つのが私のやり方です。数年、業態の改善に努めれば、生き残る見込みは、まだあります。繊維産業はこれからが勝負です。これは波に乗るための投資で、博打ではありません」 「で、でも……」  アシュリー商会の抱える赤字は、ローズブレイド公爵家を救うことで資金力を削ったレナードが、おいそれと気まぐれにどうにかできるような規模のものではないはずだ。イアンの出してくれた調査資料を読んだオデルにも、それはわかっている。しかし、レナードは苦笑を漏らし、オデルのうなじを指先でひと撫でした。 「私怨がないと言えば嘘になりますが、私はそこそこ実利主義者ですから、決めた以上、私情は挟みません。……なるべくは。それに、きみは私に多くのものをくれましたから」 「そんな……っ」  レナードが、地位や名誉や家柄などを指しているのは明らかだったが、それ以上に多くのものをもらったのは、オデルの方だ。レナードの決断を聞き、オデルが抱いた罪悪感を少しでも拭おうとしてか、レナードは続ける。 「それに……アシュリー卿が融資を迫ったのが、きみだけではなかったことも、言い添えておかなければ。ガジャージュ伯爵や他の貴族らにも、かなり強引な手段で出資をせびっていましたよ。事実上、強請りと判断できる証言が、数件……限りなく黒に近い手段を使っていた証拠も押さえてあります」  もっとも、今、それを世間に公表するつもりはありませんが、とレナードは肩を竦めた。誇り高いアルファが、普段、下に見ているベータに強請られ、金を出させられたと知れれば、矜持に関わる。本気でやり合えば、双方ともただでは済まないだろう。どうやってバレットに沈黙を課したのか、オデルはぼんやりとレナードのやり方が見えた気がした。 「法に触れないギリギリの線で綱渡りを繰り返していたようですが、ガジャージュ伯爵とも話をして、アシュリー卿へは、圧力より助太刀を選択する方針を固めました。優秀な男は敵にするより手駒にしておいた方がやりやすいですし、事態が動いた以上、きみには伝えておかなければ……と」 「新聞が言っていた、ガジャージュ伯爵の支援というのは……」 「最初は伯爵を隠れ蓑にして金を出していたのですが、大金すぎて怪しまれてしまいまして、誤魔化すのが大変でした。あそこの経理担当者は、いい仕事をします」  しかし、覚悟の自死を決断した様子だったバレットや、一度は解散の方針を固めたアシュリー商会に前言を撤回させたのなら、ガジャージュとレナードの方も、何らのか条件を呑んだはずだ。痛み分けになるように、交渉を続けていたことすら知らずにいたオデルは、詳細について尋ねるべきか迷った。レナードは、ぴたりとオデルの額に額を付け、覗き込んできた。 「きみの疑問に答えると……みっつ、条件を出されました。まず、この邸を一刻も早く出ていく許しを出すこと。それから、ガジャージュ伯爵家とローズブレイド公爵家が主催する夜会への、出入りの自由を与えること。そして……アシュリー卿が邸から離れた日から数えて十日以内に、私が……きみと、番うこと」 「っ……」  三番目の条件に目眩を覚えるとともに、オデルはレナードを掴んだ両手に、ぎゅっと力を込めた。 「きみを、ふらふら遊ばせておく真似をするな、と言われました。私が、怖気付いていることも、看破されました。我々の速度で進んでゆこうと約束したのに……すみません、オデル」  接するたびに思い詰めた様子のレナードが、何を怖がっているか、理解したつもりでいた。本来、明かすつもりがなかっただろう葛藤を開示したレナードに、オデルは再び恋をしそうになる。 「情けないところを見られたくなくて、きみを遠ざけましたが……どう足掻いても、本能は抑えられません。きみと過ごす時間があり過ぎると、正直、抑制剤の効力が弱まるようで、つらいのです。なのに、彼らときたら、私が「わかった」と言うまで、それはしつこく……私の心の有り様など、お構いなしで、きみのことばかり」  危うくノイローゼになりかけた、と冗談に混ぜて零すレナードが、オデルを抱いていた腕を離した。力の入らなくなったオデルをくたりとベッドの上に寝かせると、腕で支え、覆い被さる。 「そういう理由で、我々は、期限が切られてしまいました。