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第52話 支配者

姉に微笑まれた時の、惨めさがじっとりと肌にまとわりつく感覚。彼女が声を上げて笑った時の、内側から自分がずたずたにされていくような気配。 それらを体が感じ取るようになってからしばらくして、同年代の少女と接すること自体が難しくなった。この年頃は皆、教室に爽やかな風が吹き込むだけで微笑むし、風がカーテンを揺らすだけで声を上げて笑うから。 その光景が目に入る度、体が緊張で強ばる。できるだけ見ないで済むよう、前髪を伸ばし続けた。それを悟られないよう、休み時間は机に突っ伏すようになった。 「吉永くん」 いつだったか、同じように過ごしていると、クラスメイトの女子から声をかけられた。名前は覚えていない。明るく文武両道で、クラス委員も務めている。そんなところが姉と少し似ている子だった。クラスメイトの男子たちは彼女を目で追っていたけれど。静和はそんな理由から、できるだけ彼女を視界に入れないようにしていた。 「ご、ごめん。え、えっと、なに?」 家族以外に久々に発した声は掠れていた。そしてこの頃には、第一声で謝る癖がついていた。 「世界史のノート、あと出してないの吉永くんだけだから」 前を見る。日直の欄に彼女の名前が書かれていた。 「わ、わかった。はい、こ、これ……」 差し出したノートをひったくるように彼女は奪い、持っていたクラスメイトたちのノートの山に置いた。そして何も言わずに去っていく。 「あー、キモかった」 待っていた同じグループの女子に、小声で話していた言葉を耳は拾ってしまった。 「前髪長すぎでしょ。顔わかんないと余計キモいっていうか、ウザい?」 「ま、いいや。ノートは貰ったし。あんな奴と関わること、そうそう無いでしょ」 陰口は彼女たちの連帯感を高め役割を担っているようだった。そのまま連れ立って廊下へ出ていく姿は、どこか楽しそうだ。 一方で静和の中には、姉から言われていた言葉がこだましていた。 ――――きっと誰にも相手にしてもらえないね。 頭の良い姉が言うことは、いつだって正しい。 姉は学校にはあまり行けなくても、頭が良かった。姉とふたり、リビングで夜中に宿題をしている時なんか、彼女はもう終わっているのに、静和はずっと手こずっていた。 そうしていると、彼女は静和の手元を、笑顔で覗き込んでくる。 「大変だね」 「お姉ちゃんほどじゃないよ」 「そっか。本当に馬鹿だもんね、静和は」 姉は静和を時おり名前で呼んだ。普段はあんたなのに。誰にも呼ばれず、自分ですら自分にどんなラベルが貼られた人間なのかを忘れた時に限って、名前で呼ぶのだった。 「……っ」 姉の言葉に上手く答えられないでいると、キリキリと太ももが痛む。学習机の下で抓られているからだ。姉はネイルをしているが、ごてごてした装飾は付けていない。普通の爪より少し長いくらい。とても長くするよりは、それが姉に似合っていると思っている。淡いピンク色のグラデーションが、彼女の爪をつるつるとして見せている。指先にだけ、キラキラと光る飾りがついていたのを覚えている。抓られると綺麗な爪が皮膚に刺さった。こんなに痛いのに、どうして血は出てないんだろうと不思議に思う。でも、明日の今頃には痣になっているだろう。 テレビではドラマがやっていた。サスペンスらしく、誰かが必死な顔で叫んでいる。 ――――逃げてください! 逃げるって、どこに?逃げたところで助けてくれる人はいない。困っている自分に親身になってくれる人はいない。姉のように、微笑みかけてくれる人だって。 たとえ繋がりが暴力によってであっても、自分の唯一無二でいてくれる人だ。 隷属を誓わざるをえなかった。そこに羨望も嫉妬もなかった。吉永静和ごときが彼女を羨もうなんて、彼女に逆らおうなんて、ありえない。

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