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第30話 すれ違いの夜

「とりあえず、乾杯!」 「お疲れー」 「じゃ、いただきます」 グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が部屋に響いた。 炭酸の泡が弾ける音を聞きながら、俺はぼんやりと瑞樹の横顔を見ていた。 ――なんで、こいつは俺に絡んできたんだろう。 「“リョウ”のファンだった」とか言ってたけど、どうせ話のネタか、暇つぶしのひとつだ。 隣人が配信者だって知って、ちょっと面白がってるだけ。 そう思えば納得がいく。 ……けど。 仮に瑞樹が男女どっちでもいけるタイプだったとしても、俳優で、顔も良くて、仕事も順調で。 モテないはずがない。 彼女くらいいただろうし――。 なのに、なんで俺なんかと。 都合のいい“遊び相手”ってやつか? そんなことを考えてるのに、目の前の瑞樹は無防備に笑っていて。 その笑顔がやけに眩しく見えた。 後片付けを一緒にすることになって、瑞樹は真剣な顔で皿を洗っている。 袖をまくった腕。指先に伝う水。 濡れた前髪の隙間から覗く横顔は、やけに整っていて――思わず目が離せなかった。 ファンが見たら、発狂もんだな。 こんな姿、俺だけが見てるなんて。 「なに、ニヤついてんの?」 突然声をかけられて、ドキッとした。 「べ、別に。真面目な顔して皿洗ってる俳優、レアだなーと思って」 「これくらい普通でしょ」 ちょっと拗ねたように唇を尖らせて、また皿を洗い始める。 「ねぇ、涼太くん」 「ん?」 瑞樹の声のトーンが、少し変わった。 真剣な響き。 「相談があるんだけど」 「相談……? 何、俺で良ければ聞くけど」 「俺さ、今までに何人か女性と付き合ったことはあるけど――」 ……やっぱりな。 グラスを拭く手が、止まった。 胸の奥が、ギュッと締め付けられる。 「うん……で?」 声が、少しかすれた。 「俺、女の子、ダメみたい」 「……え?」 驚いて隣を見ると、瑞樹は俺の方を見ずに、スポンジを動かしながら淡々と続けた。 その横顔が、いつもより真剣で――ドキドキが止まらない。 「今、恋してるんだ」 「恋? マジで?」 瑞樹が”恋”。 その言葉だけで、胸の奥がざわついて、息が苦しくなる。 「その相手がさ、男なんだけど」 「……うん」 時が、止まった。 次の瞬間、手からグラスが滑り落ちた。 カシャン! と甲高い音が響く。 「おい! 大丈夫?!」 「あぁ……」 床に散らばった欠片を見つめながら、俺の中で何かが冷えていくのを感じた。 ――好きな人が、いる。 瑞樹が慌ててしゃがみ込む。 距離が、近い。でも、心は遠い。 「涼太くん、指! 切ってるじゃん!」 「平気だって」 ぶっきらぼうに答えると、瑞樹が不思議そうな顔をした。 「怒ってる?」 「別に」 「嘘。明らかに機嫌悪いじゃん」 瑞樹の手が、俺の手を掴む。 温かい。でも、それが余計に腹立たしい。 「……なぁ、瑞樹」 「ん?」 「好きな人いるくせに、俺にちょっかい出すなよ」 吐き捨てるように言うと、瑞樹の動きが止まった。 「え……?」 「俺のリスナーかファンか知らねぇけど、面白半分で遊ばれるの、マジで迷惑なんだけど」 声が、震えた。 悔しくて、情けなくて。 「ちょ、待って。涼太くん、何言って――」 「もういいよ」 瑞樹の手を振りほどいて立ち上がり、俺は背を向けた。 「涼太くん!」 瑞樹の声が、背中に突き刺さる。 「帰ってくれ。今日は、もう疲れた」 「待って、話を聞いて!」 「聞きたくない」 冷たく言い放つと、瑞樹が息を呑む気配がした。 「……俺、何か悪いこと言った?」 「悪いことしかしてねーよ」 振り返ると、瑞樹が困惑した顔で立っていた。 「好きな人がいるなら、最初からそう言えよ。俺、勘違いしちまったじゃねーか」 「勘違い……?」 瑞樹の目が、見開かれる。 「まさか、涼太くん――」 「もういい。帰れ」 俺は背を向けて、リビングを出た。 瑞樹の「待って」という声を無視して、自分の部屋に逃げ込む。 ドアを閉めた瞬間、膝から力が抜けた。 ――バカだな、俺。 期待なんて、するんじゃなかった。 リビングから、物音がする。 しばらくして、玄関のドアが開く音。 「……涼太くん」 小さな声が聞こえた。 「誤解だから。ちゃんと話させて」 「……」 「明日、また来る。絶対、話すから」 そう言って、ドアが閉まる音がした。 じんじんと痛む指を見つめながら、瑞樹の優しい手を思い出して――胸が苦しくなった。

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