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第28話 手習い

頭の中がぐちゃぐちゃだった。ヴィオが自分の靴を隠し持っている後ろ姿を見てからというもの、思い出す度にもっと痛めつけてやりたいような、気味の悪い存在に二度と近づきたくないような気持ちになる。 今、リュナは本堂から区切られた一室いた。そこは写本室として作られたものらしく、片隅の凹んだ場所に区切りを立てただけの空間だ。写本室といっても、ファンタジー作品に出てくるような蔵書があるわけじゃない。誰でも入れるし盗むものもなく、ただ考え事をまとめながら、外にいる人間たちの様子も知ることができる。そんな理由で、リュナはこの場所を重宝していた。 自分の気持ちを落ち着かせながら、でっち上げた教義を紙に書き写す。ある程度書き留めたら糸で綴じ、礼拝の際に持っていくことにしていた。 ふと、パーテーションの外に人の気配がした。区切りを取っ払う。まだ少し自分に怯えるセスと、もうひとりが立っていた。 「珍しいですね。ケリーが僕のもとに来るなんて」 「そう訝しがられると思ったから、間にセスを挟んできたんですよ」 件の男は間に挟むどころかうしろに一歩引いているが。 ケリーもまたリュナと同じく、メインの登場人物ではなかった。ただセスと同じくらい大柄で、よく目立っている男だ。リュナがこの施設に来る前からいる、いわば古参のうちのひとり。 彼は髪にたっぷりの油をつけて前髪をうしろに撫でつけている。かと言って整然とした印象はなく、いつもにやついている軽薄な男という印象があった。 素行はあまりいいとは言えない。礼拝にも滅多に来ないし、来たと思えば遊び半分でどかっと長椅子に座り、足を組み、口笛を噴き出す始末だ。 ここで暮らしているからには、何かしらの罪があるに違いない。彼は自分から、喧嘩で何人殺しかけただの、女を何人で輪姦しただの嘯いて、周囲の人間を怯えさせているらしい。一度、年下の者を脅迫して食事を奪おうとしているのをリュナが止めた。本人には納得した様子はなく、あれ以来うっすらと自分を敵認識していると思っていたが。 「手習い、ですか……」 自ら信仰を広めるような行いを提案するとは、一体どういうことだろう。 「ヴィオが言ってたんですよ。文字を書けるようになりたいって」 リュナは最初から理解していたものの、この建物の中で文字はそれほど浸透していない。日常生活での当番なども口頭で伝えられ、行き違いが起きることもたまにある。その度、リュナは自らフォローに入っていた。 この世界の文字系統は、表音文字として母音と子音に分かれている。それだけならアルファベットと似た物だと考えればいい。しかし文字体系が漢字のような、いわゆる象形文字も兼ねている。 たとえば林檎。appleという単語を例にとる。まず言葉として物の名前があった。そこにりんごの絵を描いてそれをappleと読むようにした。やがて使われていくうちに、林檎の絵に似た文字は「A」と読むようになった。 この二重構造によって、学習難易度は跳ね上がっている。 そして閉鎖しれた建物の中では、文字を書くことも少ない。罪を犯した人間は劣悪な環境にいたケースも多く、おそらくほとんどの人間が読み書きはできないだろう。 だからこそ字を読め、書けるというのは特権階級のみ。この場でいえば聖職者を気取る自分のみという意識がある。その価値をみすみす失うつもりはないが……。 「学びたいと思っている者を集めましょうか」 リュナはここ最近の体調不良も相まって、以前より敬意を、人心を集められずにいる。一方でヴィオは庭仕事や食堂に気まぐれに顔を出してはその場にいた人間と仲良くなっている。まだ聖職者としての立場があるから、かろうじて自分がまとめ役になれているが、今多数決でも取れば、彼にそれをやらせてもいいと考える人間が出てくるかもしれない。 「それならさっそくヴィオと、その周りにいる奴らにも知らせてきますよ。喜ぶでしょうから」 振り向きざまに言葉を残しながら、ケリーが出ていく。最後にリュナに向けられたのは、探るような視線だった。ずる賢い男だ。自分とヴィオのどちらにつくのが良いのか、探っているのだろう。 リュナだって、こんな権力争いみたいなことはしたくない。全て、ヴィオがやってきたのが悪い。唇を噛みたくなるのをぐっと堪えたのは、まだセスが残っていたからだ。 「……何か?」 「いえ……やはり貴方は、清らかで、俗世など気にも留めない姿勢が美しい」 むしろ俗世のことをこれ以上気にしている人間もいないだろう。彼はリュナのことを分かっていない。リュナもセスのことが分からない。かつて感じた甘い空気は既になく、噛み合わない歯車のようなぎこちなさだけが残っていた。

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