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第39話 醜悪

自分の腰を掴んでいた指の感触が消える。 出ていったはずのケリーが引きずられている。 先ほどまで自分をいたぶって悦に入っていた男が、馬乗りにされて殴られている。 セスがリュナの頬を打った時の音とは完全に違う。骨を砕こうとする音、人間を壊そうという音だった。 リュナは裸のまま、呆然とその凶行を見つめることしかできなかった。何かがひしゃげる音がしたと思ったら、続いて悲鳴が耳に入る。それから血と一緒に何か小さな欠片がこちらに転がってきた。真っ赤だったから、それが歯だなんて気づけなかった。殴っているうちに折れたのか、それとも手を突っ込んで引き抜いたのか。どちらにせよ、痛みは想像を絶するほどだろう。男は何度か大きく痙攣した後動かなくなった。気絶しただけだと信じたい。 男の悲鳴や命乞いが途切れたのを確認してから、彼はその腹から体を退かした。この小柄な体躯によくあれほどの力があったのだと思う。 やがて彼は自分に近づいてくる。布を投げて寄こしたのはそれで体を隠せということだろう。 暴力を振るうことに躊躇いも、振るったあとに反省も見られなかった。いつかの庭仕事と同じだ。やるべきことをやったのだという淡々とした仕草で手についた血を拭う。そこにはひと仕事を終えた徒労感すらあった。 「許せないな」 彼がそう言いながら手を伸ばしてきた時、反射的にリュナの体をすくんだ。彼が自分に酷いことをしないという保証はない。 「おれはね、君を連れてきてほしいって言っただけなんだ。薬だって使っていいって言った覚えは無い。なのに……こんな……」 ヴィオは悔しげに拳を握る。それ以上握りこんだら血が出るほどに。 リュナは、助けられた安堵以上に恐怖が勝っていた。自分に酷いことをした嫌な奴が嫌な目にあって、彼はいい気味だとは思わないのだろうか。たとえ呼びにいかせた自分に責任を感じて、罪悪感を覚えていたとしても、どうしてそこまで憤れるのだろうか。 「怖かったよね……苦しかったよね……」 爪痕のついた手のひらが、リュナの頬を撫でる。甘い香りがする。嗅ぎ覚えのある、彼がくれた花と同じ、あの男たちが自分に使った薬と同じ香りだった。 「や、だ……」 先ほどの映像と感覚がフラッシュバックする。嘲笑の声。異物感しか与えない指。蹴られた痛み。脳の不快と体の快楽。 「いやだ……っ、助けて……だれか……だれか……!」 逃れるように思いっきり身を捩った。立ち上がろうとして足がもつれ前のめりになる。転びそうになったところをヴィオに抱きしめられた。 「ごめんね。もう大丈夫だから」 「いやだ……っ!触らないで……もうやだ……やだぁ……っ!」 その腕の中かな ら逃れようとする度、込められる力は強くなる。ふと緩んで、やっとこの湿った人肌から抜け出せる。そう思ったけれど、固定される場所が体から頭に変わっただけだった。 「んぅっ……!」 何かを考える余裕もないまま、乱暴な口づけの感触がある。唇の隙間をぬるりと舌が這い、乱暴に口腔を犯した。 落ち着かせる意味なんてない。むしろ息を整える暇も与えない。酸素を奪っているんじゃないかという錯覚があった。 「ん、ふ……っ」 たまらなくキスしている。そう思えるほどの衝動が、彼からは感じられた。 どうして? きっと、僕が可哀想だからだ。 可哀想と可愛いはどこか似ている。そんなドラマの一節を思い出した。あれは姉が出演していたドラマで。 でもアンタは、全然可愛くないのね そんな姉の言葉と一緒に。 「……殺してやる」 だから、唇が離れた後に、そんな言葉が口をついて出た。 ずっと、自分は視線が欲しかったのだと思った。次に、唯一無二の存在を探した。 自分を認識し、肯定してくれる誰かを欲した。 なのに、このキスは自分が欲しかったものじゃない。まとわりつくような視線も違う。嘲りと哀れみと情欲なんていらない。かといって、欲しかったものが今更手に入るとは思えない。 ならば、全部いらないと思った。自分をいらないと言った世界と、世界をいらないと自分に言わせた者たち。全部をめちゃくちゃにしてやろうと思った。 そんな小さな呟きと決意は、目の前の彼には伝わらない。聞こえなかったのだろう。潤んだ瞳でしばらく見つめ合ったあと、再び唇を重ね、舌を差し込もうとしてきた。柔らかいそれが奥までねじ込まれた感触を確認し、思いっきり噛む。千切れてもいいと思った。 「……っ!」 この血の味を彼も感じているだろう。 「殺してやる……殺してやる……!」 今度は叫んでいた。耳の奥がびりびりと震えて痛い。それでも構わなかった。 「お前ら全員、殺してやる……!」 ただそうあるように生まれたからと決めつけられて、望んでいた座からは引きずり下ろされて。悔しい。理不尽だ。そんな心の叫びを強い言葉で打ち消す。 ヴィオは人では無いものを見る目。リュナにもその自覚はある。とんでもない形相をしているだろう。普段の慈しみは彼方へいった。そうまでしてもこの憎しみを表に出さずにはいられなかった。 「同じくせに……お前らみんな、僕と同じくせに……」 誰もが醜悪で、ここにいた化け物と大差ないくせに。だって皮を剥げば同じ肉塊で心は欺瞞だらけだ。ヴィオだってそうだろう。リュナに向けている浅ましい眼差しで分かる。決して綺麗なものじゃない。それを主人公という立場で覆い隠しているだけだ。自分が演技で神の遣いを気取ったように。 なのにヴィオはまた自分を抱きしめた。声が枯れても叫び続ける自分と、そんなのはお構い無しに抱きしめ続ける彼。もうキスをすることはない代わりに、互いに縋り付くように抱き合い、自分はその背に爪を立てた。

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