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後日談 1話
朝の光がやわらかく差し込む部屋で、
フィサはメイドに身支度を整えてもらっていた。
何気ない朝だった。
本当に──ふっと胸に小さな引っかかりが宿っただけだった。
「……あの、少し聞きたいんですけどいいですか?」
メイドが手を止め、優しく微笑む。
「どうなさいました、フィサ様?」
「その……例の日の、シグマさんのことで……。
なにか変わった様子って……ありませんでしたか?」
「変わった様子……ですか?」
メイドは首を傾げる。
「特には……。いつも通りでいらっしゃいましたが。」
「そ、そうですか……? えっと……僕とレーベが二人きりで出かけたあととか……」
「お出かけのあと……?」
困ったように指先を合わせる。
「申し訳ございません、私どもは出先でのご様子までは……」
フィサは瞬きをした。
「……え? 出先……?
シグマさんって、あの日は“別件がある”って、屋敷に残ったんじゃ……?」
メイドはぽかんとした表情で答えた。
「いえ……たしか、おふたりの馬車にご同行なさっていましたよ?」
胸の奥で、なにかがかすかに弾けた。
身支度が終わると、フィサはほとんど駆け足で廊下へ出た。
向かった先は──シグマのいる執務室。
「シ、シグマさん……!」
「どうかなさいましたか?」
淡々と書類に目を通していたシグマが顔を上げた。
フィサは息を整える暇もなく切り出す。
「僕が騙されてしまった日……
シグマさん、“別件があるから屋敷に残る”って……そう言いましたよね?」
「……あぁ。」
軽く目を伏せる。
「そのようなことを言ったかもしれませんね。」
「でも……メイドさんは……
シグマさんも僕たちと一緒に出かけたって……!」
短い沈黙のあと、シグマはごくわずかに首を傾けた。
「………………えぇ。
どんなことが起こるだろうかと思って……
“離れてついていった”のです。」
胸の奥がぎゅ、と痛む。
「じゃっ……じゃあ……!
途中で止めてくれても良かったじゃないですか……!!」
叫びに近い声。
怒りよりも、怖さの方が強かった。
シグマは小さく息をつき──
少しだけ困ったように目を細めた。
「……申し訳ございません。
あの時は……好奇心が勝ってしまいまして。」
「こ、好奇心って……!」
「ですが。」
声がすっと低くなる。
「フィサ様。
私があの場で止めなかったからこそ……
ルヴェーグ様は“売り物”として扱われ、
生きて戻ることができたのも、紛れもない事実なのですよ。」
フィサは息を飲む。
「襲撃が失敗したと判断されれば──
“騙し続けて足元をすくう”よりも、
ルヴェーグ様の命を奪う方が、彼らにとっては手っ取り早い。」
「……っ……そんな……」
「えぇ。残酷ですが、彼らにとっては当然の思考です。」
フィサが涙をこらえるように俯くと、
シグマはほんの一瞬だけ眉を寄せた。
「フィサ様……そのようなお顔をなさらないでください。」
静かに歩み寄り、影のある笑みを落とす。
「……私が止めなかったことは、たしかに罪深い選択でした。
ですが、そのおかげで……ルヴェーグ様は今もあなたのそばにいる。」
さらに静かに、しかし確固たる想いを含んで囁く。
「……もし、本当に……ルヴェーグ様といるのが辛くなってしまった時は……
私のところへお越しください。
私なら……あなたを、そんな顔にはさせません。」
その瞳には、決して越えぬと分かっている一線を、
それでも踏み越えたいと願うような影が揺れていた。
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