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第56話 大丈夫
梶原依央は、背の高い男だった。だからこそ一目見ただけで目を引いた。いつだったか、「随分と背が高いわよね」と昼休みに給湯室で世間話を振られていた気がする。
「何かスポーツでもやってたの?」
「いえいえ、万年文化部ですよ」
そんな言葉に、周囲の女性陣たちが「えー、意外!」と声を上げる。
「ほんとに、それに昔はチビだったんで。高校に入ってすぐくらいに急に伸び出して、ずっと成長痛に呻いてましたよ」
痛々しい成長期の話だが、語る彼の声音はどこか楽しげだった。
「さては、悪い思い出ってわけじゃないわね」
問い詰められて、観念したというようにぼそっという。声に照れ臭さが滲んでいた。
「当時、同じ部活だった彼女が、世話焼いてくれて……」
「えーっ!?」
「もっと聞きたい」と歓声が上がる。
「結局、大学進学でその彼女とは別れちゃったんですけど、いい子でした。自分の世界を持ってて、それを表現することが好きで。美術部だったのも、絵を描いてる彼女の横顔をずっと見ていたかったからですし」
だから、背が伸びた後にいくつか来た運動部の勧誘も断っていたと彼は締めくくった。
つい盗み聞きみたいな真似をしてしまった。時計を見るとあと5分で昼休みが終わる。午後からは会議が入っていた。出席者分のお茶を用意しなければ。いつももたもたしてしまうから、静和は早めに動くことを心がけていた。なのに、彼の話は最後まで聞いてしまった。たいした話じゃないのに。照れくさそうにはにかむ表情。過去を懐かしむ声音。聞いていたい、見ていたいと思わせる魅力が彼にはあるのだろう。
明るくて、気さくで、主人公みたいな男だとぼんやり思った。あるいは、彼女がいた話を聞くに、誰かに選ばれ愛されるために生まれてきた、少女漫画のヒーローか。
その日の仕事終わりに、梶原依央は話しかけてきた。彼とは自分の一方的な盗み聞き以外に接点などなく、どうして自分に、という胡乱な気持ちと、昼の盗み聞きを咎められるかもしれないという罰の悪さがあった。
しかし顔を上げてみると、誰にも向けられたことの無い眼差しと目が合う。上司である阿掛に前髪を切れと怒鳴られてからというもの、目を隠すことが出来なかった。だから、一度合ってしまえばそらすこともできない。
「大丈夫だった?」
彼の質問に、静和はどう答えたものか考えあぐねる。大丈夫とは、なんのことだろう。今日もいつも通りの一日だった。静和の進捗の悪さが、彼に影響を与えることを懸念しているのだろうか。だとしたら大丈夫と答えたいが断言はできない。こういう優柔不断さが、また阿掛に怒られる原因になるのだろうと思考はあらぬ方向へ飛んでいく。
だから微塵も考えなかった。彼が心配しているのは静和本人であるということに。向けている眼差しは、慈悲や優しさといった柔らかいものであるということに。
固まってしまった静和に依央はそっとフォローを挟む。
「ごめん。もう思い出したくないことかもしれないけど……今日の阿掛さん、いつもより当たりが強い気がしたから……」
「そう……でしょうか……?」
上司の様子の違いなど分からない。ただ自分が怒られていたという事実しか頭になかった。それだけで精一杯だった。
「いつもだって言いすぎだと思ってるし、なんなら俺からもっと上に……」
「やめてください……!」
震えた小さな声だったのに、人がいない、定時を過ぎたばかりの廊下では大きく響いた。
「いいんです。僕に原因があるから怒られてるだけなんです」
だから、せっかくできた職場という場所を、取り上げないで欲しい。
「……それに、怒ってもらえるだけ、まだマシだと思っています」
自分が存在しないかのように振る舞われるよりは、感情の捌け口にされる方がずっといい。
「何も言われなくなったら、本当に終わりですから」
彼の話がこれで終わりなら、もう帰ってもいいだろうか。雇用形態と残業代の問題で、あまり残っているとまた怒られてしまう。
「で、でも……!」
裾を掴んで引き止めてくる。手元を見ると、自分の皺だらけのシャツとは対称的に、彼のぴっしりした真っ白なシャツの袖に見入った。
「あの時、吉永さんは泣きそうな顔してた。だから心配で……お節介だったら、ごめん」
掴まれた方とは反対の手で頬をむにむにと触ってみる。泣きそうな顔というのは、どんな表情なのだろう。
「……お節介ではないですよ。周りをよく見ているだなと思っただけで」
最後まで、梶原依央相手に敬語は崩さなかった。いくら年が近くても、彼は社員で、自分はバイトだ。口答えだと思われないようにしなければいけない。
「見てますから、俺」
彼はまだ何か自分に伝えたいことがあるようだった。でも何が言いたいのか分からないし上手く促すこともできなくて、しばらくの沈黙が生まる。斜め上を見る。彼の耳が少し赤くなっている気がした。
「吉永さんのこと、見てます。上に言われたくないなら、言いません。でも見てますから。愚痴でもなんでも、言ってくださいね」
そこまで言ってようやく、彼は静和の皺だらけの袖から手を放した。
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