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二十七話 二人だけの世界

「っ……、雨下……」  たっぷり数十秒の時間を使って、ようやく絞り出せたのはその言葉だった。俺の手は震えて、キーホルダーを持った手がカチャと金属音を鳴らす。  この男に特別扱いされることの嬉しさと、戸惑い。  どう反応して良いのか、なんと返したら良いのか解らずに、口ごもる。  雨下はそんな俺の様子を見越したように微笑むと、店の奥へと誘う。奥まった箇所にあったのは、ゆったり寛げそうなスペースに置かれた、品の良いソファ。向かいには鏡が置かれており、足元には踏んだらどこまでも沈み込みそうな、柔らかなラグが敷かれている。 「座って」  促されるままに、ソファに座る。身体を包み込まれているかのような感覚になるソファだった。 「このフィッティングルームは、VIP専用だから」 「VIP……?」  雨下がゆっくりと、豪奢なカーテンを閉める。クスリ、笑いながら、俺の握ったキーホルダーを指した。 「この『マスターキー』を持っている人。かな」 「―――」  それ、は。  実質、このフィッティングルームは、俺専用ということになる―――のだろうか。  戸惑う俺の前に、恭しく、傅くようにして、雨下が膝を着いた。  俺の靴を、ゆっくりと脱がせていく。 「雨下……」  ハァ。吐息が漏れる。雨下の指が、踵を滑る。  雨下は足の裏から指先まで、揉むように触れてから、頭を垂れるようにして。  爪先に、キスをした。 「―――っ、雨下……」 「僕の『ミューズ』」  雨下が囁きながら、足の甲に舌を這わせた。赤い舌が、ゆっくりと皮膚をなぞる。 「――ふ、んっ……」  雨下の視線が、俺を見る。その視線に、甘く溶かされてしまいそうだ。 「う、かっ……、それっ……」  ゾクゾクと、背筋が震える。  俺の身体は、雨下の手の気持ち良さを知っている。足を愛撫される快感を、覚えてしまっている。  ハァ、と息を吐いて、雨下を見る。  俺はもしかしたら、自分で思っているよりも欲望に忠実な顔をしているのかもしれない。  雨下の喉が鳴った。 「それ……ヤバい……から……」  雨下がソファに座る俺に、覆い被さるようにして寄りかかる。  ドクン。  心臓が鳴る。  雨下の顔が、近くなる。  前髪が触れる。  鼻先が擦れる。 「雨下……」  名前を呼んで小さく開いた唇に、雨下のそれが重なった。  舌が、捩じ込まれる。熱い舌が絡み付くと同時に、俺は雨下の首に腕をまわした。  ちゅ、くちゅ。と、濡れた音が響く。  雨下にのし掛かられ、ソファが沈み込んだ。  上口蓋を舐められ、舌を擦られる。唾液が唇から零れ、銀の糸が垂れる。  荒い呼気が、互いの間に吐き出される。  雨下の手が、太股をなぞった。 「ふ、んっ……、んぅ……」  夢中で、雨下の唇を吸った。 「ハァ、っ……」  雨下の指が、腰の隙間から直接肌へと滑り込んで来た。敏感な腰から上へと這い上がり、胸を撫でられる。  びくん。身体が跳ねる。  雨下の指は曖昧に胸部を撫でて、また腰へと戻り、背中を這っていく。 「っ、ん……、雨下……っ」  吐息とともに、名前を吐き出す。  雨下の唇が離れ、濡れた唇がそのまま首筋に吸い付く。 「あ―――、ハァっ……」  何度も。首筋にキスされ、背筋を逸らせる。  雨下の手にまさぐられ、上着は殆どはだけていた。外気にさらされた皮膚が粟立つ。 「縁くん―――……」  雨下がケダモノのような視線で、俺の瞳を覗き込む。俺はぐっと、なにか込み上げる衝動を堪えた。  雨下の手が、ズボンのボタンを外す。ファスナーを下ろす音が、やけに大きい。  ドクン。ドクン。  心臓の音が、耳の傍で聞こえる気がした。 「―――う、か……っ」  ズボンを太股まで下ろされた、その時だった。 「オーナー。すみません、お電話です」  カーテン越しに、事務的な声がかけられる。雨下の手が、ビクリと震え、停止した。  互いに、一瞬見つめあった。  ドクドクと鳴る心臓とは裏腹に、頭が急速に冷えていく。吐息を吐き出し、若干の名残惜しさを感じさせる手付きで頬を撫でて、雨下が立ち上がった。 「今いくよ」  俺ははだけた前を合わせながら、視線をさ迷わせた。雨下は乱れた髪を軽く撫で付けながら、チラリとこちらを見る。  ザワザワと、胸がざわめく。  カーテンの隙間から、雨下がフィッティングルームを抜け出ていく。 ―――一瞬。ここがフィッティングルームだということを、忘れていた。  世界でここだけが切り離されていたような気持ちになって、雨下の背中にすがり付いた。 (あのまま、声がかからなかったら)  二人は、どうなっていたのだろうか。  甘い妄想が、ザワザワと胸を占めていく。  溜め息を吐き出して、俺は乱れた服を整えたのだった。

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