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第4話

一体どれほどの時間が経ったのだろう。 憔悴しきって膝を抱えていたフィサは、部屋いっぱいに広がる光に目を瞬かせた。 淡い転移光が収束し、空気が震える。その揺らぎの中心から、影ひとつ揺らさず立つ男が現れた。 エプシアール家の執事――シグマ。 「シグマさん……! レーベが……っ、レーベがぁ……!」 声は涙で掠れ、足元は今にも崩れ落ちそうだった。 「フィサ様、大丈夫ですよ。」 シグマは淡々と告げる。 「ご連絡を頂いてから、まだ五分も経っていませんから。……そして、ごきげんよう。(わたくし)はシグマと申します。」 挨拶は丁寧だったが、その声の底は氷のように鋭い。 商人は舌打ちを漏らし、露骨に不快を示した。 「チッ……転移なんて便利なモン使いやがって。 たしかに、あんたみてぇな立場の人間がわざわざ出てくるとは思わなかったがな。 だとしても、出品の取り消しは認めねぇ。こいつは高値がつく。」 床に投げ出されたルヴェーグを見下ろし、鼻を鳴らす。 その横で、シグマも同じように冷ややかな視線を落としていた。 「えぇ、それは充分承知しております。」 シグマは柔らかく微笑む。 「ですから――買い取らせていただこうと参りました。」 「……ほぉ? で、いくら出すつもりだ?」 シグマは答えず、ゆるやかに片手を上げた。 ただそれだけの動きなのに、商人の眉がピクリと跳ね上がる。 一瞬。 風の流れすら止まったような静寂。 次の瞬間、商人の口元がいやらしく歪んだ。 裏社会でしか使われない、“闇市の等級サイン”。 「……はっ。そう来るかよ。」 商人は喉の奥で笑う。 「なるほどな。確かに元は取れそうだが──」 ゆっくりと細められる眼。 ほんのわずか、欲の色が滲む。 「“もっと吹っかけろ”って言ってるようにも聞こえるぜ?」 シグマは肩をすくめただけで、否定も肯定もしない。 そして、音もなく一歩前へ。 距離は商人の呼気がかかるほど近い。 シグマは、氷のように低く囁いた。 「……あなたの“ご友人”の件。 近衛兵へ報せなくてもよかったのでしょうか?」 空気が、きしりと音を立てて凍りついた。 「っ……! お、おい、それは…… 脅しってつもりか!? 俺はそんな――」 「脅しだなんて滅相もない。」 シグマは静かに、しかし逃げ場のない声で笑った。 「ただ“情報の共有”を申し上げるだけです。 ……もちろん、あなたが望むのであれば。」 ぽたり、と汗が落ちる。 その一滴のほうが、どんな怒声より重かった。 「……はぁ、わかったよ。」 商人は観念したように肩を落とした。 「その値で売ろう。金より身の方が大事だ。」 「ご理解いただき、感謝いたします。」 シグマは優雅に一礼する。 「では……料金はこちらに。手枷の鍵も、お返しいただけますね?」 商人は憎々しげに鍵を放った。 「持ってけ。さっさと出ていけ。」 鍵が床を転がった瞬間、 シグマの雰囲気は再び変わる。 先ほどまでの完璧な所作が嘘のように、 気だるそうにしゃがみ込み、 淡々と、しかしどこか呆れたようにルヴェーグの身体に触れた。 「……意識こそありませんが、命に別状はありませんね。」 シグマは短く息を吐いた。 その声音には安堵でも怒りでもなく、どこか物足りなさが滲んでいる。 「……はぁ、残念です。」 意味が掴めず戸惑うフィサをよそに、 シグマはすぐ立ち上がり、涙で顔を濡らしたフィサへ静かに視線を向けた。 「フィサ様。ルヴェーグ様にかけられている手枷を外してください。 私は転移の準備をいたします。」 フィサの指先は震え、鍵は何度も空を擦った。 乾いた金属音が部屋へ響き、頬を伝う涙がぽたりと落ちる。 深く眠らされ、まるで命の気配だけがかすかに残されたようなルヴェーグの胸元へ顔を寄せ、 フィサはか細い声で呟いた。 「すみません……ほんとうに……ごめんなさい……」 シグマは小さく息を吐く。 先ほどより、ほんの少しだけ柔らかさを含んだ呼吸だった。 静かに膝をつき、フィサの視線の高さに身を落とす。 鉄仮面のような無表情がわずかに緩み、低く囁かれた。 「そんな顔をされると、私まで罪悪感を覚えてしまいます。 時間なら、これからたっぷりございますから。……ほら、立てますか?」 フィサが小さく頷くと、シグマは迷いなく立ち上がり、 無言のまま転移陣へ手を伸ばした。 (まったく……我が主ながら、妬けてしまう。) ひどく静かで、心の底からの独白だった。 「では――参りましょう。」 柔らかな光が三人を包み、 倉庫の薄闇は、一瞬にして元の静寂へ沈んでいった。  ◆ ◆ ◆ 光が完全に消え失せたあと、 商人はふらりと壁へ手をつき、深いため息を漏らす。 「……せっかく用意した資料も全部パァかよ…… あの交渉人になんて言われるやら……」 悪態をつきながら、重い足取りで倉庫を後にした。

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