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第69話 寂しがり
ありのままの姿を受け入れてもらえると考えるほど、ヴィオは無謀ではなく、臆病だった。それでいて、素の自分で愛してもらえたらと夢想するほどには、幼かった。
ヴィオという名は、生まれた時から決められていたように思う。少なくとも、物心ついた時から、自分が誰かに名乗る名はこれしかないと思っていた。そして、いつか誰かにそう呼んでもらえたら。
ヴィオがいたのは、暗く、湿っぽい牢獄だ。出口と思われる扉はあったけれど、そこから「ひとりでは」出られないということも本能で知っていた。ひとりで出たら、きっと陽の光を浴びて死んでしまう。自分は薄暗い場所で生きる生物なのだから、と。
そうなると、出られる場所はひとつしかない。牢獄の方の扉だ。扉の向こう、そのまた階段を上った上。そこからはたくさんの人がいる気配がある。足音がするし、耳をすませば話し声も聞き取ることができた。
しかし地下を抜け出すには、格子は狭く、細い触手一本ならまだしも、体全体がそこを通せるとは思えなかった。
鍵を持っているのは、牢獄の真上にある部屋に住む人間だ。鍵の在処と隠し扉に気づいて、以前に一度、ここを訪れたことがある。リュナに少し似ている人だった。しかし、中身はリュナと似ても似つかなかった。
彼は地下におり、目が暗闇に慣れるや否や、ヴィオの生来の姿を見て半狂乱に陥った。持っていたランプを投げつけ、この体を燃やそうとしたができなかった。自分は怖い生物じゃない。そう伝えたくて触手を伸ばす。しかし触れられる直前、彼は自分に、「近寄るな、化け物」と怒鳴った。その時、自分が「化け物」という名前に分類される生物だと、ヴィオは初めて知った。
それと同時に、男の小指が澱んで見える。汚いなと思った。だから洗うつもりで男の小指に触れたら、それは一瞬で切れた。肉片がぼとりと床に落ちる音を聞いた時、ヴィオはそれを「美味しそうだ」と思っていた。後から知ったことだが、この澱みは罪の在り処を指しているものらしい。だとしたら、男の罪は何らかの約束を破ったことだ。全て、リュナの呟きから推測したことだけど。
「ひぃいぃぃいぃっ!」
男は悲鳴をあげ、落ちた指を拾い上げることなく走り去った。ヴィオは触手を伸ばしてそれを拾う。丸め込んで体内に吸収する。うん、やっぱり美味しい。
後日、上の方からドタバタと人が移動する音がした。
――――急な引越しだな
――――空き部屋ならいくらでもあるだろ。こんなところにいられるか
男はどうやら引越しというものをしたらしい。それが何かヴィオには分からなかったが、その後二度と会うことはなかった。会えなくなることが引越しだろうか。
それから長い間、ヴィオはずっとひとりだった。 考える時間がたくさんあった。
今まで、自分がどんな姿をしているのかなんて考えたこともなかった。あの男の反応を思い出す。自分は、怯えるような、一目見たら二度目はごめんだと思うような姿をしているらしい。
それから、力についても考えた。自分が撫でようとしただけで、あの男の皮膚は、指は切れてしまった。撫でる、では駄目なのだ。もっとゆっくり、優しく、ちょっと触れる程度に留めておかなければ、自分と違う生物はすぐに壊れてしまう。
考えて、考えて、次に誰かが来た時は、もっと優しくしようと思った。そうしたら、外に出してもらえるだろうか。外はどんな世界なんだろう。胸を高鳴らせて待っていたのに、新しい人間は一向に現れない。地下に降りてくる足音は何度か聞いたが、どうにも途中で怖気づいてしまうらしい。
ヴィオは待った。彼本人には時間の感覚など無かったが、辛抱強く、長い時間を耐えた。来そうで来ない。そんな足音が聞こえる度に、がっかりした。何度も同じことが繰り返されると泣きそうになった。こんな気持ちを、なんて呼べばいいんだろう。
誰か来て。何かを言って。どんな言葉でもいいよ。おれを見て。たったひとりでいいんだ。もう時間が経ちすぎて、自分が本当にここに存在しているのかすら、分からなくなってきたから。たったひとりでいい。おれを見つけてくれる人がいるなら、もう少しだけ、この暗闇にも耐えられる気がするんだ。
何度もそう自分に言い聞かせ、どれくらいが経ったかも分からなくなった時、彼はやってきた。
ゆっくりと階段を降りる音は引き返すことなく、檻の前で止まる。
「……化け物」
その人も、前に来た男と同じ名前で自分を呼んだ。おれの名前は、本当はヴィオっていうんだけど。そう言いたいのに、上手く伝わらなかった。
「僕は、リュナといいます」
こちらの名前は知らないのに自分から名乗る。リュナは、前の人と違っていた。名前を教えてくれるし、悲鳴もあげない。
じつと見ていると、リュナはほとんど真っ黒だった。特に顔と手は、黒い靄に覆われてぼんやりしていた。洗い落としたら綺麗な人なんだろうとおもっていたが、前の男みたいに切ってしまう気もして止めた。
