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第65話 転落
最後の総仕上げの期間ともなると、帰宅が遅くなる日が続いていた。同じ部署の人たちが帰っても、依央は会社に残っているのだろう。彼の家で、もしくは近所の店で夕飯を一緒にと思っても、帰宅時間は読めず、なかなか会えない日が続いた。
その日も、静和が先に帰ることになった。また会えなかったと思ったところで、自分にも差し込みの業務が舞い込み、残業することになった。
静和が作業を終えると、最近の依央にしては珍しく、既に会社を出た後だった。まだ追いつけるかもしれない。駅で少し話すことならできるかもしれない。
急いで駅に向かうと、百貨店の地下入口の前で彼を見つけた。初めて自分から話しかけようと思った。
躊躇ったのは、無視されるのが怖かったからじゃない。静和も彼には大切にしてもらえている自覚が芽生えていた。もう少しすれば、今の曖昧な関係から恋人になれるのではないかと期待していた。
そろそろ百貨店も閉まり始めている。人も帰宅ラッシュの時ほどじゃない。だから嫌でも目に付いてしまった。
彼は何かを買った帰りで、隣には女の人がいる。ここからではどんな関係か分からない。友人だろうか。自分が知らないだけで、姉妹でもいたのだろうか。元カノと偶然会ったという可能性もある。それくらい距離が近かった。
ただ、静和の中で何かが引っかかる。相手が誰か確かめないといけないと思っている。
髪の長い人だった。腰ほどまである髪を、綺麗に巻いている人だった。顔ははっきりと見えないが、清純派の女優として売りに出されていても、何の違和感も無いような――――。
姉かもしれない。
どうして突然そんなことを思ったのだろう。
長い黒髪だったから?着ているのが彼女のお気に入りのワンピースに似ていたから?
もしそうだったら。
また全部姉が持っていくのだろう。母の夢と同様に。自分が欲しかった視線を一身に集めたように。
――――絶対に許さないから。
最後の会話でそう呟いた彼女を思い出す。金切り声でも怒鳴り声でもなく、地の底から響くような声だった。
皮膚が粟立っていく感覚があった。近づきたくない。近づいちゃいけない。だって、彼に親しそうに近づいているのが彼女だと分かったら、今度こそ自分が何をするか分からない。
そうだ、傷跡。こめかみ一生残ると言われていた彼女の傷。それだけが確認出来ればいい。
決して気づかれないように近づこう。静和には存在感なんて初めからあってないものだから、簡単にできるはずだ。なのにどうして心臓がうるさいのか。
閉店間際のはずなのに。百貨店の照明が眩しい。どうしてだろう。眩しいはずなのに、なんで見えているんだろう。彼女の白い肌に刻まれた傷跡が。
その女性は、間違いなく姉だった。
その傷を確認した途端、静和は踵を返し、一心不乱に駆け出す。その場から逃げなければと思った。姉と離れたかった。依央が姉と楽しそうに話しているところを見たくなかった。昔以上に、自分がどうにかなってしまいそうだった。
なのに走り出した途端、自分を撫でる視線を感じた。刺すほど鋭くはない。ただ見つけた、そんな視線だった。
逃げなければ。その視線が誰のものであったとしても。そんな思いに追い立てられ、静和は構内を走る。
人混みを縫って、時には肩がぶつかり怒鳴られながらも、必死になって走った。もう少しで改札が見える。どうしてかは分からないけれど、改札に入ってしまえば救われるような気がしていた。
この階段を降りれば、すぐそこに改札がある。そうして一歩踏み出す。踵が上手く着地できずに滑っていく。落ちていく。長い階段だった。姉があの日落ちた、アパートの階段を思い出す。あの時、これくらいの高さから落ちていく姉を見つめていた。今落ちているのは自分の方だ。
これが報いだろうか。どうして?
僕は報いを受けなければならないことを、何か犯した?
していない。僕は何も。ただ姉が信じてくれなかっただけで。
「そうね。あんたは何もしていない」
階段の手すりに姉の幻を見た。
「落ちていく私を見ても、何もしなかった。だからこれは、その報い」
そっか。やっぱり全部僕のせいなのか。
いずれ来る衝撃に備えて目を閉じる。
「――――静和!」
背後から、彼の声が聞こえた。それが本当に彼のものなのか、落ちていく自分にはもう確かめようがない。
そういえば、彼に好きって言ってなかったな。
裏を返せば、彼にも明確な言葉をもらったことはない。
ただ、お互いに利用し合っていただけだ。自分に都合のいい言葉をかけてくれた彼を、僕は好きになった。彼は、自分が好みのタイプだと言っていた。ふたりの間に結婚のように明確な形はない。だから制約もない。依央が姉と親密になっても、自分には何も言えない。
……ならば、せめて。
彼に深い傷を残せないだろうか。目の前で死んだ、わずかな期間でも想いあっていた相手として。
このまま忘れ去られるのは嫌だった。
見ていてほしかった。死にゆく僕を、ずっと。
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