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第26話 痕跡をなぞる(*)(新版)

 予期せず水面に顔を出すようにして、オデルは瞼を開けた。 「……?」  視界に入ってきたのはいつもの見慣れた主寝室の天井ではなく、宗教画の描かれた豪奢な客用寝室のそれだった。身体が温かい。いい匂いがして、深く息を吸い込むと同時に、隣りにレナードがいることに気づいた。 「ぁ……」  散々、喘いだせいか、掠れた声がわずかに漏れる。 「オデル……?」  胡乱な瞬きをすると、オデルを横に庇うように抱いたレナードの、窺う声がした。 「レナー……ド」  鳶色の眸の中心にあった黄金色の三日月が、今は消えている。あれほど待ち焦がれた状況のはずなのに、記憶が溢れると同時に経緯をを思い出したが、なぜか途中から途切れている。 「あの……」 「良かった……っ」  首を起こしかけたオデルをそっと抱き寄せたレナードは、安堵のため息を漏らした。 「急に動かなくなるから、殺してしまったかと……。でも脈があったので、眠っているだけだと気付きました。無理をさせてしまいましたね。申し訳ないことをしました」 「いえ……ぼくの方こそ。途中で……」  自分を省みると、下肢に鈍い違和感があるものの、痛みはなく、身体も清拭され、新しいナイトウェアを着せられている。レナードも、ナイトウェアの下に新しい包帯を巻いていた。 「きみは私に噛まれて、落ちてしまったのです、オデル。少し、驚きました」 (夢、じゃ、ない……)  首を動かすと、うなじが引き攣れてズキズキした。指でうなじをなぞると、規則正しい楕円形の傷が刻まれていた。身体のあちこちが悲鳴を上げるが、結ばれた事実が嬉しくて、意図せず頬が緩んでしまう。四肢を絡ませ、くっついて眠っていたせいか、温かく、幸せな気持ちになった。 「驚かせてごめんなさい、レナード……もう大丈夫です」  レナードが、詫びるオデルの後ろ髪を指に絡ませ、ゆっくり梳いた。 「昨夜のきみは、とても素敵でした」  教科書にも、教養書にも、怪しげなものの本にも、番う手順しか記されていなかった。従って、番ったあとにオメガがどう振る舞うべきか、オデルの中に正解がない。言い換えれば、オデルの選ぶ道が正解になるのかもしれなかった。オデルが視線を合わせると、レナードは待ち遠しそうな表情をした。 「きみと早く話をしたくて、先に起きて待っていたのです。触れたいのも我慢しました。褒めていただきたいです。私のオデル」  レナードはオデルの指に自分の指を絡め、昨夜、付けた歯型をなぞった。そうされると、覚えたばかりの快楽の記憶が、簡単にオデルの心と身体に火を灯す。 「傷は……? レナード、痛みませんか?」 「問題ありません。そもそも皆、浅いものばかりです。命にかかわるものでもないし、たまに痛むくらいです。それに、傷ならきみの方が」  言いながら、レナードは満足げにオデルのうなじをなぞる。 「これ、ですか? 確かにどこか突っ張るような気がしなくもないですが……不思議です。むしろ、調子がいいくらいで」  オデルの戸惑いぎみの告白に、レナードは包むような眼差しを投げた。 「正直、新雪を踏むのが惜しいと思うほどでした。今も、艶めいていて、余計に他のアルファの前で目立つかもしれないと思うと心配です」 「それは、大丈夫だと思います」  オデルが照れくさそうにはにかむと、レナードは絡めた指を眼前に持ってゆき、指先にくちづけた。 「きみを殺してしまいたくないので、しばらくは我慢します。でも、欲しくなったらいつでもねだりにきてください。歓迎します」 「わかりました、善処、します……」  仕事の話のような応酬に、オデルはレナードと視線を絡め、同時に笑った。柔らかな唇が、オデルの頬や鼻先に触れる。互いの左手の薬指には、対になる石が冠された指輪が煌めいていた。  オデルがもらった歪な半分は、元は帝国を平定した何世代か前の王より、レナードの生家に下賜された宝玉を、熟練工の手によりふたつに分けたものだ。帝国の始祖たる陛下の温情を割るなど不敬だと眉を顰める者もいたようだが、女王はレナードを祝し、貴族に叙した。互いに半分を所有するゆえ、石は婚姻によりひとつになる。だから、唯一無二の値打ちがあった。 「オデル……」 「足りませんか? ぼくは……」  レナードが甘えるようにオデルの鎖骨のくぼみに額を擦り付けてくる。身体が許せばもっと動きたいが、関節がガタついて、上手く起き上がれるかもわからなかった。レナードの方が身体が大きく、体力もあるようだ。怪我をしていても気力に満ちていて、鳶色の視線が注がれるたびに、オデルは鼓動が速まるのを意識せずにいられない。 「食べたりはしません。でも、きみをもう少し、愛したいです」 「今……何時頃ですか?」 「夜が明けたばかりです。朝食には早すぎますし、回診はいつも午後ですから、時間はたっぷりあります」  欲しがる気持ちを隠しきれないレナードが、幼く見えるから不思議だ。静寂の中、まだ、虫も、鳥たちも、声を潜めている。 「お医者様に、怒られませんか……?」  尋ねると、レナードは余裕の表情で笑ってみせた。しかし、怪我人に無理を強いたとあっては、公爵家の好色ぶりを喧伝されかねない。 「言いつけは、守っています。もし駄目でも、一緒に怒られてくれるでしょう?」 「もちろん、ぼくの責任もありますから……でも」  本当に平気なのか、痩せ我慢をしているのか、判別が付きづらい。