「君の力が必要なんだ」
リュナはこちらを見つめ、膝をついた。この時は何をしているんだろうと思ったが、どうやら、人間はお願いをする時に膝をつくらしい。人間の形を取れるようになってから知ったことだ。
「僕はなんの力も持っていません。それでも、せっかく生まれ変われたのだから……主人公になりたい。この世界に生きる意味がある、特別な存在になりたい。唯一無二の人間になりたい」
淡々とした声だった。言葉と声音から本心を読み取れるほど、ヴィオは成熟していない。なのに、彼は心からそう願っているのだと思えた。
「そのために……適当な宗教でも立ち上げようと考えています。僕は神の遣いを名乗る。貴方は神を演じてください」
リュナがヴィオに望んだことは簡単なことだった。
「地下は確か迷路になっていて……そこから、手を伸ばすんです。この場所に来たら灯りをしぼります。あとは、相手を脅かしてくれるだけでいい。たとえば、そうだな……死なない程度に痛めつけるとか。好きな箇所で構いません。貴方が汚いと、その人間の中で要らないと思った部分を、その手で切り落としてください」
だったら、黒いもやがかかっているところを切り落とそう。汚れも落ちて、切られた方も喜んでくれるかもしれない。といっても、リュナみたいに顔に靄がかかっている人は止めておくけど。だって、たぶん人間は顔と胴体を切り離したら動けなくなっちゃうから。
「連れてくるのは、僕の邪魔になりそうな者。そいつを排除して唯一無二になりたい」
唯一無二ってなんだろう。聞いたことのない言葉だったけど、そっと伸ばすと手をリュナは握り返してくれる。言葉の意味は分からないが直感する。これが唯一無二だ。
戯れのように伸ばした手に応えながら、リュナは何かを小声で呟いていた。
「意思の疎通ができる……とは言い難いか。だったら分かりやすく懐かせるのが手っ取り早い……?でもどうやって……僕が差し出せるものなんて……」
何度か言葉を巡らせてから、何かに気づいたようだった。相変わらず繋いだままの手をもう一度握る。膝を着いたまま、声を少し柔らかくして、ヴィオの肉塊に話しかける。
「お腹が空いてるなら、僕が食べ物を持ってきてあげる。自分で食べられる?」
彼が言っている食べ物というのは、先ほど切るように頼んできた人間のことだ。リュナはどうしてか、ヴィオに詳しかった。
しかし、そんなところまでこの時のヴィオは読み取れない。ただ、食べ物を持ってくるということは、また会いに来てくれるということだ。
「食べ物はあげる。その代わり、僕の力になってくれる?」
リュナが来たら声で分かるようになろう。ううん。足音だけで分かるのがいい。彼が来るのを、真っ先に感じ取れる自分でいたい。
この時、ヴィオは初めて未来を想像し胸を踊らせた。この気持ちを彼と分け合いたかった?そんな難しい理屈はない。ただただ嬉しくて、それを伝えたくて、彼の体をまさぐった。黒い靄の向こうに穴があるのを発見したので、そこに触手を突っ込んだ。
「ん……っ、んぅ……う……」
中は温かくてぬるぬるしていた。まさぐるように中を探ると、弾力のある何かに触れる。細い触手を軽く絡めてみると、彼の体がびくりと震えた。これは彼の口の中だ。そう思ったのも束の間、ヴィオはその場所を自分でいっぱいにすることに夢中になった。
気持ちいいからだ。まるで彼とひとつになれたような気がした。口だけじゃ足りない。自分が侵入できる場所から、彼の体内に入り込みたい。自分の粘膜で彼のすべてを覆い尽くしたい。考えただけで体のどこかが疼く気がした。もっとまさぐってみてもいいだろうか。でも慎重にやらないと。また前の男みたいにどこかを切り落としてしまうかもしれない。
理性と恍惚の狭間で夢中になっていると、何かの合図みたいに、彼が体を軽く叩いた。とても弱い力だった。
どうしたんだろうと思って、名残惜しいけれど口の中から触手を抜く。途端彼は咳き込んで唾液を吐き出した。苦しかったみたいだ。加減を誤ってしまったらしい。また間違えた。リュナも自分に会いに来てくれなくなったらどうしよう。そんなつもりじゃなかったと言いたくても、自分には口がない。
様子を伺うようにリュナの頭を撫でた、
彼ならこの手をとって「大丈夫だよ」と微笑んでくれるのではないかと、束の間の夢を見る。謝意を表す術も知らず、ただ罵られたり断罪されたりする時を待つしか無かった。
「人懐っこい……あるいは、寂しがりか……」
しかし、リュナはヴィオから逃げることなく、咳が落ち着くと、静かに呟いた。きっとヴィオのことを言っているんだろう。意味は分からない。寂しいがりという言葉は初めて聞いた。自分は寂しがり。きっとあのひとりで待ってた時間のことを、寂しがりっていう。リュナもそうだといいな。同じ寂しがりがふたりでいたら、きっと寂しくないと思うから。
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