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第29話 嫉妬

文字の読み書きを教えるにしても、この世界では、羊皮紙も羽根ペンも貴重なものだ。たとえ主人公がかかわっていたとしても、都合よく棚に補充されるわけではなかった。 リュナが羊皮紙に母音と子音を書く。生徒たちの前で声に出して、読み方を教えながら、一枚の紙を順番に回していく。生徒を希望してきた者は長椅子に座りながら、自分の腿に何度も人差し指で字を書く。そんなことを繰り返した。はっきり言って効率は悪いが、他に娯楽も庭仕事くらいだから、誰も文句を言わない。 「先生、書き方がわかりません」 ヴィオはそう言って、何度もリュナを呼びつけた。 最初は試しにリュナの手のひらに書いてもらった。ヴィオの指先は震えていて、手先の器用さと比べて文字はごちゃっとしている。どの文字が分からないか以前に、何を書いているのな想像もつかない。生まれたばかりの子どもが適当に描きなぐった絵のような筆跡だった。 「まずは誰でも読める字を書きましょうか」 手を重ねて、何度も彼の太ももを字の形になぞってみせる。何度書いてもヴィオの指先は震えていて、なぞった跡は文字にならない。できないと項垂れる彼を見て、リュナは胸が空く思いがした。 しかし次の日、彼はなぜかあっさりと文字が書けるようになっていた。だから質問のために手を挙げても、他の生徒を優先した。 「先生、無視しないで……」 彼は自分の質問が受け付けられないことをじっと耐え、講義が終わった後、とうとう痺れを切らして去ろうとするリュナの服を掴んた。 「人聞きの悪い。僕は手助けが必要な生徒を優先してるだけです。貴方のところにも後で行こうとしていた。そうしている内に時間が来ただけです」 鐘が食事の時間を告げ、他の者は食堂に向かっていった。 「おれだって、気になるところがあったんだもん……」 ヴィオは、叱られた子どものように眉を下げている。 「そうですか?今さらあなたが質問することなどないと思いますけど。だって、貴方は最初から分かっていたんでしょう。ただ字を書き慣れていなかっただけで、頭には入っていた」 今日のヴィオは、既に短文の構成までできていた。リュナは教育に詳しくない。それでも分かる。どれほど頭が良かったとしても、文字を覚えてわずか一日で単語を飛ばし、文章まで書けるようになるとは思えない。 「できるのにできない振りをして、他者からの同情を買う。浅ましい人間がすることです」 「違う……違うよ……」 今度は、家にひとり置いていかれた子どものような顔をする。 「おれ、頑張って覚えたんだ。リュナはいつもひとりで教典を書いてるから。手伝ったら早く終わるかなって。そしたらその分一緒にいられるかなって」 ヴィオを追い詰めて得られるのは優越感だ。しかし隠し事をされていたこと、文字を読めるという特殊な立場をまたもや奪われる羽目になったことが、それだけでは気が済まないと胸に訴える。 もっと痛めつけてやりたい。 湧き上がってきた自分の感情に、リュナ自身、戸惑いはあった。生まれてこの方、むしろ生まれ変わる前にも、誰かに明確な害意を抱いた記憶が無い。だから原因はヴィオにある。そうさせる何かを彼は持っている。 そんな理屈を通すために、頭の中から過去を探る。ふと映像が浮かんだ。反抗すらせず、誰かが誰かに殴られている様子だった。あれは誰だろう。次の瞬間、急にカメラを切り替えたかのように場所が変わる。白い箱の中。病室だった。 ベッドに誰かが座っている。顔は朧気だが、涙の滲んだ声で呟く声がはっきりと聞こえた。 妬んでいたし、羨んでいたんでしょう。 生まれながらに人を惹きつける人間のことを。 だから、アンタは私を……。 続きは聞き取れなかった。ざぁっとノイズが入り、今の世界に連れ戻される。 それでもリュナは確信していた。あの映像は事実だと訴えかける頭痛がするからだ。あの人を病室に押しやったのは自分に違いない。前世の自分ですら、誰かを羨み、妬み、痛みつけていた。 暴力的な感情は、今もまだ自分の中にある。 リュナの考えを肯定するように、痛みが強くなった。 「リュナ、大丈夫?セスを呼ぼうか?」 「うるさいっ!」 自分を心配してくるヴィオの声が頭に響いて鬱陶しい。さっきまで泣きそうになっていたのに、そうさせた本人を心配している。彼にそんな余裕があるのとが癪に障ったから怒鳴った。 もっと悲しめばいい。もっと自分に痛めつけられればいい。 泣けばいいとさえ思っていたのに、見上げると彼は不気味に笑っていた。 「そっか……セスも、誰も、頼れないんだ」 その言葉に、違いを突きつけられたような気がした。ヴィオに、自分の周りには自然と人が集まるのだと、そう見下され、嗤われているとさえ思えた。 怒りに駆られ、思いっきり彼の頬を叩いた。手が痺れる。息が上がる。 もう一度手を振りあげると、彼は手首を掴んで止める。やり返される。そう思って咄嗟に目を瞑ったが、いつまで経っても衝撃は飛んでこない。それどころか、彼はてのひらを撫でてきた。 「赤くなっちゃったね」 そして自らの頬に持っていく。また殴られることを怯えもせず。感じたのは無言の圧だ。ヴィオは、どれだけリュナが愚かな行いをしようと、自分は赦すと言いたいようだった。 その在り方は、リュナが取り繕って演じている聖者とは違う。 彼は心の底からそう思っている。だから自分は圧を感じたのだろう。怖い。気に入らない。陥れたい。目の前の少年を、自分の立場を揺るがすことのない、底の底まで。 彼の視線と体温から逃れるように、リュナは掴まれていた手を振り払った。 「もう大丈夫?痛くない?」 それが頭痛を指すのか手のひらの痛みを指すのか分からなかったが、どちらにせよ答えるつもりはなかった。 優しくしたのに無視される。された方はたまらないだろう。現にヴィオはリュナにかける言葉もないまま、縋ろうとした手をさ迷わせている。もう少し見て愉悦に浸りたいのを我慢し、リュナは振り返らずにその場をを立ち去った。 ヴィオを振り切って食堂に向かう間も、過去がフラッシュバックしていた。まだ映像は朧気で、自分が誰に怪我をさせたのかも分からない。ただ、悔しさと悲しみが綯い交ぜになった感情だけが胸に迫る。 分かったのは、自分は前世の頃から、誰かの視線を欲しがり、それを得たものを嫉妬から傷つける、どうしようもない人間だったということだ。

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