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第9話 化け物

主人公がやってみせたように、一番強い魔物を味方につけるのがいいだろう。何も自信があったわけじゃない。しかし試してみずにはいられなかった。 地下への歩みを一本進める度に足が震えた。失敗すれば、八つ裂きにされて食われて終わり。自分のようなモブが消えたところで、この世界は違和感なく回る。それだけは嫌だという気持ちだけで地下へと降りた。 魔物は鉄格子の向こう側にいた。地下に人が訪れることなどほとんどないのだろう。近づく度に埃が舞い、石畳に足跡が残る。 物珍しいのか、「それ」はすぐにリュナへと近寄ってくる。 歪で、奇怪で、吐き気をもよおすほどに醜悪な化け物。きっと、デザイナーはそんな風に「それ」を創ったに違いない。血液を思わせるような、赤黒い肉片をいくつも繋ぎ合わせた手足を蠢かせ、暗闇に潜んでいる。頭はおそらく手足に埋もれているのだろう。どちらを向いているのか、合わない視線が余計に不気味さを膨らませた。「それ」が這うと、ぐちゃぐちゃという咀嚼にも似た摩擦音が出る。 しかし、忌避感を抱いたのは最初だけだった。 「それ」は小さくて細い触手状の足を指に絡ませてくる。少し曲げたら、応えるように力がこもった。これが化け物なりの挨拶だろうか。 リュナは前世でもペットなど飼ったこともないし、動物に好かれるような人間でもなかった。だから反応に困るが、ここで退くわけにはいかなかった。 この世界に来て唯一自分ができるようになったことといえば、綺麗に微笑むことだけだった。ぎこちなさは鏡と向かい合う朝を重ねる度に取れていき、今では姉と同じように笑える。怯えを隠す演技だって多少はできる。血の繋がりというのは転生した後も途切れないものなんだろうか。 今のリュナは、聖母のように、嫌悪感を悟らせず化け物に微笑みかけることができた。本当に笑ってしまう。この男だらけの世界に、聖母なんていないのに。 どこに目がついているのかすら定かではなかったが、笑ったことで化け物の警戒も薄れてきたようだった。ただでさえ人懐っこく指に絡んできていたが、今はマーキングでもするかのように全身をこちらに擦り寄せて来る。どこが何の部位か分からないままに撫でてみる。蠢いたので喜んではいるのだと思いたい。 忌避感はもうなかった。よほど人肌に飢えていたんだろう。何百年も地下に閉じ込められ、孤独に過ごした怪物。食物も、ここで捕れるものは虫か鼠くらいだろう。 その影が、誰からも相手にされなかったかつての自分と重なった。 「お腹が空いてるなら、僕が食べ物を持ってきてあげる。自分で食べられる?」 聞いてはみたが、当然ながら返事は無い。しかし誰も外に逃がさないよう設置された魔物のはずだ。人を捕らえる俊敏さはあるだろう。そして出られた者もいなければ、どこに行ったのか帰って来ない者もいる。化け物が何らかの方法で処分していたはずだ。それこそ食べていたり……この状況は捕食される直前なのではと冷や汗を流しつつ、気取られないよう思考を切り替える。 主人公は自らの力で罪人を裁いたが、自分にはそんな力がない。どの道、誰かの力を借りなければならない。そんなこと、自分にできるのだろうか。前世で、どんな人間とも深い関係を結べなかった自分が。 人間ではない化け物だったら、どうなる? 自分とよく似た境遇の、化け物だったら。 「食べ物はあげる。その代わり、僕の力になってくれる?」 肌に粘膜の跡を残しながら滑っていく触手が、その返事だと思ってもいいのだろうか。 ここまで愛情まがいの行動を見せられれば、血なまぐささや温い生き物の温度に、愛着すら込み上げてくる。 無遠慮な化け物は何を思ったのか、肌を這っていた触手を口の中にまで突っ込んできた。 「ん……っ、んぅ……う……」 歯は立てないように。噛まないように。化け物を興奮させないように。 口の中を全て舐めるように、何度もまさぐってきた。最初は細い一本だけだったそれは次第に増えていき、口いっぱいに頬張らされた。息が苦しい。顔が歪む。 「ん、ぐっ……」 喉の奥まで突っ込まれそうになった時、化け物の体を叩いて限界を示した。このままではさすがに死んでしまう。 「は、ぁ……っ、……う……」 解放され、唾液を吐く。そうでもしないと、苦しさのあまり上手く息が吸えなかった。しかし今度は急激に入ってきた酸素に体が驚いて咳き込む。眦に溜まっていた涙がとうとう石畳に落ちた。 目の前の化け物がやらかしたことなのに、心配でもしているのか、触手が頭に触れた。撫でているつもりなのかもしれない。髪は粘液でべとべとになっているけれど。 涙が溢れる度に頭を撫でられ、止まらなくなった。嫌悪からじゃない。たぶん驚いているのだ。 誰かに頭を撫でられるのが、こんなにも気持ちいいことだとは知らなかったから。 そこで初めて気づく。自分以外の人間が唇に触れたのも、今が初めてだ。 「よろしくね」 この時に抱いた感情は、言葉の通じない化け物相手に自分を重ねた、ただの傷の舐め合いかもしれない。 けれど、それを咎める人間はどこにもいない。

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