しかも、事後承諾できみに条件を呑んでもらわなければならなくなりました……。もちろん、断ることもできます。でも、私は……」  レナードがオデルの手を取り、ナイトウェアの下肢へと導く。そこが硬く張っていることを知らされたオデルは、思わず唇をほどいた。 「ぁ、……」 「きみが、好きです。ですから……考えてください」 「レナード……」 「私は底が浅いのです。真正面から告白して、きみに振られるのが怖かった。誰かに強いられないと前へ進めない臆病者だと、きみに思われないといいのですが……」  レナードの憂い声が、かすかに震えている。馬上からバレットに手袋を投げつけ、決闘に挑んだ人物とは思えない弱さを、今、オデルへ晒していた。 「し、たい、です……レナード」 「考えてください」 「考えました」  オデルは即答した。完璧な婚姻でもなければ、完璧な伴侶でもない。アルファは完全無欠を求められる傾向にあるが、レナードの頬はオデルと同じ色に染まっている。オメガであるオデルを求めてくれる心が、きっと破れそうな音を立てて脈打っているに違いなかった。オデルは両腕をレナードの背中に回し、そっとその身体を引き寄せた。  抱きしめると、温かかった。 「レナードと、したい、です……」  オデルは再び繰り返した。 「ぼくも、たぶん、同じ気持ちです。ずっと、前から……。あなたと同じ気持ちだとわかって、嬉しいです……好きです、レナード」 「オデル……」  アルファの変貌を目の当たりにしたことがないから、そんなことが言えるのだと、レナードは思い止まろうとするかもしれない。適切な時に、適切な場所で、互いに気持ちが通じ合ったことが確認できて、安全な状態で、ちゃんとした順序を踏みたいと、考えているのかもしれない。恋をする前のオデルなら、きっと、それを最善だと望んだ。こんな、なし崩し的に番いたいと告げられても、すぐには頷けなかっただろう。  でも、ベッドの上でどんな辱めを強いられても、レナードになら許せる。 「ぼくは我が儘だから……どんなに愛情をもらっても、あなたからのものじゃないと、欲しくないんです。ぼくを、抱いて……、めちゃくちゃに、して、かまいません。消えない跡ができても、レナードにもらうものなら、欲しいです。だから……うなじを、ぼくを、あなたのものに……して」  心を晒け出す言葉に唇が熱を持つ。レナードは眉間を寄せ、眸をわずかに揺らしていた。その自制心を突き崩したい、とオデルは祈るように強く思った。 「きみは時々、刺激的すぎて、私の予想の斜め上をいきます……」 「レナードだって、ぼくには、そうです……」 「私が?」  微かに、互いに、震えている。苦しそうな眼差しを向けられ、オデルは恍惚としてしまう。オデルもまた、同じように交わる前の期待に呑まれかけていた。 「ずっと、我慢してくれていたのですよね……? ぼくが、もどかしく諦めていたことも、お見通しだった……」 「私は、千里眼ではありません」  千里眼でないから、不安なのだ。オデルと同じように。嫌われたくないから、本心を隠して、オデルを遠ざけた。その壁が、崩落する。 「ぼくが欲しがって、互いに流されてしまったら、きっと後悔するから……遠慮していのですよね……?」  レナードは無言だった。それが答えだと、オデルはそっと伴侶を引き寄せた。 「ぼくも……たくさん、我慢しました。あなたに、たくさん、我慢させました。だから、今、欲しいです……レナード。ください」 「っ……」  オデルは握られた片手を上へ向け、レナードの指と交差させるように握り返した。互いの状態がはっきりとわかるくらい、繋いだ手が熱かった。 「許されるなら、もう一度、今度は、レナードに……レナードの手で、ぼくを鎖に繋いで欲しいです。この指に、あなたの指で、指輪を嵌めて、あなたのものに、なりたい……です」 「っ」  息を呑む音が色を帯びていた。 「もし、後悔……したとしても、後悔ごと、あなたを好きになればいいだけです」 「オデル……」  レナードは、逡巡の末に「いいのですね?」と尋ねた。同時に手探りで、サイドテーブルの上にある、フレイムトラスト社の透かし印の刻まれた、少し膨らんだ歪な封筒を逆さに引っくり返した。