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第54話 台無し

病院で、ふたりから突っかかられることになった。 最初は待合室で母から。両肩を揺さぶられ、大声が鼓膜を震わせる。 「アンタのせいよ!なんてことしてくれたの!全部台無し!この疫病神!アンタが代わりに死ねばよかったのよ」 静和よりも、怒鳴りつけてきた母の方が息を切らしてい。泣いてはいなかった。怒りで肩を震わせていた。 「私がいったい、何のために耐えてきたと……」 それと同時に、戸惑っているようでもあった。夢半ばでハシゴを外された諦めと、姉の支配から解放されるという安堵に。 ふたりめはもちろん、病室のベッドで寝ていた姉だ。 後ろから落ちていったわりには、咄嗟に受身をとろうとしたのか。強くぶつけたの後頭部ではなかった。それでも怪我は怪我で、こめかみや頬に傷があり、何針か塗ったらしい。医者が母に神経とか傷跡とかの話をしていたが、静和には教えてもらえなかったし、聞いたとしてもよく分からなかっただろう。ただ、顔に傷は残るかもしれない。そんな言葉を聞いて、母は錯乱したようだった。 「あんたが突き落としたんでしょ」 今までで一番低い、唸るような声がする。 最初は胸ぐらを掴まれるのだと思った。しかし彼女の両手はそれより上に向かい、静和の首を絞めた。 「ずっとこの機会を狙ってたんだよね?妬ましかったんでしょ。顔に傷が残ったら女優なんてできない。それを狙ってたんだ!」 姉は唸りながら泣いていた。 それを見た静和に湧き上がってきたのは、「やっぱり」という気持ちだった。 姉は静和の感情を、妬ましかったと断定した。そこに恨んでいたという意味合いはない。自分が絶対だと思っているから。弟に対しては当然の扱いをしただけで、悪いことをしたとは思ってないから。 「……ち、がう……!」 ひしゃげた声で静和が言い返すと、彼女は驚いたような顔をした。手の力が緩む。空気が一気に入ってきて咳き込む羽目になった。 姉に何か口答えをしたのは久しぶりだった。 「僕は、突き落としてなんかない……!」 ただ、落ちるのを見ていた。それだけだ。 その中で自分が訴えたいのは、突き落とすほど姉を憎み妬んでなどいないということか。それとも感情だけで命にかかわることに手を染めるほどの人間では無いということなのか。 「嘘つき!嘘つき嘘つき嘘つき!」 姉が何度静和を詰り揺さぶっても、「僕はやっていない」としか言えなかった。 「絶対に許さないから!」 そんな姉の言葉が耳奥で何度もこだまする。 静和が反抗したのは、悲しかったからだ。姉は自分を見ていてくれるんじゃなかったのか。見て、知っているから、静和がざっくりと傷つく言葉を用意できたんじゃなかったのか。自分のことをよく見て知っているなら、突き落とすはずもないとどうして分かってくれないのか。 母も姉も静和の言うことが真実だとは思わない。信じてくれない。顔に傷がつき、文字通りそれが女優人生の致命傷となったことを嘆いている。 姉は、これからもっと輝かしい人生が待っていたのにと。 母は、夢を託し実の娘からの罵倒に耐えてまでここまでやってきたのに。全てが台無しだと。 そしてそれは、静和が姉の背を落とし突き落としたからだと。 傷跡ははっきりと残るほどでは無いという。しかし、それでも、女優というのは続けられないものなのだろうか。端役でも、ただ舞台に立つことすらもできないのか。 誰にも信じてもらえない中、静和はぼんやりとそんなことを考えていた。自分が行けなかった世界のこと。これからもかかわることのない、華やかな世界のことを。 滲んでいく世界の中で、姉の「絶対に許さないから」という声だけが響いていた。

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