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二十八話 たとえ後悔したとしても

「ごめんね、お待たせ」  ごくいつもの調子で現れた雨下を、思わずジトッと見つめる。なんとも、平然と現れたこの男が憎らしい。 「ああ、うん」  曖昧な返事を返しながら、品の良いカットソーを胸に当てる。  ひとしきり落ち着いて、雨下がいつまでも戻って来ないので、そういえばフィッティングルームだったと試着していたのだ。 「気に入った服はあった?」 「ん。どれも良いんだけど……」  値札がないんだよな。幾らなんだろうか。雨下の他の店だと似たような服が一万から三万くらいだったと思う。服にそんなにお金を出せないと思う自分と、こんなに色々貰っているんだから買った方が良い気がする自分がいる。 「うん。似合うね」  雨下が背後に回り、肩から腰を撫でていく。抱き締められるような形で触れられるのは、なんとなく気恥ずかしい。  先程のことをなにか聞こうかと思いながら、どう切り出して良いか分からずに唇を閉ざす。 「あのさ、こういう値段書いてないのって、普通?」  雨下相手に取り繕っても仕方がないので、思いきって聞いてみる。 「ん? まあ、普通かと言われると悩むところだけど、まああるよ。値段を気にせず買い物出来るし、案内は店員が居るからね」 (値段が気になって買い物出来ないんだが……)  思想の違いというやつなんだろう。店員が必ず着くのが前提なのだ。 「ここは狭い店だからね。ゆっくり買えるように」 「怖くて値段聞けないんだけど」 「あはは。まあ、素材は良いものを作ったって自負があるけど」  鏡の中の雨下と、目線が合う。服を撫でるように、腹から胸へと手が滑っていく。 「っ……」 「こういう仕事をしていて、初めて良かったと思ってるよ」 「……え?」 「君の身に纏うもの、全て」  雨下の唇が、項に触れた。 「っ、あ……」 「僕のものに出来る。僕が、君を飾ることが出来る」 「雨下……っ」  歯を立てられ、ゾクゾクと肩を揺らす。  雨下は笑って、「プレゼントさせてね」と囁いた。    ◆   ◆   ◆  雨下お勧めの中華は、概念が変わるほどに美味しかった。香辛料や調味料、素材の扱いが違うと、ここまで変わるものなのかと、世界が一変した。俺の想像するエビチリの範囲を大きく越えてしまい、今まで食べていたものは何だったのだろうかと愕然とする。  知識があれば、なぜそうなるのか分かるのかもしれない。生憎俺はその知識がないし、雨下も説明は出来ないだろう。 「美味しい……」  ほぅ、と蠱惑的な味を堪能していると、背後から囁きとともに耳元に息がかかる。 「気に入ってくれてよかった」 「う、うん……」  雨下の笑みにドギマギしながら、視線を逸らす。  正直、高級中華の雰囲気は最高だし、味も超一流だが、落ち着かない。  俺の背後には雨下が、俺を抱き抱えるようにして座っている。ほとんど、雨下に抱っこされているような状態だ。 「縁くん、僕にも、食べさせて?」 「お、おう……」  レンゲでエビチリを掬い、振り返りながら雨下の口に運ぶ。  なんだこれ。なんなの。 (恋人じゃあるまいし―――いや、恋人だって、こんな格好で食べさせたりしないだろ……)  個室なので他人の目はないが、正直恥ずかしい。スタッフさんが冷静に対応してるのも凄くいたたまれない。  だが、嫌かと聞かれたら、嫌ではないのだ。雨下の体温に包まれ、甘い声で囁かれる。時々、いたずらな唇が項や耳、頬に触れて―――……。  やけに、甘い。 (……俺、愛人だと思われてるんだろうな……)  まあ、実際、そんなものか。今は、脚だけの関係ではあるが―――。  チラリ、視線をあげる。雨下の瞳とかち合う。 「っ、あ――……」  雨下の唇が、唇に吸い付く。舌がぬるりと唇を舐め、咥内に侵入する。俺も舌を伸ばして応えながら、雨下の唇に噛みついた。 「ん、ふ……、んん……ぁっ」  雨下の手が、腹を撫で、太股を撫でる。チロチロと舌先で擽られ、ビクビクと身体が跳ねる。 「は……ぁ、ん……雨下……っ」 「縁くん、気持ち良さそうな顔」 「っ、それはっ……」 「僕のせいだよね」  ちゅう、首筋にキスされる。 (あ―――……、痕、付いてるよな……)  今までは、脚にしかキスマークが付いていなかったのに。多分、俺の首筋や鎖骨には、言い訳できない痕跡が残っている。 「雨下……、待って……」  雨下の手が、際どい部分に触れる。正直、フィッティングルームでも焦らされて、ここでも焦らされるのは、堪ったものじゃない。  雨下の胸を押し返すと、彼は残念そうに笑った。 「縁くん」 「う、ん……?」 「―――『セレンディピア』、サボる気はない?」  その言葉に、ドクンと心臓が鳴った。雨下の瞳を見る。 (―――本気、だ)  冗談ではなく、本気で言っている。ジワリ、熱が脳を痺れさせる。  この先の選択を、雨下は迫っている。  雨下の手が、じっとりと太股を撫でた。 「―――あ……」  自分を選んでくれと、懇願するような瞳を向けて、雨下はただ黙って俺を見ていた。 『セレンディピア』を選べば、雨下は二度と、俺に触れないかもしれない。  雨下を選べば、俺は―――。 「―――」  ゴクリ、喉を鳴らす。  恋に、酔っているだけかもしれない。  この選択を、後悔する日が来るかもしれない。  この悪い男に弄ばれて、いつか不幸になるかもしれない。  それでも、俺は。 「っ、―――俺……」  俺はこの日。  初めて、『セレンディピア』をサボったのだ。

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