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第51話 母

この頃になると、母も姉に逆らえなくなっていたように思う。ふたりの間に何があったかは分からないが、家族の中での曖昧だった序列は、一気に露呈した。リビングにいる姉の前では、ソファにも椅子にも座れず、ふたりして床に正座するのが常だった。 「ねぇ、静和がまたやらかしたんだけど」 この時、自分が何をしたかはもう思い出せない。ただ、買い出しを忘れたか何かで姉の癇に障ることをしたのは確かだった。 「お母さんの育て方が悪かったんじゃない?あ、育ててないか」 優しく詰る最中に、電話が着信を告げた。ディスプレイに表示された名を見て、姉は上品な顔に似合わない舌打ちをする。 「またあの監督……ほんっとウザい。自分の孫みたいな年齢の女によく興味持てるよね。でも断って角が立つのも嫌じゃない?」 行ってきてよ、と姉は母に言う。 「年齢差もそっちの方がまだマシでしょ」 「あの人は……」 母は怯えながら、何度も首を横に振る。 「ああ、前に私が行けなかったとき、嫌なことでもされた?首絞めながら失禁させるのが大好きな変態野郎だもんね。でも、私にそんな奴の言う通りにしろ、大人しく行けって最初に言ったのはお母さんじゃん」 自分には分からない話だ。そう思って静和が俯いていると、髪を掴んで顔を上げさせられた。 「本当はこっちに行かせたら良かったんだけどさ」 実際、少し前に姉の代理で行かされたことはあった。 「前に何て言われたんだっけ?」 「……本当に双子?って。似てないね、お姉さんみたいな華がないねって」 「それだけ?」 「ま、待ち合わせの時……どこにいるのか分からなかった……このまま帰ろうとしたら、男の子が「僕です」って言うから……思わずチェンジって叫んじゃった……あんな幽霊みたいな子見たら萎えちゃったし……って」 静和に全文を喋らせた後、思わずといったように姉は手を叩いて笑う。 「そうそう、あんたが行くと、みんなそう言うんだよね!チェンジしてって。だからこういう時、お母さんになんて言うんだった?」 「……僕の代わりに行ってください」 上からの重圧に押し負けるように、静和は額を床に擦りつけた。 「違うでしょ?もっとはっきり言わなきゃ。頭悪いなぁ」 彼女が自分に言わせたいことは分かっている。でもそれを口にしたら、本当になってしまうと思った。受け入れたくない現実が降り掛かってくると思った。 「ほら、言って?」 なのに姉は有無を言わせない。顎を捕まれ無理矢理口を開かされる。 「……僕は誰からも好かれません。見つけられないほど影が薄いです。……それどころか性的な関心も抱いてもらえません」 「誰から?」 「姉さんの知り合い……」 「そう!男でも女でもいける発情期のおっさんにすら相手にしてもらえなかったんだよね。可哀想!きっと誰にも相手にしてもらえないよ!そういうのってなんて表現すればいいと思う?あんたの頭でわかる?」 「せ、生物として終わってる人間……」 この言葉は、静和が姉の思い通りにならない度に、徹底的に叩き込まれた。 「だ、だから、まだ生物としてまともなお母さんが行ってください……お願いします……」 「はい、よくできました」 姉が自分を見下ろす。視線はつむじから首を辿り、やがてある一点で止まる。 静和自身にもよく分かっていないが、そうなることは。思春期に入ってから度々あった。性的なことを喚起させる言葉。それと誰かの視線。ふたつを条件にして股間が膨らむことがある。そしてそれを滑稽に思っている自分もいる。体と心がちぐはぐでどこか壊れているようだった。 「……キモ。性欲だけは強いんだ。誰にも使われることなんかないのにね」 そう言って、姉はそこを思いっきり蹴っ飛ばした。呻くことすら許されない気がして、静和は芋虫のように床に丸まった。

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