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第13話 名前

「すみません……ただの頭痛、です……僕が貴方を看病する側なのに、こんな……」 目を逸らして笑えば、顔を覗き込まれた。 「やはり心配です。疲れているんじゃないでしょうか。もしくは何か抱え込んでいるとか……」 「そんなこと、ないですよ……」 今の自分は十分すぎるほどに幸せだ。全てを見渡せる狭い世界で、かつては欲しくとも手が届かなかったものが簡単に手に入るのだから。 「心配なんです。だからこそ、私に貴方を守らせてもらえたらと……」 守るなど、今までに聞いた事のない、ドラマのような台詞だ。 「ここは安全ですよ。流れ着くのは罪を抱えた方ばかりではありますが、贖罪を経て、皆、規律を守って日々を生活を送っています」 「で、ですが、男ばかりの暮らしですし。貴方ほどの美しい方なら、万が一ということもありえます」 「女性ではありませんし、大丈夫です。直接手を出してくる輩はいません。時おり下着が盗まれるくらいで……」 言うつもりのない情報を与えてしまったのは、油断していたからだろうか。 「それは駄目です!」 勢いよく怒った彼と、油断していたリュナ。まだ痛みと右腕のない違和感に慣れていない彼はすぐにバランスを崩した。ふたりして、雪崩込むようにベッドに倒れる形となった。 「ちゃんと犯人を探してください。それで、ちゃんと怒ってください」 「怒るだなんて……そんな……」 リュナは本当に、下着泥棒の所在を明らかにしようとは思っていないのだ。それを罪として問うことも望んでいない。 初めて自分の部屋から下着が消えていることに気づいた時、覚えたのは気味の悪さでも軽蔑でもなかった。むしろ……誰にも言えない、妙な興奮すらあった。 前世のリュナは、本当に、誰にとっても取るに足らない存在だったから。それが姿を変え、振る舞いを変えただけで、誰かにただならぬ感情を与えている。ただの布切れにすら焦がれ、欲情し、手を出さずにはいられないほどに。 憤るどころか愉悦に浸る。そんな自分がおかしいことは十分に分かっている。それでも、優越感を味わいたいがために、誰のものとも分からない愚行を止める気はなかった。 だから、「怒るだなんて」と言ったことは、常日頃からの本音でもある。しかし今はそれ以上に、混乱のほうが大きかった。 「本気で言っています。今は被害が下着だけでも、後にどうなるか分かりません」 彼の過去を考えれば、本気で心配し、忠告している。それはよく分かっているのだが……。 「あの、ちょっと、待ってください……」 「え……?」 ベッドへと倒れた時、彼の体ごと受け止める形になった。胸元にさらりと触れた髪先。強く掴まれた片腕。体にかかる人肌の温もりと重み。 「大丈夫ですか……?」 「大丈夫……では……ないかも、です……」 目のやり場もなくて、顔を両手で覆った。それでも恥ずかしさは抜けない。この状況から脱したくてもぞもぞと体を動かしてみるも、ただ足がシーツを蹴るだけだ。 「す、すみません!重かったですよね……」 彼の方がリュナよりも体格がいい。むしろこの建物にいる人間の中で一番背が高いくらいだ。しかし今は重さなど重要じゃない。 彼は腕を失ったばかりでバランスが取れず、上手く退けない。結局は、リュナの上に覆いかぶさったままだ 「違うんです。その、顔が……近くて……落ち着かなくて……」 「え?」 「ぼ、僕は……」 弱みともとれる情報を口走るか迷ったのは一瞬。醜態を自分から晒したのだから、今さら隠してもあまり意味は無いだろう。 「人に……触れられたことがないんです……」 人でない化け物の触手が、口に飛び込んできたことならあるが。 彼の息を飲む音がした。動揺しているのだろう。 「笑いますか……?いい大人が、たいした経験もないなんて……」 「……笑いません」 ようやく両手を顔から退ける。目が合い、彼は真剣な顔をしていると分かった。 「ここの教義のことは、私にはよく分かりませんが、神に仕える身なんでしょう?であれば、貞淑であっても不思議ではありません」 リュナが作った教典の中に、「神に仕える者は貞淑であるべし」という項目はない。ただ清廉潔白の方が、BLゲームの揉め事に巻き込まれる可能性も少なくなるし都合が良かった。 「でも、さっき、引いてたじゃないですか……」 「違います。あれは、意外だっただけで……」 彼の左腕が、自分の頭を抱きしめるように動く。自分の髪が、金糸のようにさらりと揺れた。 「こんなにも、美しいひとですから……」 触れた後で、はっと気づいて手を離した。 「すみません。また勝手に触ってしまいました……」 「いえ……」 ふたり、ベッドの上に並んで寝転がる形になる。最低限ひとりが寝ころべる程度の狭いベッドだ。少し動いただけで互いの肌の表面に触れる。しっとりと汗ばんだ体温が伝わってくる。 彼は咄嗟に手を離したが、まだ、ささやかでもいいから触れたがっているように思えた。触れてこないのは、先ほどの自分の振る舞いを知っているから。もしかしたら妹のこともあるかもしれない。 けれど確実に、聖なるものを扱いながら、その処女性に興奮してもいる。自分に、興奮している。その推測がまた羞恥を煽った。 「やっぱり心配です。清らかな人なのに、懐に入れば、こんなにも……なおさら守らせてください。貴方のことを」 「わ、わかった。わかりましたから。えっと……」 そこで気づく。お互いに名乗っていなかったことに。ベッドから起き上がり、またふたり並んで座りながら話した方がいい。手を伸ばすと、彼もおずおずとそれに応えてくれた。 「そうだ、名前、僕は……」 「リュナさんですよね。他の方が話してるのを聞きました。私は……」 言葉に詰まらせる。その理由は容易に推測できた。 「思い出せませんか?」 「……はい」 「無理もありません。ここに来る方には、そういった事情を抱えている方も多いので」 覚えているのは、自分の罪だけ。そんな人間を、もう何人も見てきた。自分だって、適当に思い浮かんだ言葉を名前にしただけだ。 「たいていの方は自分で名乗られています。他には仲良くなった方に付けてもらうという人もいますし」 「では、あの……付けていただいてもらっていいですか。私の名前を」 どうして。 僕なんかでいいのか。 そんな言葉を咄嗟に飲み込んだ。ここでは慈悲にあふれ、胸を張って皆を導く聖職者を気取らなければならないから。 人と近づくとこんな弊害があるなんて。どうにも慣れずに、前世の自分が顔を出してしまう。なんの面白みもない、誰からも気にされない自分が。 そんな僕の言葉をどこまで読み取ったのか。もう一度「貴方がいいんです」と念を押す。 「では……セス」 咄嗟に頭に思い浮かんだ二文字を口に出した。 「いい名前ですね」 前世で見ていたアニメに出てくる主人公の飼い犬の名前だとは、とても言える雰囲気じゃなかった。 「セス……さん」 「そんな……もっと気安く呼んでください」 「セス……くん?」 「もう少し」 「では……セス」 「はい」 そこにはもう、罪に怯える男の面影はなかった。セスには、適当に付けた犬の名前がやけに似合っていた。

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