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第27話 汚れた靴

慣れない誘惑を拒絶されて以来、セスとは気まずい空気が続いている。かといって、リュナは庭遊びにまざる気にもなれなかった。 ミサを終えても、後方の長椅子に座ったままでいる。教典を読むふりをしながら、新しいページの内容を考えている。 ヴィオは自分が祭壇からおりてようやくステンドグラスが目に入ったのか、あちこちをいったりきたりしていた。 やがて、自分の立っていた講台に立つ。嫌味なく似合っていると思った。いつもの焦燥もなく見惚れてしまった。もう少し背が伸びれば、誰もが見惚れ、話に耳を傾けられる人間になるはずだ。 やはり、彼はリュナが乗っ取っていたはずの立場を、正常に戻すためにやってきたのだ。ふらつきや眩暈、倦怠感がなくなったのは世界の最後の情けだろうか。 ヴィオが講台をぴょこんと降りる。庭遊びにいく約束をしていたんだろう。日光がない分、植物は魔法を使わなければ育たない。お遊びのようなあの庭園は、ヴィオの力がなくては立ち行かない。 以前のように、リュナへふざけた言葉を吐くこともなかった。そのまま駆け出して外へ行く。もはやこちらを見てもいなかった。自分はやはり、誰の視線を集めることはできないまま、全ての者に忘れ去られてしまうのだろうか。 なんとかしてヴィオを消してやりたかった。自分が世界から消される前に。 そんな思いが普通じゃないことは分かっている。あまりにも長い幽閉生活で狂いつつあるのか。その考えはずっと頭の隅にあった。 だからかもしれない。思いついただけの、彼を痛めつける行為をなんなく実行に移せたのは。 今、ここで足を出せば、ヴィオは無様に転ぶだろう。 そんな簡単にいくか?しかしあの時、実際に転んだじゃないか。それはいつ?完全に形をなしていない前世の記憶を手繰り寄せようとする。駄目だ。思い出せない。 そんな思考が駆け巡るうちに、リュナは足を引っ込めるタイミングを失った。 予想通り、彼は自分の足に躓いて顔をから床石に叩きつけられた。 「……靴が汚れてしまいました」 ヴィオを心配する前にそう呟くと、彼はショックを受けたような顔した。少しだけ溜飲が下がる。 「ごめんね」 そう言って土下座でもしてくれるだけだったら、どれほどマシだったか。 「おれが綺麗にするね」 「ひっ……!」 靴を舐めるだけでは飽き足らず、ヴィオはリュナのふくらはぎをつかんで顔を寄せた。 「気持ち悪い……っ!」 「そうだよね、ごめんね。でも、汚れたら綺麗にしなきゃだから」 転んだせいで出ていた鼻血が、ぽたりと靴に垂れる。そしてまた、靴を舐める。脚に頬を擦り寄せる。その繰り返しだった。 こんなの、明らかに異常だろう。頭を強くぶつけたわけじゃない。会話も通じる。理性を失ってもいないはずだ。 ただ、リュナの常識が通じていない。恍惚として靴に落ちた血を舐めとり、脚に頬擦りをされて、上に立っているのはこちらだろうに、困惑しているのもまたリュナの方なのだ。 本当に意味が分からなかった。ただの足なら、好いている者の足なら、理解したくもないが、舐められるという人間もいるのだろう。でも彼が舐めているのは自分の肌ですらない。汚れた靴と、そこに付着した自分の血だ。 「そんなに靴が美味しいんですか」 感情が口から出た時には、疑問よりも嫌悪の方が勝っていた。異常だ、近づくなと棘のある声になった。 「うん。おいしい」 ヴィオは鼻血を拭おうとしない。それどころか靴を必死になって舐める方を優先している。だから余計に血が垂れる。 脚に纏わりついてくる彼を振り払いたい。そう思って強く蹴った。ヴィオの体がぐらりと傾く。強く蹴ったせいで脳が揺れたのか、もう足に縋りついてくることはなかった。 「こんな靴、もう履けません」 唾液まみれになった靴を、転がっている彼に放り投げる。 「じゃあリュナは、どうやって部屋に戻るの?」 「それを履くくらいなら、裸足の方がいくらかマシです」 庭で土いじりをしていた人間がヴィオを呼びに来た時には、もう彼は起き上がっていた。 「どうしたんだよ、その顔」 「ちょっと転んじゃった」 ヴィオは、決して自分に蹴られたとは言わなかった。そのことに安堵しているのか苛ついているのか、自分でも分からない。 「今日のご飯しみるんじゃねぇの?それとも魔法で治せる?」 「どうかなぁ」 ふたりして、何事もなかったように祈りの場を出ていく。ヴィオは後ろ手にリュナの靴を持っていった。それはまるで、誰にも見せずに隠しているようだった。

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