迷うオデルの手を取り、レナードは左胸へ重ねた。 「こうして心臓も動いています。大丈夫。軽微な傷だったのですよ」  だから、とねだるレナードが、どこか可愛らしい。七つも年上のアルファに対する感想としては、正当なものではない気がするが、オデルはこの感覚を気に入った。 「傷に差し障らないことなら、ぼくも協力します。傷に障ることは、しばらく我慢してください。ぼくも、我慢、しますから……」 「……きみが我慢するなら、私も付き合います」  降伏勧告を受けたかのような物言いに、思わず笑みが出てしまう。レナードとこんな風になる未来など、少なくともオデルには予想できなかった。 「ありがとう……レナード」 「?」 「ぼくを、選んでくれて。……女王陛下の後押しがあったとしても、凋落するローズブレイド公爵家に関わるのは、生半可な勇気ではできないことだったと思います。ぼくの家族と、ぼく自身を救ってくれたのは、世界にあなたひとりだけでした。それどころか、ぼくのせいで、こんな傷まで……」  レナードを、見ようとも、知ろうとも、しなかった時期を、オデルは悔いた。オデルは興味関心を抱く素振りも、見せはしなかったのだ。その態度がレナードを傷つけていることにさえ気づかずに、寵愛を弄んでいたと言われても反論できない。 「本当に愚かでした……。あなたの気持ちを考えもせずにいただなんて。ごめんなさい、レナード……たくさん、傷つけてしまったと思います。でも、もし許されるのなら」  残酷な告白をするオデルを、レナードの双眸は静謐なまま見ていた。 「最初から……あなたと出会うところから、やり直したい」 「オデル……」 「好き、です……。どう表現したら伝わるのか、わからないけれど……でも」  視線を上げると、レナードの眸が少し震えているのに気付く。 「あなたが、好き、です……レナード」  囚われて、視線を逸らせない。 「愛しています」  上ずり震える声が、情けない。レナードは何も言わずに、オデルの額にひとつ、くちづけを落とした。触れられるたびに心音が跳ねるのが、恥ずかしい反面、少し誇らしい。 「私は、きみに正面から告白して、振られる勇気がなかった男ですよ。回りくどい手段で外堀を埋め、断れない条件を提示し、きみを手に入れたのです。きみは、神話の代まで遡ることができる、由緒正しい家柄の嫡子だ。そのきみが、女王が見過ごせないほどの窮地にあると知り、哀れみながら、どこかで舞い上がっていた……強引な手段を使った報いを、受けたに過ぎません。きみが気に病むことは、ないのです」 「そんなこと……」 「存外、勇気のない男なのですよ、私は……」 「っ違います……!」  勇気のない者は、オデルのために、ハンデを負ったまま命がけの決闘などしない。  勇気のない者は、男性オメガのオデルと心をひとつに添い遂げようなどと、考えない。  第二性別がオメガだと判明してから、アルファの裏切りや悪意をたくさん見てきた。引きこもることでしか、身を守ることができないような、悪質で陰湿なものも中にはあった。レナードが伸ばしてくれた手も、おいそれと取ることができないほど深い猜疑の中にいたオデルを、光のもとに連れ出してくれたのは、レナードだ。  だから、尽くそうと思った。  でも、尽くすことと愛することを混同していたオデルは、愚かにも道を違えた。  もやついた想いを抱え、言葉を選ぼうとするオデルに、レナードは、もう済んだことだと言う顔で、そっと問いかける。 「昨夜は、楽しかったですか……?」 「っ」  レナードの不意打ちに、オデルは耳が熱くなるのを感じた。 「レナードは、狡いです……」 「オデル……?」 「楽し……かった、です……っ」  どう思われようとかまうものかと、思い切って告白すると、レナードは愛しげに目を細めた。 「私も、楽しかったです。ですので……これは愛情からくる言葉だと、理解していただきたいのですが……」 「え……?」  不意に耳元でこっそり囁かれる秘密の言葉に、オデルは身体を強張らせ、真っ赤になる。 「無理に、とは言いません。でも、私の夢のひとつなのです」 「……っそんな、夢、だなんて……っ」  肋を心臓が叩く音が、レナードに伝わって欲しくない。でも、知っていてもらいたい恥辱もあるのだと、レナードと番った今は思う。 「昨夜の我々は、完璧でとても素敵でしたが、もっと楽しくできると思いませんか?」 「楽しく、ですか……?」 「はい。ですから……欲を言えば、模擬練習がしたいです」  オデルをいたぶる楽しげな視線が、いつしかレナードの鳶色の目を煌めかせていた。 「無理にとは言いません。断ってくれても、大丈夫です」  こういうところが、まるで実業家だとオデルは結んだ唇を解き、思う。 「わかり、ました……っでも、頑張りますが、上手くできなくても、笑わないで……」 「もちろん」  先回りして逃げ道を用意するレナードの腕の中に飛び込む、最後の決め手は、オデルが望むかどうかだ。 「きみと一緒に頑張るのは、とても素敵なことだと思います。オデル。昨夜はとても可愛らしかった。我々はまだ、きっと初学者の域を出ていません。ですから……」  レナードが最後まで紡ごうとする言葉を遮り、吸い取るようにオデルは唇を塞いだ。バードキスに瞠目するレナードに、無意識のうちに対抗意識が芽生える。  燃える頬を晒したまま半身を起こしたオデルを、レナードは愛おしそうに見つめていた。

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