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第26話 愛について

目を覚ましても、唇にはうっすらと感触が残っていた。ヴィオによく分からない独り言とともに触れられたことは、きっと夢じゃない。いつもの自分なら喜んだはずだ。他人に触れられたことを。誰かの心を自分のものにできた証だと。 しかし、その相手が自分を窮地に陥れようとするヴィオでは、何の喜びもない。どうして自分の立場に害を及ぼそうとする人間を好きになれるだろう。 むしろ薄気味悪さすらあった。今まで自分に人懐っこく接してくる彼を、やんわりと拒絶していたつまりだ。好きになってもらえる心当たりなんてない。一目惚れ……という線も考えなくはない。しかし、リュナはもともとそんなものを信じていない。あれは顔の造形や体臭といった遺伝子レベルで相性のいい相手を見つけた時の脳の作用だ。この世界で名前のないキャラである自分に訪れるとは思えなかった。 だからこそ、ただひたすらに気味が悪い。起きて口をゆすいでも、まだ唇の感触が残っている気がした。それが消えるまで、何度も指で拭った。 以降、ヴィオを忌避する気持ちが消えない。 毎日行われる朝の祈りの儀であってもだ。 「神は、我々の前にその御姿を現すことはありません。ですが数々のお恵みをくださる。安寧に暮らせる場。困らぬ食糧。それら全てが慈悲なのです。形ないからとその存在を疑うことは赦されず、形あるものにその御姿を託すことも禁じています」 祈りの場に訪れた者は、まずそのステンドグラスを物珍しそうに見るのが常だった。自分がそうだったし、セスもそうだ。神の絵が描かれていることのない、ただ色のついたガラスがはめられているだけの、祭壇近くの窓。それなのに灰色の建物の中にあふれる色彩に目を奪われる。 だというのに、ヴィオは最初から見向きもしなかった。リュナが教典を読んでいると視線を感じる。そこには必ず彼がいる。目が合うと楽しそうに笑う。 講義の内容を、理解しているのかいないのか。実際に理解しない人間がいるであろうことは分かっていた。だからこそリュナはいつも、想定される質問を昨夜のうちに考えつくしておく。 早朝には礼拝があり、その後は講義の時間だ。リュナが調理当番の日以外は昼食を挟み、夕食までの午後いっぱいを、教義についての質問の時間とする。 リュナは聖堂に缶詰になるわけだが、それでも以前のように人は来ない。ここにいる連中はもはや、実態のない宗教よりも、中庭でヴィオが見せる魔法に夢中だった。 何もせずヴィオの回りに人が集まってくるのをただ見つめるだけの一日ばかりで、苛立ちが募る。 夕方になるとヴィオがやってきた。 庭いじりか厨房の手伝いか。とにかく誰かに呼ばれて一度は席を外していたはずだ。なのにわざわざ戻ってきたらしい。 「質問、まだ受け付けてる?」 「ええ、構いません」 リュナは淡々と訊かれたことを答えるだけ。身構える必要も無かったはずなのに。 「愛について教えてよ」 「……は?」 「だっておれたちは、愛のために同じ建物の中で暮らして、同じように食事をとるんでしょう?」 「ええ、そうです」 しかし、そんなものはない。ここの教義は自分の浅い知識で作ったでたらめだからだ。自分が知らないものが定義できるはずがない。 「神の愛ゆえに、今の形がとられるようになりました」 だから浅い知識でふんわりと語るしかなかった。高貴な雰囲気が出るよう微笑みながら。 「家族の形……今のこの暮らしは、神によってつくられたものです。我々はいただいたものを有難く胸に抱き、日々を慎ましく過ごすのみ」 「ふーん」 自分で聞いておきながら、ヴィオは神の話に興味が無いようだった。とはいえ講義自体はちゃんと聞いていたらしい。少し考えてから、いいことを思いついたように、頷き表情が明るくなる。 「じゃあおれとリュナの間でも、この言葉を使っていいんだ」 それは幼子が覚えたての言葉を使って親を驚かせようとするような。悪戯心に満ちた顔だった。 「ねぇ、リュナ」 質問は終わったと、俯いて教典を読んでいる振りをした。 「こっち見て」 なのに両手で頬を包まれ、講壇を挟んでむりやり向かい合わされる。 「愛してる」 リュナが言葉に詰まったのは一瞬。ふざけるのはやめなさいと言おうとしたところで、ヴィオは外から名前を呼ばれる。背伸びをやめ、背中を向けてかけていった。 「……貴方は僕じゃなくても、名前を呼んでくれる人がいるじゃないですか」 それなのに、愛してるとは。そんな人にばらまかれる愛情のたったひと欠片なんて、自分は全然欲しくない。 「……唯一無二じゃないものなんて、いらないんですよ」 また、キスをされた感触がよみがえり、唇を指で拭う。 ヴィオが自分にこだわる意味が分からなかった。それこそ主人公として、全員に好意を向けてもらわないと気が済まないのだろうか。だから決して好いてはくれない自分にこだわっているんだろうか。 「……忌々しい」 リュナは、彼が去っていく背中をずっと睨みつけていた。

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