37 / 52
第37話 狂気
「リュナは完全に狂ってしまった」
「あんな人間ではなかったはずなのに」
「いつも思慮深く、優しく、罪人にも慈悲深かったのに」
「あの時の彼を見たか?」
「長い髪を振り乱して。まるで悪魔にも憑かれたかのようだった」
廊下を歩く度、何度も同じ噂が耳に届いた。
うるさい。口を塞いでしまえたらいい。化け物がいたら地下に引きずっていってその口をずたずたに引き裂かせていたかもしれない。
わざと大きく靴音を鳴らせば、それは一瞬おさまる。けれど困ったようにちらりとこちらに目を向けた後、より声を潜めて噂する。閉じられた空間の中で、ようやく手に入れた娯楽を手放したくないのだろう。
危険だから、自分をどこかに閉じ込めてしまえという話も出た。悪人が本性を出した。何かがきっかけで狂ってしまった。そのような声が半々で、どちらにしろ閉じ込めるべきだとおう声が大半だった。
しかし今、リュナはあちこち自由に出入りはできている。
華奢な自分は誰かの不意をつかなければ誰も傷つけられない。だから好きにしろという形だった。
進言したのはセスとケリー、それからヴィオだ。
あの後ヴィオも目を覚まし、ただ自分の不注意で階段から落下したのだと説明した。
けれどセスに向けた暴言は消えない。さらにセスはあの後自らの罪を告白した。だからこそ、罪は神に裁かれ右腕は義手となった。その誠実な姿が、自分への敬意を取り除き彼の株を上げた。
今、この建物の中では、セスとヴィオが中心となっているらしい。それをケリーがサポートしているとのことだった。これも噂で聞いただけで、リュナは実際の現場を見ていないけれど。
ある日、リュナがふらふらと出歩いていると、何かが頭にぶつけられた。髪先と頬を伝うどろりとした感覚。硫黄のような臭い。腐った卵だ。調理当番の時に、わざわざ自分にぶつけるために取っておいたのか。限りある食材を。
ここ数日、噂は何度もされてきた。でも実害はない。自分が存在しない者として扱われているわけでもない。だから傷つかないと言ったら嘘でもたえられはした。しかし直接的な暴力に走られるのは初めてだった。
「誰だ!?」
声を荒らげる。しかし暴挙に出ておきながら、犯人は隠れている。
呆然とした。誰も止めない。それどころか指をさして笑っている。誰かが振りかぶる素振りを見せる。またぶつけられてはたまらない。頭を手で庇うと、より大きな声で笑われた。その場を去ろうとすると笑い声はさらに大きく響いた。
建物の中は見るからに荒れていた。ヴィオにしろセスにしろ、統率を取る気があるのかないのか分からない。もともと罪人の集団だ。ただ規律正しい集団は愉快さを求める群れになったらしい。
彼らはでっちあげた戒律の講義もしない。全員で食事をとることもない。ただ好きなことをして、生きているだけ。リュナは彼らにとって、ただ歩いているだけで、噂を提供し、腐った食べ物を投げつけてもいい娯楽に成り下がった。
どうして。お前たちには何もしていないのに。
振り返って、大声で罵ってやろうとしても声が出なかった。
人は自分に害をなす可能性がある相手になら、例え何もしていない人間にでも、どこまでも残酷になれる。
そのことは自分が一番よく知ってるじゃないか。
ヴィオにしたことが頭の中を駆け巡る。
後悔も反省もしていない。ただ自分が被害者側に立ったことを嘆いているだけ。そんな自分が一番醜悪なことは分かっている。
醜悪という二文字で、リュナはふと思い出した。全て上手くいっていた頃を回想するように。
あの化け物もまた、醜悪だった。
会いたい。傷の舐め合いで構わないから。
リュナを地下に閉じ込めようという話も出ていたらしい。
誰にも見てもらえないのは嫌だ。自分がいない存在のように扱われるのは耐えられない。そう思って抵抗した。
しかし、好奇と軽蔑の視線にさらされた今、地下はとても居心地のいい場所に思えた。
だってあの化け物は決して自分をそんな風に扱わない気がした。リュナに懐き、リュナを思って動いてくれる。化け物を見つけられるまで、地下を探してみてはどうだろう。
ともだちにシェアしよう!

