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第55話 社会

出て行ってと言われたのか、自分から出て行ったのか、もう思い出せない。引越しにしては少ない荷物。不動産会社や就職先の、諸々の契約のため母に判子と署名を頼んだ書類。それだけは覚えている。そして、これらは窓の外を流れる景色にかき消されていく。 高校を卒業してすぐ、静和の就職と引越しは忙しかった。 姉も母も何か言っていた気はするが思い出せない。 その頃にはもう、誰も本当に自分を見てなどくれないのだと理解していた。諦めたら、自分が本当は何が欲しかったのかも忘れてしまった。 静和が就職したのは、マイナー寄りの、しかしそこそこの出版社だ。そこで事務――――というよりは、雑用をすることになった。 そこは、少し前に出版した漫画が社会現象とは言えないまでもそこそこの大ヒットを記録していた。それを一大コンテンツとして育てあげるため、映像、舞台、ゲームと様々な事業を組み込んで、会社は大きく膨れ上がっていく。静和が面接を受けたのは、その途上のことだった。 志望の決め手は、雇われればすぐにでも働けることだった。それに会社と提携している不動産があるからと、部屋も手頃な価格で借りることはできた。勤務形態はアルバイト。保証がないことで嘆かれる将来の不安も、静和には無い。むしろ、いつでも、どこにでもいける。しがらみがない。そちらの方が、長年の家族から解放された静和にとって、ひどく魅力的に思えた。 学歴経験関係なく、とにかく誰でもいいから人手が欲しい。面接時にあけすけに、むしろどうでもいいように謳われた求人文句の通り、新社会人もどきの静和は、さらに忙しくなった。 なんとなく事務は机に向かい合ってひたすらキーボードを叩いていると思っていた。そんな予想はすぐに裏切られる。何人もの編集者が名刺の整理を頼みに来る。来客にお茶を出さなければ行けない時もある。もちろん書類の作成や整理も並行する。時には上司の机の整理整頓を頼まれたり、必要書類を出していない人のいる部署へ、経理や人事の代わりに催促しに行ったりした。 そして愚鈍な静和は、そんな仕事をする度に上司である阿掛稜太(あがけりょうた)から怒鳴られるのだった。 ――――どうしてそんなに時間がかかるんだ! ――――要領が悪すぎる! ――――ちゃんと考えてから動け! 言っていることはどれももっともだったから、静和は頭を下げて「すみません」と言う。するとまた、「誠に申し訳ございませんだろうが」と怒られる。 そんな毎日だったから、周囲の社員は自分がいつ辞めるのかと噂していたらしい。堪えていなかったといえば嘘になる。それでも、上司は自分を見てくれている。だから注意ができる。そう思えば救われる気持ちがあった。ここに仕事がある限り、それは自分の居場所があるのと同義になる。働き過ぎてしまう人間がニュースで話題になっていたが、家にテレビもなく詳細も分からないので、なんとなく自分と同じなのかなと考えていた。 その日も、いつもと同じ。出社して、作業して、怒られて、作業して、帰る。ベルトコンベアに乗せられたような毎日に、特に不満はなかった。 「いつも俺が言ったらすぐ出せるようにしとけって指示しただろうが!たかが名刺ひとつでこんなに時間かかっちゃってさぁ!」 「誠に申し訳ございません」 「なんだその慇懃無礼な物言いは!」 その日も怒られていると、後ろから噂話が始まる。 「やだやだ。また始まったよ。課長の若者いびり」 「ああやってストレス解消してんのかね」 「彼もぺこぺこ頭下げてばっかり。だから課長が調子乗るのよ」 「っていうか、あれでよく辞めないよね」 「無表情だし、本当に悪いとは思ってないのかもね」 それぞれ思うところがあるのだろうが、直接自分たちに声をかけられることはなかった。 「課長、俺の資料も見てくださいよ。こっちのが急ぎなんで」 ただひとり、新しく入ってきた梶原依央を除いては。

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