中からは、歪んだ形の石の嵌まった婚約指輪が転がり落ちる。手のひらで受け止め、指先で指輪の輪の部分を軽く摘まむと、空気が変わった。 「ぼくを……叱って、ください。あなたの好きなように、されたい、です」  ずっと待っていた。  待ち焦がれ続けることが、いかに待ち遠しいか、知っている。  レナードがオデルの左手を、静かに持ち上げ、手の甲にくちづけを落とした。 「……きみに傷つけられた傷が、甘くて、今は少し愛しいです」 「っ……ん」  頷いたオデルも、それを理解した。  レナードに触れられた場所が熱を持ち、じんと甘く痺れて、愉楽に似た感覚が、ゆっくり広がってゆく。 「婚約指輪を外したきみを、最初に見た時、きみのおこないに、私はいたく傷つきました。この指輪は、我が家で最も価値のあるもので、私の気持ちのようなものでしたから……。きみが誰かと話すたびに、なぜ相手が私でないのだろう、とも思っていました。きみの視線がよそへ逸れるたびに、誰を想っているのか、不安になりました。ですから……きみがアシュリー卿の凋落を見過ごせなかった気持ちも、少しはわかるのです。私も、きみが堕ちてゆくのを、黙って見過ごせませんでしたから……」  レナードの鳶色の眸に見つめられると鼓動が跳ねる。揺れるランプの炎が反射し、揺蕩うさまが美しい。熱を孕んだ視線を向けられた場所から、火照ってゆく錯覚に陥るほどに。 「きみが……私を視界に捉えるたびに、心の奥が揺さぶられて苦しくなります。恋、というものが、これほどもどかしいとは……」  失う痛みを知っているから、望むのが怖い。  覚えのある感覚に、オデルはふるりと背筋を震わせた。 「きみはひどい」  レナードの失望は、冬の朝、薄氷を割ってしまった時のようにオデルの胸を締め付ける。 「私を、嘘で誤魔化し、裏切るだなんて、とても酷いことをします……でも」  指先に少し込められた力に、オデルは逆らうことなく従った。オデルの左手の薬指に、レナードの指によって婚約指輪が通され、ぴたりと嵌まり重なると、昔からそこにあったかのように懐かしい重さが加わり、深く頷きたくなる。 「きみを愛しています、オデル」 「……捧げます」  火照った頬のまま、オデルは、うっとりとレナードの唇へ、触れるだけのキスをした。そのまま幾度か重ねたあとで、レナードの下唇をちょっと吸うと、名残惜しい想いを抱えたまま、オデルは再びレナードを見上げた。寂しさが滲みそうになる前に、今度はレナードのキスが降ってくる。 「レナードの、ものになります。あなたを愛すると、誓います。生涯、どんな時も……」  囁いた言葉を遮るように、くちづけを深くされる。 「ん、ん……ん、ん……っ」  レナードの右手がオデルの左手をぎゅっと握り、同時に指先がオデルのうなじを探る。 「ぁ……」  確約できる未来など、何もないとわかっている。  それでも、愛しそうに処女地を撫でるレナードの指に帯びた興奮に、うなじが朱に染まってゆくのを感じながら、信じられた。 「望むなら、罰を……きみに、罰を与えましょうか? オデル?」 「ぁっ、レナード……ッ」 「欲しがるなら、私が与えうるすべてをきみに」 「っん、っ……」 「たくさん、叱って……、虐めてあげましょう」  レナードのフェロモンが浸透してゆく。生まれて初めて、オデルはアルファの香りに自覚的に身を任せた。鼻腔から、肌から、甘い香りが肺に、やがて全身に満ちて、じわりと体内を巡り、味わったことのない情動が満ちる。 「あ、いし、て、います……あなたを愛さない日が、一日でもあれば、死んでしまう。もし、あなたがぼくを愛さなくなったら……殺して、捨ててください、レナード……」  互いに指を交差させ、離れられないようにする。 「きみが望むなら……。心変わりをした私を、きみが、殺してくれるのなら……」  柔らかな声音が鼓膜に響くだけで、ぐずぐずになってしまう。オデルは愛する伴侶の魂を受け入れるように、レナードに囁いたかどうか。 「ぼくは、レナードのものです」  だから、声にして、ねだったかどうか。 「レナード、あなたを……ぼくに、ください」

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