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第62話 頑張ってるよ

静和にとって、依央はよく遊びに行くようになった、初めての友だちだ。それ以上でも以下でもないし、自分がそれ以上を求めてもいいと思えない。 なのに何を期待しているのか、メッセージが来るだけで胸が痛くなった。嫌な痛みじゃないのに、慣れてなさすぎて、夜、寝る前は枕に顔を埋めてよく分からない声を出した。 その日は、静和とふたりで飲んだ帰りだった。一日中曇りだろうとタカをくくっていたら、急な雨に降られた。居酒屋からは静和の家の方が僅かに近い。狭くて古いアパートかつユニットバスだが、依央に風邪をひかせるわけにもいかない。 「先に静和が……」 「ぼ、僕はあとでいいから……明日、企画のミーティングあるって……風邪ひいちゃだめだろ」 そう言うと、依央はあっさりと引き下がった。 お風呂上がりは好きにくつろいでいていいと言ったが、狭い部屋だ。依央は普通に座って待っていた。 近くに座ろうとしたところで、「こっち」と胡座をかいている膝の上を叩いていた。ここに座ってほしいということだろうか。雨に濡れてまだ寒いとか、人肌恋しいから静和でも構わないからいてほしいとか、依央のことだからなんとなく理由があるんだろうなと考えて、静和は素直にそこに座る。 「ほんと、そういう……」 困ったような声だった。 「……?」 「いや、無防備だなって思って」 「あ、ごめん……重かった、よね……」 「いや、退けって言ってないよ?素直だなって思っただけ。こっちの問題だから気にしないで」 それから、膝に乗ったまま、髪を乾かされることになった。ずっと自分で洗って、自分で切って、美容院なんて行ったことがなかったから、誰かに頭を触られるのは記憶にある限り初めてだ。髪を梳く指が気持ちよくて、少しうとうとしてしまう。気づけば彼の胸にもたれかかっていた。 「静和、全然軽いじゃん。もっと食べた方がいいよ」 「そうかな……?」 むしろ、依央から夕食に誘われるようになってから、肉がついたように思う。このままぷにぷにになっていったらどうしようと考えていたくらいだ。 食べないままの方が、彼は心配して、もっと自分を見ていてくれるんだろうか。そんな無粋な考えが思い浮かぶ。 「静和はさ、話しかけてこないよね」 依央が髪を乾かしながら、ふと思い出したように言う。静和は人とあまり話さないから感覚が鈍っているのか、人の声を聞きとることも苦手だった。でも依央の声はドライヤーの音に掻き消されることなく耳に入ってくる。こういう音を心地いいというのかもしれない。 「でも、俺から話しかけたら答えてくれるし、挨拶はしてくれるし。こうして夜遊ぼうって言ったらたいていOKしてくれるよね」 「うん……」 「もしかして、俺が無理に誘ってたんじゃないかなって思って」 違う。少なくとも自分は楽しんでいた。 「……僕、嫌そうな顔してた?」 辛気臭い顔をしていると姉に言われたことを思い出す。 「ううん。俺のくだらない話も笑って聞いてて……だから不思議だった。静和の企画が俺の名義になって、いい段階まで来て褒められることも増えてきてさ。憎いでしょ。人の手柄横取りしやがってって。恨まれても仕方ないし、一発殴られる覚悟はしてた」 「……そんなこと、しないよ。自分の仕事じゃなくなるって聞いた時は、ショックっていうか……悲しい?ううん、そこまで強い気持ちじゃなくて……なんていうんだろ。もやもやするけど、しょうがないなって」 言葉にするのは相変わらず下手なままだった。それでも、依央が疑問に思っているなら解決したいと思った。 「だから、自分から話しかけたり誘ったりしないのは、苦手なだけで……」 まず、静和自身が、自分にそんな価値は無いと思っている。次に、依央から拒絶される可能性を恐れている。 そしてそんな自分を惨めに思った。こんな告白をされても、依央は戸惑うだろう。それに、静和はそんな人間なんだと、なぜか依央にだけは思われたくなかった。 そして、そう思う自分はなんて傲慢なんだろう。だから毎回、依央にばかり誘わせてしまっている。自分が苦手なことを相手にさせようなんて。自分はそんな偉い立場だったろうか。 「ごめん……」 彼の顔が上手く見られなくて俯いた。握る拳が震える。 「俺の方こそ。静和はたぶん、人といるのが苦手なんだね」 髪を撫でていく手が離れようとする。離れて欲しくない。 「なのに俺の誘いは毎回受けてくれてた。頑張ってくれたんだ」 驚いて俯いていた顔を上げる。手は離れていかず、頭を撫でていた。 「苦手だからって人にさせて。ひどいとは思わないの……?」 「人によって得意なことは違うし。やりやすいなって思う方がすればいいよ。そのかわり俺の苦手なことは静和がやってくれたら嬉しい」 彼にも苦手なことが存在してるのか。 「料理とかできないんだよね、俺」 「僕もそんなに作れないけど……」 「そんなにどころか、根本的にできないんだよ。カレー焦がしたことも爆発させたこともある」 面白くなってちょっと笑った?なんでも余裕そうな彼が焦がしたカレーを前に慌てふためく様子を想像したから。 「……やっと笑った」 安心したように彼も笑う。おまけにほっぺをむにむにと掴まれる。薄膜のようにあった遠慮は安堵にかき消された。 「まずいこと言ったなって思ったから」 「……そんなのは、全然」 全ては静和側の問題で、彼には何も悪いところがない。全部、どう足掻いても改善されず俯いて諦めるだけの、何も生まない日々を生きてきた自分の責任だ。 そんな自分の頭は、さっき掛けられた言葉を何度も反芻している。 ――――頑張ってくれたんだね。 たくさん話した彼の、たった一言。それだけ。 それに自分は頑張ってなんていないんだと思っていた。ただ耐えていただけ。耐えて、ひとりで何も動かなかっただけ。世の中にはもっと苦しい虐めだってある。親に殺される子供だっている。それと比べたら自分が耐えていれば終わるのだから。姉の方が大変なんだから。 「えっ、あれ、俺なんか変なこと言った!?」 気づけば、静和はぼろぼろと泣いていた。零れるとか流れるとかじゃなくて、ほんとうにぼたぼたと落ちていく涙が、彼の部屋の床を濡らしていた。 「僕、頑張ってるん、だっけ……」 おろおろする彼を余計困らせたくなんかないのに。また反応に困ることを言う。そして相手のことを考えずそんなことを言えてしまう自分だから、今まで友だちのひとりもいなかったのだと我に返る。 「ちょっと、失礼します……」 その時、背中に手を回された。そろりと撫でられる。優しい手だった。 「頑張ってるよ」 そのたった一言だけで、この人が好きだなと、静和はそんな無謀なことを思った。 「……僕、変わりたい」 初めて自分からそう思えた。友人だと依央の隣で胸を張って言える自分になりたい。 「頑張ってるし、それはいいことだと思うけど……無理しなくてもいいからね?」 静和の抱いた目標が高すぎるからか、依央は困ったように笑っていた。 「でも俺にどんどん話しかけてくれるのは、大歓迎だから」

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